第46話 失われた秘術
下院・女子寮。
下院生徒総数450名中、女子生徒は375名となる。必然、女子寮の占める面積は男子寮のそれの五倍である。男子は全学年合わせて一つの建物に収まるが、人数の多い女子はそうはいかない。そのため女子寮は学年ごとに別れて全部で三棟となる。
ここは一年生の使う女子寮。三階のとある一室。
部屋はさして広くない。
そこは平民の暮らす民家といった様相である。が、そんなみすぼらしい空間には不釣り合いな少女が一人座している。彼女がいるだけで、
絶世の美女。
「どうやら間違いなさそうだ」
そこで、ふと思いついて窓辺へ寄る。小さな窓を開けると、真っ暗な空間から強い風が吹きつけた。黒陽の黒髪が乱れるようにはためく。
黒陽は、今見つけたばかりの大発見を早く愛する人へ伝えるべきか
決断から行動に移るまでは早かった。
窓枠に足を掛けることなく、軽く
すとん。
ほとんど足音を立てず優雅に着地。衝撃はマイルドに全身に響く。
乏しい表情のまま、何事もなかったかのように黒陽はスタスタと歩き始める。
「ふむ。気配はあるな。こっちか」
夜風に当たりながら、散歩のつもりで庭園を回る。
水のせせらぎが聞こえる。細い小川が、月を反射した池へ合流しているのが見えた。あそこで
ふらりと寄り道し、黒龍石が立てられていた石造りの祭壇を通り過ぎる。鋭利に両断された黒龍石は下半分を残すのみとなっている。そう、あそこで黒陽は恋に落ちた。圧倒的な《剣気》を前に、自分の主に相応しいと確信したのだ。
皇族、王族、上級貴族――血統付きの令息たちを相手取り、決闘を挑み続けて数年。無敗だった黒陽に唯一勝った男。それが
「ん、なんだ黒陽か。こんなところで何してんだ」
舞台の
「
声が弾んでいた。
乱れた前髪を黒陽は丁寧に整える。
「今日も夜練か。精が出るな」
「ん、まぁな。《気》の修練だけは怠るなって母さんに言われてるし。それにもっと強くならないといけないからな」
まるで自分を娶るために頑張っていると言われたような気がして、黒陽は乏しい表情を緩ませる。と、そこで細い首筋を疑問に傾げて、
「模擬刀はもう使わないのか?」
見れば、白い舞台に放り投げるように模擬刀が置かれていた。
一メートルほどある観覧席の段差から飛び降りた
「これが見えるか?」
と、悪戯を思いついた子供のような顔で言った。
言われるままに、黒陽は拳を注意深く凝視する。
――ただ拳を握っているようにしか見えない。
黒陽が首を横に振ると、
「ま、そうだよな。これは《闘気》って言ってな。まぁ《剣気》の親戚みたいなもんだ。《剣気》と同じでその領域に達した者にしか見えないし、感じない」
かつて、龍皇である父から聞いたことがあった。
剣に《気》をまとわせ
だが、それは失われた秘術であったはずだ。武術では剣術には勝てない。だから廃れた。今では使う者はいないし、学園のカリキュラムからも除外されている。
「武術の修練をしているのか……?」
ゆえに、黒陽の問いが疑わしげなものとなってしまうのも無理はなかった。
「いいこと教えてやろうか」
「なにを教えて貰えるのだろうか」
「とりあえず、ここに座ってくれ」
示されたのは、舞台の
「じっとしてろよ」
「――ひっ!?」
背中に生暖かい感触が走り、黒陽は小さく悲鳴を上げた。
「き、
「…………」
それは
ゆっくり焦らすように背筋を生暖かいものが
緊張に硬直する体。漏れる
「ひゃうっ」
変な声まで漏れた。黒陽は耳まで真っ赤になった。
不意に掌の動きが腰の辺りで止まる。
「ふむ。ここら辺か」
「え?」
それは生まれて初めて体験する不思議な感覚だった。
全身の《気》が活性化して熱を帯びていく。体が火照り、白い肌に赤みがさしていくのが目に見えてわかった。そして髪の毛の一本一本にまで《気》は巡り、長く伸ばした黒髪が風もないのにゆらりと浮き上がる。全身の気脈を通して流れる《気》がうねり、甘い痺れを黒陽にもたらした。
「くっ、うぅ……」
自然と口から
体の自由が徐々に失われていく。足に力が入らない。だが、
「あっ、く……う……。これは」
次第に体を巡る《気》の一部が、黒陽の意志に反して右手に集まり始めるのを感じた。薄ぼんやりと拳を《気》の膜が覆い始める。信じられないことが起きていた。
「馬鹿な! 私の《気》を操っているというのか!?」
他人の《気》を操る。その規格外の非常識にさすがの黒陽も
背中に触れていた手がそっと離された。すると拳に集まっていた《気》が秩序を失い、分散し始める。その喪失していくような感覚に、黒陽は名残惜しさを感じた。体の火照りも冷めていく。
黒陽の腰を抱くようにしていた腕を離すと、
「《剣気》と《闘気》。同じ《気》を
人差し指を口元に当てて、しーっという動作。
二人だけの秘密。その
「今のがその高見というわけか」
「まだまだ発展途上だよ。《気》への理解が深まれば、今やって見せたように他者の《気》を操作できるし、そのまま《気》の流れを乱して体の自由を奪うことだってできる。それを見せたかっただけさ」
他者の《気》を操作する。龍人族最強の男、父・
「あなたは自分の実力を過小評価しすぎだ」
「んなこたないさ。俺なんてまだまだヒヨッコだよ」
「そんなことはない!」
思わず大きな声がでた。その声量に
胸に手を当てると熱い鼓動を感じた。黒陽は乱れかけた呼吸を取り戻し、できるだけ平静を装う。
「これがどれほどすごいことなのか、あなたはまるでわかっていない」
《剣気》と《闘気》などと簡単に言うが、常人が《剣気》を習得するのに百年はかかる。《剣気》と同じ高見に《闘気》があるのだとすれば、その二つを習得するだけでも相当な苦労があったはず。ましてや、同時に鍛えていくとなればなおさらである。
「毎日、修練しているのか」
「ああ。五歳の頃から毎日続けてる。母さんが厳しくてな。だから言われたとおり《気》の操作だけずっと……な。剣術はその過程で一緒に上達した」
十年に渡るたゆまぬ努力の結果。
が、それは才能なくして辿り着ける境地ではない。才能のある者が
興奮から平静を装ったはずの顔が上気するのを感じて、それを隠すように視線を下へ。ドキドキが止まらない胸を手で押さえ、黒陽は話題を変えた。
「
「どんな人……か。そうだな。普段は温厚なんだけど、怒るとめちゃくちゃ怖い」
「温厚な人ほど、怒ると怖いものだ。私も父上からそう教えてもらった」
「ははっ。龍皇陛下にも怖いものがあるんだな」
「
ポリポリと頬を
「へえ。そういや、俺の母さんも型破りな性格なんだよな。王都から来た役人がいたんだけどさ。王宮へ献上するって名目で、若い娘を強制的に
「ほう。
「ああ。単にブチギレ体質なだけかもしれないけどな」
「しかし、人間の社会はこちらとは勝手が違うのだろう? 問題にはならなかったのか?」
「それが不思議と大丈夫だったんだよな。なんでも俺が生まれる少し前に戦争があって、その時に母さんが大きな功績を残したらしいんだよ。だから領主様が庇ってくれたんじゃないかって、街では噂になってたな」
本人が何も語ろうとしないので、噂の真偽は不明なのだと
「ところで俺に何か用なのか? 夜は出歩かない約束だったろ」
来訪の理由を思い出し、黒陽は思案する。そして高鳴る胸の鼓動と火照った体を
(そうだ。月明りがあるとはいえ、ここでは持参した資料を見てもらうことはできない。ならばこれは、決してはしたない真似などではない)
そう自分に言い聞かせ、策を巡らせる黒陽は妖しく笑んだ。
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