第51話 嵐の到来

 窓から顔を突き出すようにして上空を見上げる。

 黒雲が空を覆い尽くしつつあった。

 風が出てきている。肌寒さを感じ、麒翔きしょうは窓を閉めると、乱れた髪をぞんざいに整えながら後ろを振り向いた。


 ――目の前に、学園一の美少女が立っていた。

 と思ったら、公主様だった。


 その浮世離れした美貌びぼうには未だ慣れず、気恥ずかしくてなかなか直視できない。しかも公主様は相変わらず距離感がバグっていて、めちゃくちゃ近くに立っていた。


 予鈴の鐘が鳴り、女子生徒たちが駆け足で通り過ぎてゆく。


 本校舎二階。一限目の授業が始まろうかという頃。廊下には多くの生徒たちが行き交っている。そこへ立ち塞がった公主様が、乏しい顔のままずいっと一歩近寄ってきたので、反射的に麒翔きしょうは一歩後退していた。するともう一歩、遠慮なく踏み込んでくる。パーソナルスペースを一瞬で侵犯するその縮地しゅくち術に、もう一歩後ろへ――


 ゴンッ!

 さっきまで外の天気を眺めていたのだから、後ろへ下がれば当然窓がある。不運にも少しズレて、ぶつけたのは硬い窓枠だった。


「ってえ


 脳髄のうずいしびれるような痛みが走り、麒翔きしょうは後頭部を押さえてうめいた。

 その醜態しゅうたいをきょとんとした顔で眺めていた公主様が、不思議そうに首を傾げる。


「どうした?」


 言外に「何をそんなに慌てているんだ?」というニュアンスが含まれているような気がして、麒翔きしょうは内心で焦る。


(まさかキスをされると思った、なんて言えるわけがねえ)


 昨夜の熱がぶり返してくるようだった。顔が熱くなるのを感じる。

 発情期でもあるまいし、昼間から欲情するなんて恥ずかしい。麒翔きしょうは視線を斜めにそらし、必死に言い訳を考えた。と、そこであることを思い出し、


「そういえば、洗濯前の龍衣が見当たらないんだが――」


 知らないか? と問う前に、今度は公主様の視線がすっと遠方へそれた。あからさまに目が泳いでいる。


「おい。まさかおまえの仕業じゃないだろうな」

「なんの話だ」


 口調こそ平静を装っているが、右に左に目が泳ぎに泳いでいる。それはもう白々しいぐらいにバタ足していた。


「昨日寝る前に、洗濯前の龍衣をベッドの上へ置いておいたんだよ。けど、おまえが部屋を辞した後、俺はすぐに疲れて寝ちゃって……朝起きたらなくなってた」


 目を合わせようとしない公主様の瞳を覗き込もうとすると、すーっと反対側へ黒目だけが逃げていく。普段のポーカーフェイスは健在だが、よくよく観察してみると顔も少し赤らんでいるようだ。顔を伏せずに正々堂々としているところなんかは、実に彼女らしいのかもしれないが、露骨に目が泳いでしまっていては意味がない。


 麒翔きしょうは呆れて吐息といきする。


「もはや取りつくろう気ないだろ、それ」

「取り繕う必要などない」

「だったらどうして俺の龍衣を盗んだんだ」

「盗んでなどいない! せ、洗濯。そう洗濯するために持ち帰っただけだ。夫の龍衣を洗濯するのは妻の務めだからな」


 言葉とは裏腹に、渦を巻くみたいに公主様の黒目がぐるぐる回っている。こんなに動揺する彼女を見るのは初めてだった。麒翔きしょうは少し意地悪く唇の端を持ち上げ、


「後ろ暗いことがないのなら、どうして目をそらす?」


 むうう、と唸った公主様はものすごく可愛かった。


「そんなことよりも!」


 ぶった切るようにして公主様が力技で話題を変えてきた。そして思いもよらぬ情報をもたらしたのだった。




 ◇◇◇◇◇


 午後。


 嵐の前兆なのか、強い風がビュウビュウと吹き荒れている。

 朝から不吉な黒雲に覆われていた空は、今にも雨が降り出しそうに渦巻いていた。


 下院・本校舎二階。

 廊下に嵌められた大きな窓は、強い風に当てられガタガタと鳴っている。どこかに隙間でもあるのか、校内に侵入した冷たい風が真っすぐ廊下を駆けてゆく。

 幅広の廊下には、教室と教室の区切りとなる位置に大きな石柱が立てられていて、少し離れた場合、その陰は人目に触れぬ死角となる。


 日の出ていない薄暗い昼下がりの午後。分厚い黒雲のせいなのか、夕暮れを思わせる闇に包まれている。


 そんな中、石柱の陰で男女がもつれ合っていた。


「きゃっ!? ちょっと翔く――むぐぐー」


 おしゃべりな口を手で塞ぎ、小さな身体を壁に押し付けるようにして黙らせる。短くカットされた栗色の髪がふわりと舞って、少女の溌剌はつらつとした匂いが鼻をかすめた。茶色の瞳が涙をたたえて上目にこちらを見上げているが、麒翔きしょうはそれを無視して抱きしめるように身体を密着させた。龍衣の布越しに桜華の体温が伝わってくる。


 ん-んー、と桜華がうるさい。


「静かにしろ」

「ん-んー」


 ジタバタと桜華が暴れる。ダンダンと肘で壁を叩きつける音がやかましい。麒翔きしょうは更に身体を密着させ、覆いかぶさるようにしてその動きを強引に封じた。桜華の顔が真っ赤に染まり、身体だけでなく首まで振って全力で抗おうとする。


「だから静かにしろって」

「ん-ん-」


 激しい抵抗を力づくで押さえつけ、麒翔きしょうはドスの利いた低い声で言う。


「騒ぐな」


 ビクッと桜華の顔が強張こわばった。その耳元でささやくように選択をうながす。


「騒がないって約束するなら外してやる。どうする」


 涙目の桜華はコクコクと首を縦に振った。

 だが、すぐには解放しない。柱の影から顔だけ出して、注意深く廊下の先を盗み見る。異常がないことを確認して、麒翔きしょうはホッと安堵した。桜華の口からそっと手を外してやる。


「翔くんのエッチ」

「は?」


 赤らんだ顔でうつむき加減に批難され、そこでようやく桜華を強く抱きしめていたことに気が付き、麒翔きしょうは赤面して素早く離れた。

 涙目となった桜華から上目遣いに刺すような視線が送られてくる。


「女の子だったら誰でもいいんだ」

「なんでだよ!?」

「だって襲ってきたじゃん」

「な、ちがっ」


 口を押えて腕を取り、壁に押し付けるようにして抱きしめた――よく考えてみると、これは襲ったと解釈されても仕方のない行為である。その自覚が芽生えた途端、カァーっと顔面に血が上り、際限なく熱くなるのを麒翔きしょうは感じた。


 混乱する頭でなんとか言い訳を考える。と、


「陽ちゃんから乗り換える気?」

「んがっ」


 クリティカルヒット。


 普段の小悪魔らしさは鳴りを潜め、大真面目な顔の桜華。

 その本気が伝わってきたからこそ、麒翔きしょうは大きく動揺した。ゆえに、彼は反射的に最も愚かな返しをしてしまった。


「おまえの体になんか興味ねえよ」


 桜華の目がすっと冷たく細められた。その警告に気付かないまま、麒翔きしょうは愚を重ねた。


「だいたい、出るとこ出てないから抱きしめてるってわからなかっ――ぐはっ」


 鳩尾みぞおちに桜華の右拳がめり込んだ。かなり本気のパンチである。魔獣程度なら肉塊にできる威力。要するにめちゃくちゃ痛い。

 肺から空気が吐き出され、唾液だえきが口の中を広がり満たした。プルプルと足は震え、その場に膝を付きたくなる衝動に駆られるも、麒翔きしょうはなんとか耐えた。


「あ……ぐ……、桜華……て、め」


 なんとか捻りだした抗議を黙殺し、桜華はもう一度右拳を麒翔きしょうの腹部へ叩き込む。真顔となった桜華の静かなる攻撃。無言のまま、何度も何度も。


 だが、不意打ちの一発目こそクリーンヒットをしたが、二発目以降はしっかり腹筋を固めてガードしている。鍛え抜かれた龍人の腹筋は、石柱よりも硬い。だというのに、サンドバッグのように何度も殴られて、ようやく彼女が本気で怒っていることを悟ることのできた朴念仁ぼくねんじんは白旗を上げた。


「わかった。桜華。悪かった。俺が悪かったから」


 腹に拳を打ち込まれた瞬間、その手首を捕まえる。桜華の拳頭けんとうは皮がけ、真っ赤にれていた。


「女の子を押し倒しておきながら、ひどい言い草じゃん。反省しろー」


 むくれた桜華が涙声で言った。


 押し倒してない――と麒翔きしょうは反論したかったが、涙目となった彼女の発する圧が尋常じんじょうではなかったため、口をパクパクとやり何も言えずにそのまま閉じた。代わりにハンカチを取り出し、皮の剥けた拳に巻いてやる。


「悪かったよ。だけど桜華がいきなり大声出すから」

「へー。翔くんは大声だしたら押し倒すんだ」

「だから違うって。話を聞け」

「ふーん?」


 半目となった桜華が、疑惑の視線を送ってくる。


「翔くん。素直に認めよっか。わたしの魅力に欲情しちゃったんでしょ」

「は?」

「そっかー。まだ熟れてない未成熟なわたしの身体をむさぼりたかったんだね」

「ちげーよ!? だいたい――」


 女の色香漂う黒陽ならまだしも桜華で欲情するはずがないだろ――と言いかけて、麒翔きしょうは口を噤んだ。鋭利な殺気を肌で感じたためである。

 不自然なほどに、にこやかな笑みを作って桜華が言う。


「だいたい?」

「ああ、いや。俺とおまえはそういう関係じゃないだろ」

「だから誰でもいいんでしょ」


 プイッと栗毛がそっぽを向いた。

 むすーっと不機嫌なオーラが全身からにじみ出ている。邪神を呪い殺す勢いの負のオーラに当てられ、麒翔きしょうは今すぐ逃げ出したい気分になった。が、今後の円滑な交友関係を考えると、誤解は解いておかなければならない。


「だ・か・ら! 忘れたのか。あの日、黒陽が言ったことを」

「なんの話?」


 黒雲が冷気を運んできたのか、昨日までの暑さが嘘のように肌寒い。ポツポツと雨が降り出したようで、窓ガラスに当たった雨粒が小さな音を立てている。


 静寂の支配する無人の廊下を改めて見回し、麒翔きしょうは大きなため息をつく。


「お守り、貰ったろ。ちゃんと持ってるか?」

「う、うん」


 そう言って、桜華は首から下げていた鎖を引き寄せて、魔法陣の描かれた円形のタリスマンを胸元から取り出した。それは邪を払うお守りだった。


「絶対に外すなよ。風呂に入ってる時も、寝る時もだ」

「もー、わかってるよ。何度もしつこいなー」

「絶対わかってないだろ。危機感なさすぎなんだよ、おまえは」


 学園への武器の持ち込みは禁止である。真剣はもちろん、魔術増幅用の装身具も同様。このタリスマンは防御用の装身具であり、厳密にいえば武器ではなく防具に当たるが、校則に抵触する可能性が高い。だがそのリスクを冒してでも、所持するべきだと言って公主様が用意したのが、このタリスマンである。


「ちなみにそれ一つで豪邸が建つそうだ。絶対になくすなよ」

「そんな貴重な物、持っていたくないよぉ……」

「それだけ危険だってことだ。黙って持っとけ」

「うー、なんでそんなに心配するかなぁ……あれって仮定の話でしょ」

「いいや、違う。昨夜、女子生徒が行方不明になったの知らないだろ」

「え?」


 雨脚が強くなったのか、窓に打ち付けられる音が次第に激しくなっていく。静寂の廊下にボツボツと大粒の雨がぶつかる音だけが響き渡る。


「黒陽からの情報だから間違いない。まだ一般の生徒は知らないと思う」


 桜華の声に緊張が帯びる。


「それってまさか……」


 緊張から麒翔きしょうは口の渇きを感じた。舌で唇を湿らせ、


「あいつが生きてたんだ」


 桜華の顔が蒼白に変わっている。おそらく自分も同じだろうと麒翔きしょうは思う。


「嘘。あの子は……あの子は死んだはずだよ」

「いいや、死んでいなかった。黒陽が言っていたことは正しかったんだ」

「でも、だって……だって…………」

「わかってるだろ。龍皇陛下の縄張りで生徒が一人消える、その意味を」


 言葉を呑む桜華。


「龍皇陛下の縄張りでやんちゃする命知らずなんて、他にいるはずがない。あいつが生きていたんだ。それ以外に考えられない」

「でも、あの子は翔くんが……」

「そうだ。俺が殺した。だけど生きていたんだ」

「体を真っ二つにされて生きてたっていうの? あの子が……アリスが!」

「いいや、もうわかってるだろ。あれはアリスなんかじゃない」


 強風による横殴りの雨が激しく窓に打ち付けられる。

 その時、黒雲にピカッと光が差した。数秒置いて、雷鳴らいめいとどろき静寂を切り裂く。


「エレシア・イクノーシス」


 桜華がその名を呟いた。

 再度、一瞬だけ闇を払うように黒雲が明滅した。大気を震わせる轟音ごうおんが響き渡る。


 麒翔きしょうの思考は、あの日――獣王の森から脱出を果たした直後の刻へ飛んだ。

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