第51話 嵐の到来
窓から顔を突き出すようにして上空を見上げる。
黒雲が空を覆い尽くしつつあった。
風が出てきている。肌寒さを感じ、
――目の前に、学園一の美少女が立っていた。
と思ったら、公主様だった。
その浮世離れした
予鈴の鐘が鳴り、女子生徒たちが駆け足で通り過ぎてゆく。
本校舎二階。一限目の授業が始まろうかという頃。廊下には多くの生徒たちが行き交っている。そこへ立ち塞がった公主様が、乏しい顔のままずいっと一歩近寄ってきたので、反射的に
ゴンッ!
さっきまで外の天気を眺めていたのだから、後ろへ下がれば当然窓がある。不運にも少しズレて、ぶつけたのは硬い窓枠だった。
「っ
その
「どうした?」
言外に「何をそんなに慌てているんだ?」というニュアンスが含まれているような気がして、
(まさかキスをされると思った、なんて言えるわけがねえ)
昨夜の熱がぶり返してくるようだった。顔が熱くなるのを感じる。
発情期でもあるまいし、昼間から欲情するなんて恥ずかしい。
「そういえば、洗濯前の龍衣が見当たらないんだが――」
知らないか? と問う前に、今度は公主様の視線がすっと遠方へそれた。あからさまに目が泳いでいる。
「おい。まさかおまえの仕業じゃないだろうな」
「なんの話だ」
口調こそ平静を装っているが、右に左に目が泳ぎに泳いでいる。それはもう白々しいぐらいにバタ足していた。
「昨日寝る前に、洗濯前の龍衣をベッドの上へ置いておいたんだよ。けど、おまえが部屋を辞した後、俺はすぐに疲れて寝ちゃって……朝起きたらなくなってた」
目を合わせようとしない公主様の瞳を覗き込もうとすると、すーっと反対側へ黒目だけが逃げていく。普段のポーカーフェイスは健在だが、よくよく観察してみると顔も少し赤らんでいるようだ。顔を伏せずに正々堂々としているところなんかは、実に彼女らしいのかもしれないが、露骨に目が泳いでしまっていては意味がない。
「もはや取り
「取り繕う必要などない」
「だったらどうして俺の龍衣を盗んだんだ」
「盗んでなどいない! せ、洗濯。そう洗濯するために持ち帰っただけだ。夫の龍衣を洗濯するのは妻の務めだからな」
言葉とは裏腹に、渦を巻くみたいに公主様の黒目がぐるぐる回っている。こんなに動揺する彼女を見るのは初めてだった。
「後ろ暗いことがないのなら、どうして目をそらす?」
むうう、と唸った公主様はものすごく可愛かった。
「そんなことよりも!」
ぶった切るようにして公主様が力技で話題を変えてきた。そして思いもよらぬ情報をもたらしたのだった。
◇◇◇◇◇
午後。
嵐の前兆なのか、強い風がビュウビュウと吹き荒れている。
朝から不吉な黒雲に覆われていた空は、今にも雨が降り出しそうに渦巻いていた。
下院・本校舎二階。
廊下に嵌められた大きな窓は、強い風に当てられガタガタと鳴っている。どこかに隙間でもあるのか、校内に侵入した冷たい風が真っすぐ廊下を駆けてゆく。
幅広の廊下には、教室と教室の区切りとなる位置に大きな石柱が立てられていて、少し離れた場合、その陰は人目に触れぬ死角となる。
日の出ていない薄暗い昼下がりの午後。分厚い黒雲のせいなのか、夕暮れを思わせる闇に包まれている。
そんな中、石柱の陰で男女がもつれ合っていた。
「きゃっ!? ちょっと翔く――むぐぐー」
おしゃべりな口を手で塞ぎ、小さな身体を壁に押し付けるようにして黙らせる。短くカットされた栗色の髪がふわりと舞って、少女の
ん-んー、と桜華がうるさい。
「静かにしろ」
「ん-んー」
ジタバタと桜華が暴れる。ダンダンと肘で壁を叩きつける音がやかましい。
「だから静かにしろって」
「ん-ん-」
激しい抵抗を力づくで押さえつけ、
「騒ぐな」
ビクッと桜華の顔が
「騒がないって約束するなら外してやる。どうする」
涙目の桜華はコクコクと首を縦に振った。
だが、すぐには解放しない。柱の影から顔だけ出して、注意深く廊下の先を盗み見る。異常がないことを確認して、
「翔くんのエッチ」
「は?」
赤らんだ顔でうつむき加減に批難され、そこでようやく桜華を強く抱きしめていたことに気が付き、
涙目となった桜華から上目遣いに刺すような視線が送られてくる。
「女の子だったら誰でもいいんだ」
「なんでだよ!?」
「だって襲ってきたじゃん」
「な、ちがっ」
口を押えて腕を取り、壁に押し付けるようにして抱きしめた――よく考えてみると、これは襲ったと解釈されても仕方のない行為である。その自覚が芽生えた途端、カァーっと顔面に血が上り、際限なく熱くなるのを
混乱する頭でなんとか言い訳を考える。と、
「陽ちゃんから乗り換える気?」
「んがっ」
クリティカルヒット。
普段の小悪魔らしさは鳴りを潜め、大真面目な顔の桜華。
その本気が伝わってきたからこそ、
「おまえの体になんか興味ねえよ」
桜華の目がすっと冷たく細められた。その警告に気付かないまま、
「だいたい、出るとこ出てないから抱きしめてるってわからなかっ――ぐはっ」
肺から空気が吐き出され、
「あ……ぐ……、桜華……て、め」
なんとか捻りだした抗議を黙殺し、桜華はもう一度右拳を
だが、不意打ちの一発目こそクリーンヒットをしたが、二発目以降はしっかり腹筋を固めてガードしている。鍛え抜かれた龍人の腹筋は、石柱よりも硬い。だというのに、サンドバッグのように何度も殴られて、ようやく彼女が本気で怒っていることを悟ることのできた
「わかった。桜華。悪かった。俺が悪かったから」
腹に拳を打ち込まれた瞬間、その手首を捕まえる。桜華の
「女の子を押し倒しておきながら、ひどい言い草じゃん。反省しろー」
むくれた桜華が涙声で言った。
押し倒してない――と
「悪かったよ。だけど桜華がいきなり大声出すから」
「へー。翔くんは大声だしたら押し倒すんだ」
「だから違うって。話を聞け」
「ふーん?」
半目となった桜華が、疑惑の視線を送ってくる。
「翔くん。素直に認めよっか。わたしの魅力に欲情しちゃったんでしょ」
「は?」
「そっかー。まだ熟れてない未成熟なわたしの身体を
「ちげーよ!? だいたい――」
女の色香漂う黒陽ならまだしも桜華で欲情するはずがないだろ――と言いかけて、
不自然なほどに、にこやかな笑みを作って桜華が言う。
「だいたい?」
「ああ、いや。俺とおまえはそういう関係じゃないだろ」
「だから誰でもいいんでしょ」
プイッと栗毛がそっぽを向いた。
むすーっと不機嫌なオーラが全身から
「だ・か・ら! 忘れたのか。あの日、黒陽が言ったことを」
「なんの話?」
黒雲が冷気を運んできたのか、昨日までの暑さが嘘のように肌寒い。ポツポツと雨が降り出したようで、窓ガラスに当たった雨粒が小さな音を立てている。
静寂の支配する無人の廊下を改めて見回し、
「お守り、貰ったろ。ちゃんと持ってるか?」
「う、うん」
そう言って、桜華は首から下げていた鎖を引き寄せて、魔法陣の描かれた円形のタリスマンを胸元から取り出した。それは邪を払うお守りだった。
「絶対に外すなよ。風呂に入ってる時も、寝る時もだ」
「もー、わかってるよ。何度もしつこいなー」
「絶対わかってないだろ。危機感なさすぎなんだよ、おまえは」
学園への武器の持ち込みは禁止である。真剣はもちろん、魔術増幅用の装身具も同様。このタリスマンは防御用の装身具であり、厳密にいえば武器ではなく防具に当たるが、校則に抵触する可能性が高い。だがそのリスクを冒してでも、所持するべきだと言って公主様が用意したのが、このタリスマンである。
「ちなみにそれ一つで豪邸が建つそうだ。絶対になくすなよ」
「そんな貴重な物、持っていたくないよぉ……」
「それだけ危険だってことだ。黙って持っとけ」
「うー、なんでそんなに心配するかなぁ……あれって仮定の話でしょ」
「いいや、違う。昨夜、女子生徒が行方不明になったの知らないだろ」
「え?」
雨脚が強くなったのか、窓に打ち付けられる音が次第に激しくなっていく。静寂の廊下にボツボツと大粒の雨がぶつかる音だけが響き渡る。
「黒陽からの情報だから間違いない。まだ一般の生徒は知らないと思う」
桜華の声に緊張が帯びる。
「それってまさか……」
緊張から
「あいつが生きてたんだ」
桜華の顔が蒼白に変わっている。おそらく自分も同じだろうと
「嘘。あの子は……あの子は死んだはずだよ」
「いいや、死んでいなかった。黒陽が言っていたことは正しかったんだ」
「でも、だって……だって…………」
「わかってるだろ。龍皇陛下の縄張りで生徒が一人消える、その意味を」
言葉を呑む桜華。
「龍皇陛下の縄張りでやんちゃする命知らずなんて、他にいるはずがない。あいつが生きていたんだ。それ以外に考えられない」
「でも、あの子は翔くんが……」
「そうだ。俺が殺した。だけど生きていたんだ」
「体を真っ二つにされて生きてたっていうの? あの子が……アリスが!」
「いいや、もうわかってるだろ。あれはアリスなんかじゃない」
強風による横殴りの雨が激しく窓に打ち付けられる。
その時、黒雲にピカッと光が差した。数秒置いて、
「エレシア・イクノーシス」
桜華がその名を呟いた。
再度、一瞬だけ闇を払うように黒雲が明滅した。大気を震わせる
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