第46話 失われた秘術

 下院・女子寮。


 下院生徒総数450名中、女子生徒は375名となる。必然、女子寮の占める面積は男子寮のそれの五倍である。男子は全学年合わせて一つの建物に収まるが、人数の多い女子はそうはいかない。そのため女子寮は学年ごとに別れて全部で三棟となる。


 ここは一年生の使う女子寮。三階のとある一室。

 部屋はさして広くない。衣装箪笥いしょうだんすに勉強机、それに就寝用の簡素なベッド。


 そこは平民の暮らす民家といった様相である。が、そんなみすぼらしい空間には不釣り合いな少女が一人座している。彼女がいるだけで、殺風景さっぷうけいな空間に色彩しきさい豊かなはなやぎが付加されて、貧相な部屋をまるで貴族の屋敷であるかのように輝かせる。


 絶世の美女。類稀たぐいまれなる美貌びぼうを持つ少女――黒陽こくようは、パタンと一冊の本を閉じた。勉強机の上では、橙色のランプが淡く周囲を照らしている。表題には「属性因子継承論」とある。羊皮紙ようひしに書かれたメモを眺め、自身の構築した論理を頭の中で何度も反芻はんすうすると、黒陽は深々と頷いた。


「どうやら間違いなさそうだ」


 羊皮紙ようひしを折りたたみ、龍衣の袖へしまう。

 そこで、ふと思いついて窓辺へ寄る。小さな窓を開けると、真っ暗な空間から強い風が吹きつけた。黒陽の黒髪が乱れるようにはためく。


 黒陽は、今見つけたばかりの大発見を早く愛する人へ伝えるべきか逡巡しゅんじゅんした。特に急ぎの用というわけではないが、彼の喜ぶ顔を想像すると気持ちがはやってしまう。


 決断から行動に移るまでは早かった。


 窓枠に足を掛けることなく、軽く跳躍ちょうやくして飛び越える。三階の高さから、華奢きゃしゃな体が重力加速をともなって垂直に落ちていく。


 すとん。

 ほとんど足音を立てず優雅に着地。衝撃はマイルドに全身に響く。

 乏しい表情のまま、何事もなかったかのように黒陽はスタスタと歩き始める。内履うちばきのままだが、細かいことは気にしない。


「ふむ。気配はあるな。こっちか」


 夜風に当たりながら、散歩のつもりで庭園を回る。

 水のせせらぎが聞こえる。細い小川が、月を反射した池へ合流しているのが見えた。あそこで麒翔きしょうに敗れたのだ。つい一ヵ月前のことが鮮明に思い出され、懐かしく感じた。


 ふらりと寄り道し、黒龍石が立てられていた石造りの祭壇を通り過ぎる。鋭利に両断された黒龍石は下半分を残すのみとなっている。そう、あそこで黒陽は恋に落ちた。圧倒的な《剣気》を前に、自分の主に相応しいと確信したのだ。


 皇族、王族、上級貴族――血統付きの令息たちを相手取り、決闘を挑み続けて数年。無敗だった黒陽に唯一勝った男。それが麒翔きしょうだった。


 石畳いしだたみの道には外灯が設置されており、白く輝く光石こうせきが薄ぼんやり道を照らしている。闇に浮く石畳の道を歩いて行くと、麒翔きしょうと模擬戦で対決した白龍石はくりゅうせきでできた舞台が姿を現した。月明りで照らされた舞台は、青白く神秘的に輝いている。それはまるで演劇の舞台のよう。


「ん、なんだ黒陽か。こんなところで何してんだ」


 舞台の観覧席かんらんせきから声が掛けられた。黒陽は期待に振り向いた。


麒翔きしょう!」


 声が弾んでいた。麒翔きしょうは少し困ったように頭をかいた。

 乱れた前髪を黒陽は丁寧に整える。


「今日も夜練か。精が出るな」

「ん、まぁな。《気》の修練だけは怠るなって母さんに言われてるし。それにもっと強くならないといけないからな」


 まるで自分を娶るために頑張っていると言われたような気がして、黒陽は乏しい表情を緩ませる。と、そこで細い首筋を疑問に傾げて、


「模擬刀はもう使わないのか?」


 見れば、白い舞台に放り投げるように模擬刀が置かれていた。

 一メートルほどある観覧席の段差から飛び降りた麒翔きしょうが、手をグーパーさせながら歩み寄ってくる。黒陽の目の前までやってくると、彼は握りこぶしを差し出して、

 

「これが見えるか?」


 と、悪戯を思いついた子供のような顔で言った。

 言われるままに、黒陽は拳を注意深く凝視する。


 ――ただ拳を握っているようにしか見えない。


 黒陽が首を横に振ると、麒翔きしょうは得意げな顔になった。


「ま、そうだよな。これは《闘気》って言ってな。まぁ《剣気》の親戚みたいなもんだ。《剣気》と同じでその領域に達した者にしか見えないし、感じない」


 かつて、龍皇である父から聞いたことがあった。

 剣に《気》をまとわせ昇華しょうかさせると《剣気》となる。同じように拳に《気》をまとわせ昇華させると《闘気》になると。そして己が肉体を刃と化して戦うことを武術または格闘術と呼ぶ。


 だが、それは失われた秘術であったはずだ。武術では剣術には勝てない。だから廃れた。今では使う者はいないし、学園のカリキュラムからも除外されている。


「武術の修練をしているのか……?」


 ゆえに、黒陽の問いが疑わしげなものとなってしまうのも無理はなかった。


「いいこと教えてやろうか」


 麒翔きしょうがニッと笑顔を見せる。その彼らしからぬ無邪気な笑みに胸がドキリと跳ねた。黒陽は秘かに胸に手をあて、あくまで平静を装う。


「なにを教えて貰えるのだろうか」

「とりあえず、ここに座ってくれ」


 示されたのは、舞台のヘリである。言われるがままに腰をかけると、彼も同じように隣へ腰を下ろした。


「じっとしてろよ」

「――ひっ!?」


 背中に生暖かい感触が走り、黒陽は小さく悲鳴を上げた。


「き、麒翔きしょう? なにを」

「…………」


 それはてのひらだった。

 ゆっくり焦らすように背筋を生暖かいものがっていく。麒翔きしょうの掌だから不快感はないが、彼に触れられていると思うと胸の高鳴りが止まらなくなる。バクバクという音が、耳の内側から直接鼓膜こまくを震わせてくる。


 緊張に硬直する体。漏れる吐息といき


「ひゃうっ」


 変な声まで漏れた。黒陽は耳まで真っ赤になった。

 不意に掌の動きが腰の辺りで止まる。


「ふむ。ここら辺か」

「え?」


 それは生まれて初めて体験する不思議な感覚だった。

 全身の《気》が活性化して熱を帯びていく。体が火照り、白い肌に赤みがさしていくのが目に見えてわかった。そして髪の毛の一本一本にまで《気》は巡り、長く伸ばした黒髪が風もないのにゆらりと浮き上がる。全身の気脈を通して流れる《気》がうねり、甘い痺れを黒陽にもたらした。


「くっ、うぅ……」


 自然と口から吐息といきが漏れた。

 体の自由が徐々に失われていく。足に力が入らない。だが、麒翔きしょうに背中を支えられているからだろうか、不安を感じることはなかった。未知の感覚が黒陽を優しく包み込む。


「あっ、く……う……。これは」


 次第に体を巡る《気》の一部が、黒陽の意志に反して右手に集まり始めるのを感じた。薄ぼんやりと拳を《気》の膜が覆い始める。信じられないことが起きていた。


「馬鹿な! 私の《気》を操っているというのか!?」


 他人の《気》を操る。その規格外の非常識にさすがの黒陽も唖然あぜんとする。

 背中に触れていた手がそっと離された。すると拳に集まっていた《気》が秩序を失い、分散し始める。その喪失していくような感覚に、黒陽は名残惜しさを感じた。体の火照りも冷めていく。

 黒陽の腰を抱くようにしていた腕を離すと、麒翔きしょうは深呼吸するように息を吐いた。


「《剣気》と《闘気》。同じ《気》を源流げんりゅうとしながらも異なる性質を持つ、なるもの。両者を極めることで更なる高見へ達する道標みちしるべとなる。我が家の家訓だ。他の奴には内緒にしとけよ。二人だけの秘密な」


 人差し指を口元に当てて、しーっという動作。

 二人だけの秘密。その甘美かんびな響きにまた胸が熱くなった。


「今のがその高見というわけか」


「まだまだ発展途上だよ。《気》への理解が深まれば、今やって見せたように他者の《気》を操作できるし、そのまま《気》の流れを乱して体の自由を奪うことだってできる。それを見せたかっただけさ」


 他者の《気》を操作する。龍人族最強の男、父・黒煉こくれんでさえも、そのような非常識な真似はできない。だというのにこの男、何でもないことのように軽く肩をすくめている。


「あなたは自分の実力を過小評価しすぎだ」

「んなこたないさ。俺なんてまだまだヒヨッコだよ」

「そんなことはない!」


 思わず大きな声がでた。その声量に麒翔きしょうも目を丸くして驚いている。

 胸に手を当てると熱い鼓動を感じた。黒陽は乱れかけた呼吸を取り戻し、できるだけ平静を装う。


「これがどれほどすごいことなのか、あなたはまるでわかっていない」


 《剣気》と《闘気》などと簡単に言うが、常人が《剣気》を習得するのに百年はかかる。《剣気》と同じ高見に《闘気》があるのだとすれば、その二つを習得するだけでも相当な苦労があったはず。ましてや、同時に鍛えていくとなればなおさらである。


「毎日、修練しているのか」

「ああ。五歳の頃から毎日続けてる。母さんが厳しくてな。だから言われたとおり《気》の操作だけずっと……な。剣術はその過程で一緒に上達した」


 十年に渡るたゆまぬ努力の結果。


 が、それは才能なくして辿り着ける境地ではない。才能のある者が研鑽けんさんを重ねることで、ようやく到達可能な力の極致きょくちなのである。同じ天賦てんぷさいを持って生まれた身として、黒陽はそのことを誰よりも深く理解することができた。そして同時に、底知れぬ才能に無限の可能性を感じた。


 興奮から平静を装ったはずの顔が上気するのを感じて、それを隠すように視線を下へ。ドキドキが止まらない胸を手で押さえ、黒陽は話題を変えた。


麒翔きしょうの母上はどのような方なのだ」

「どんな人……か。そうだな。普段は温厚なんだけど、怒るとめちゃくちゃ怖い」

「温厚な人ほど、怒ると怖いものだ。私も父上からそう教えてもらった」

「ははっ。龍皇陛下にも怖いものがあるんだな」

破天荒はてんこうな人だったと聞いている」


 ポリポリと頬をき、天にきらめく月を麒翔きしょうが仰ぎ見た。


「へえ。そういや、俺の母さんも型破りな性格なんだよな。王都から来た役人がいたんだけどさ。王宮へ献上するって名目で、若い娘を強制的に召集しょうしゅうしようとしたことがあったんだ。で、アルガントの広場は大混乱に陥ったらしいんだけど、その現場に居合わせた母さんが、護衛の近衛騎士ごとボコボコにして撃退したらしいんだよ」

「ほう。豪胆ごうたんな母上じゃないか」

「ああ。単にブチギレ体質なだけかもしれないけどな」

「しかし、人間の社会はこちらとは勝手が違うのだろう? 問題にはならなかったのか?」

「それが不思議と大丈夫だったんだよな。なんでも俺が生まれる少し前に戦争があって、その時に母さんが大きな功績を残したらしいんだよ。だから領主様が庇ってくれたんじゃないかって、街では噂になってたな」


 本人が何も語ろうとしないので、噂の真偽は不明なのだと麒翔きしょうは言った。そして彼は、下を向いた黒陽の顔を覗き込むようにして、不審そうに首を傾げた。


「ところで俺に何か用なのか? 夜は出歩かない約束だったろ」


 来訪の理由を思い出し、黒陽は思案する。そして高鳴る胸の鼓動と火照った体を勘案かんあんし、とても甘美で魅力的な妙案みょうあんを閃いてしまった。


(そうだ。月明りがあるとはいえ、ここでは持参した資料を見てもらうことはできない。ならばこれは、決してはしたない真似などではない)


 そう自分に言い聞かせ、策を巡らせる黒陽は妖しく笑んだ。

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