第47話 公主様、ここ男子寮ですよ?

 全身の汗をタオルでぬぐい替えの龍衣りゅういに腕を通す。

 男子用の青と白の龍衣。装飾には銀糸が使われているので、女子のものと比べると少し地味な感は否めない。

 夏の季節は終わりを迎えたとはいえ、それはこよみ上のこと。まだ残暑は厳しく、夜には汗ばむほど蒸し暑い。


 龍人は汗をかきにくい種族であるが、半龍人の麒翔きしょうは面倒なことに人間に近い発汗はっかんをする。学園で一日を過ごし、更に夜練を終える頃には要洗濯とあいなるわけである。特にこの季節、二日連続で着ようものなら、


「翔くん、ちょっと臭いよ」


 と、桜華に鼻をつままれて嫌な顔をされる始末。

 仕方がないので、他の生徒が寝静まった深夜、汚れた龍衣を一人でコソコソと洗濯するのが日課となっている。


 下院男子寮にある自室のベッドに要洗濯の龍衣を放り投げ、寝衣に着替えた麒翔きしょうはそっと吐息といきした。夜練に加えて、公主様の来訪によって随分と遅くなってしまった。


「結局、なんの用だったんだろうな」


 公主様は来訪理由を話してはくれなかった。その思わせぶりな態度が若干気になりはしたが、麒翔きしょうは追求しなかった。


 大きな欠伸あくびがでた。

 正直、もう眠りたいところだが、洗濯物がたまってしまうのは面倒だ。先延ばしにしたくないという意識と、睡眠を欲する本能との間に葛藤かっとうが生じる。


 誘惑に逆らえず、ベッドに寝転んでゴロゴロと転がってみる。すると唐突に本格的な睡魔すいまが襲ってきた。まぁいいか明日で――などと考えていると、ふいに部屋の扉が控え目にノックされた。


(こんな時間に誰だ?)


 時刻は深夜。日付はとっくに変わっている。

 男子寮に教師はいない。とすれば学生になるのだろうが、こんな時間に訪問してくる仲の良い男子生徒はいない。そもそも普通はもう寝ている時間だ。


 無視しようかとも思ったが、控え目だったノックの音が、だんだんと催促さいそくするように大きくなってきたのを感じて、麒翔きしょうは仕方なしにベッドから身を起こした。


 右手にドアノブを掴み、そっと開けると――


 黒髪の美人幽霊が立っていた。


 と思ったら、公主様だった。彼女はうつむき加減で顔にかかっていた前髪をすくいあげ、白い顔を近づけてきて言った。


「入れてくれ」

「いや、こえーよ」


 一瞬ではあったが、かなり本気でぎょっとした。下院の龍衣は白の割合が多く、ぱっと見で白装束に見えるので、なおさら心臓に悪い。感情の乏しい顔は、無念の内に死んだ女のように真っ白だ。


 公主様がぐいぐいと身を寄せて、ドアの隙間から入って来ようとする。

 その侵入をとっさに体でブロックすると、公主様は不満そうな顔をした。


「なぜ入れてくれない」

「いやいや、なんで当たり前のように入ろうとしてんだよ!?」

「こんなところで立ち話もなんだろう」

「一応ツッコんどくけど、それおまえが言うセリフじゃないからな」


 勝手にドアの隙間を広げ、さらなる侵入を試みる公主様。ぐいぐいと華奢な体を押しつけてくる。


「ちょっと待て、落ち着けって。胸があたってんだよ」

麒翔きしょうが邪魔をするのが悪い。どうして意地悪をする」

「悪いの俺かよ!?」


 男子寮は女子禁制である。

 まさか夜這いに来たわけでもあるまい。ならば公主様は、一体いかなる理由でここにいるのか。そのことを伝えると、


「いいから早く入れてくれ。人に見られるとまずい」

「ああ。一応、校則違反だって認識はあるんだな……」


 堂々と校則違反してんじゃねえよ――と麒翔きしょうは思ったが、公主様が型破りなのは今に始まったことではないので、妙に納得がいってしまった。自分も大分毒されているなどと思いつつ、


「だったら入れるわけにいかないことぐらいわかるだろ。バレる前に戻れよ」

「校則違反を心配しているのか」

「それも心配だけど……それよりも、密室で二人きりになるのはまずいだろ」

「なぜだ」


 心底不思議そうに首を傾げる公主様を前に、麒翔きしょうはだんだんと頭が痛くなってきた。話が噛み合わないのはいつものことだが、どうしてこうも平然としていられるのか。世間知らずの公主様は、男の部屋に入る意味を理解していないらしい。


 とはいえ、たしかにこんなところで問答を続けるのはまずい。深夜のこの時間、男と逢引きしていたと取られかねない状況にある。もし見つかった場合、一番困るのは間違いなく彼女だ。名節が汚れるなんてレベルでは済まない。


「わかった。早く入れ」


 仕方なく部屋へ通す。狭い室内の中央まで進んだ公主様は、スンスンと鼻を動かした。大きく息を吸って、吐いて。能天気に深呼吸なんかしている。無防備で隙だらけの小さな背中。自由すぎるその姿勢に麒翔きしょう吐息といきする。


「おまえ本当に無頓着むとんちゃくだよな。さすがに心配になるぞ」


 公主様が振り返る。


「無頓着? なんの話だ」


 大真面目な顔でこう言うのだから、本気でわかっていないのだろう。箱入り娘ならぬ箱入り公主様である。麒翔きしょうは半ば本気で呆れた。


「男の部屋に入る意味。わかってないだろ」

「わかっているぞ。だからこうして緊張している」


 ポーカーフェイスというか、表情の乏しい公主様は普段どおりで、緊張しているようには見えない。余裕のある凛とした佇まいは健在だ。

 どう贔屓目ひいきめに見ても、男を理解しているとは思えない。


「あのな。校則違反を抜きにしても、深夜のこの時間、男女が一緒にいるというのは相当まずいだろ」

「なぜだ。私は構わないぞ」


 薄桃色の唇が誘惑するようにうごめいた。挑むように漆黒の瞳が上目遣いに向けられる。瞬間、理性のタガが一瞬で外れかけた。手を伸ばせば届く距離。学園一の美少女を前に、押し倒したい衝動に駆られるのは自然な成り行きだった。


「っんとうに、わかってねえな!」


 公主様の腕を引っ張り、強引にベッドへ押し倒す――シーンを想像して、かつて公主様の腕を取り、同じように脅したことを麒翔きしょうは思い出した。あの時は、痛烈なビンタをお見舞いされたが、今だったらどうなるのだろう。ふと試してみたい衝動に駆られるが、鋼鉄の自制心で抑え込む。雑念を振り払うようにかぶりを振り、


「好きな女を前にいつまでも我慢できると思うなよ。力比べとなったらさすがのおまえも分が悪い。こういう場合、身の危険を感じるべきだ」


 実際その気になれば、公主様をベッドに押し倒すことは可能だろう。その先だって麒翔きしょうには実行するだけの力がある。


「俺のことを信用してくれるのは嬉しい。だけど、おまえはあまりにも無防備すぎだ。俺だって一応は男なんだぞ。いつまでも安全だとは限らない」


 事実、理性はもう限界を迎えつつある。

 公主様はきょとんとした顔になって固まった。

 そして少考したのち、彼女は胸に手を当てると首を傾げた。真顔のまま、


「契りたいのか?」


 とんでもない爆弾を落としてきた。


「ばっ……」


 ただでさえ熱くなっていた顔の表面温度が、臨界点を突破して更に上昇するのを麒翔きしょうは感じた。「バカか、何言ってんだ」という言葉は喉で絡まって、くぐもった音が口から漏れただけ。


 言葉を絞りだせずに絶句する麒翔きしょうをよそに、あくまでマイペースに公主様は言う。


「契るとは、人間の言葉で言えばセッ――」

「言わなくていいよ!? わかってるよ!」


 金縛りから解けた麒翔きしょうが叫ぶように言うと、今度は公主様――なんと帯に手をかけ、しゅるると紐解いたではないか。まとまっていた衣がばらけて落ちて、はだけた白い胸元の膨らみについ目がいった。予想を超える不意打ちの数々に、麒翔きしょうの混乱メーターは一瞬で最大値を振りきって、頭の中で爆発する。


「おいおいおいおい! ちょっと待て! なんで脱いでるんだよ!?」

「? こうしなければ契れないだろう」

「可愛らしく小首傾げてんじゃねえよ!?」


 上衣うわぎぬを脱ぎ去り、はかまは床に落ちて彼女の足元に広がっている。

 薄い衣一枚の格好となった公主様。はだけた胸元に落ちた一筋の黒髪が、白い肌をより一層際立たせる。胸は生意気にもツンと張り、辛うじて衣で隠れた腰の辺りからは白い太ももが艶めかしく伸びている。その隠れた足の付け根がどうなっているのか、男なら想像せずにはいられない。そんな状況。


 生唾なまつばを飲み込む音が大きく感じられる。

 網膜もうまくからの刺激が強すぎて、麒翔きしょうの理性は本当に限界だった。


 けがれを知らぬ少女を汚してしまいたい――その衝動に、麒翔きしょうは固く握りしめた拳に爪を食い込ませ、出血の痛みでぎりぎり抗った。ぶるんぶるんと首を振り、美少女の誘惑を跳ね除け、目の前に立つ恋人の両肩に手を置くと、諭すように口を開く。


「一応言っておくけどな、黒陽。そういう冗談は笑えないぞ」

「冗談ではない。私が身を捧げるのはあなただけと決めている」


 ――接吻を交わして婚約とし、契りを結んで婚姻とする。

 契りを結べば婚約の先。次のステージへ進むことになる。


 胸に手をあてた公主様の顔は少しだけ上気していた。覚悟を決めたかのように、きゅっと薄桃色の唇が結ばれる。


「遅かれ早かれ捧げるつもりなのだから、今でも別に構わない」


 学園一の――否、世界一の美少女にここまで言われて何もしないとしたら、そいつは男ではない。断じて、男を名乗ってはいけない。

 だが、麒翔きしょうにはどうしても手をだせない理由があった。断腸だんちょうの思いで、血の涙を流しながら言葉を絞り出す。


「契りを結べば退学処分だ。そうなったらもうおまえをめとれない」


 学生の身分で婚姻を結ぶことは固く禁じられている。破れば即刻退学処分となり、そうなれば爵位を授与される機会は永遠に失われる。


「重罪人は爵位を剥奪され、無印となる。そして二度と爵位を賜ることはできない。そうだろ?」


 そしてそれは、学園を卒業できなかった場合も同様で、無印として扱われる。そうなれば本当に駆け落ちするしかなくなるだろう。あるいは、


「それとも、龍皇陛下の力ならなんとかできるのか?」


 この問いに、公主様はゆるゆると首を振った。そしてすごく残念そうにしょんぼりした顔になった。


「無理だ。さすがの父上でもそれはできない。この国の法――古くから伝わる龍人族のおきては父上でも曲げることができないのだ」


 いそいそと帯紐を締め直す公主様。

 ふと、麒翔きしょうは思った。今ならまだ間に合うぞ、と。華奢な体を抱き寄せて、ベッドへ押し倒すことは可能だ。そしてそれを公主様も望んでいる。

 時折、公主様からふわりと漂う良い匂い。密着して一つになったら、もっとはっきり感じとることができるだろうか。


 目の前の無防備な少女を前に、誘惑を絶ち切るのは相当な精神力が必要だった。

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