第44話 終わらない悪夢

「さぁ、キスしなさいよ。それが望みなんでしょ」


 ツンとそっぽを向いて、顔を赤らめた紅蘭こうらんが唇を震わせて言った。

 長身の彼女は、麒翔きしょうと同じぐらいの背丈がある。背伸びを強いる必要はなく、抱き寄せれば簡単にその唇を奪えるだろう。

 気の強そうな顔は、間違いなく美人の範疇はんちゅうに入る。しかも上院一学年女子、第二位の実力者。ステータスだけを見れば申し分のない逸材だ。彼女を欲する男子生徒は、上院にもたくさんいるだろう。しかし、望まぬ婚約キスを交わしたところで、お互いに不幸になるだけだ。


紅蘭おまえの覚悟がそこまでだとは思わなかった。見くびっていたのは素直に詫びよう。だけどな、好きでもない相手とそういうことはするもんじゃない」


 麒翔きしょうとしては、優しく諭したつもりだった。嘘をついた手前、引くに引けなくなった紅蘭こうらんに逃げ道を与えたつもりだったのだ。だが、


「ごちゃごちゃうるさいわね。あたしの唇をけがす許可をあげるって言ってるの。光栄に思いなさい」


 気恥ずかしげにそっぽを向いたまま、紅蘭こうらんはなぜか強気の返答を寄越してきた。薄っすら浮かんだ涙に、震える両肩。どう見ても、体が拒絶反応を示している。


「人の情けに、盛大にちゃぶ台返し決めてんじゃねえよ!?」

「なによ、不満なわけ?」

「待て待て、もしかして俺の頭がおかしくなっちまったのか? 最初から最後まで不満な要素しかなかったと思うんだが」


 麒翔きしょうは記憶を手繰るように額を小突いてみたが、真剣で斬りかかられたスタートからして純度100%飽和しそうなぐらい不満だった。そして今、この時も。


「つーか、汚す許可ってなんだよ。そんなに嫌ならやめとけよ」

「安心しなさい。あんたが汚れているんじゃなくて、お姉様以外の全てが等しく汚れているのよ。例えあんたに汚されても、お姉様に浄化してもらうからいいわ」


 傲然ごうぜんと言ってのける紅蘭こうらん。涙交じりの目には力強い輝きが戻っていて、強固な意志が伝わってくる。この女は本気だ、というのが直感的にわかった。そして意志の力ですべてを捻じ曲げる、狂気のようなものを感じる。


「あー、もうわけわかんねー! わかったよ、俺の負けだ。これでいいだろ」

「そうね。だったら早くキスを済ませてよ」

「なんでだよ!? 俺が負けを認めたんだから、もういいだろ」

「良くないわよ。キスしないとお姉様と一緒にいられないじゃない」


 その人間社会ではありえない狂った愛に麒翔きしょう戦慄せんりつする。


「急募! お姉様大好きっ子(狂人)キャラを黙らせる方法!!」


 天高らかに、キャッチコピーに使えそうな現実逃避を叫んでみたが、現実は何一つ変わらなかった。そして、これに横合いから桜華が茶々を入れてくる。


「抱き寄せてキスで黙らせる」

「そうよ。早くしなさい」

「早くしねえよ!? てか、おまえら初対面のはずだろ。息ピッタリだな!?」

「安心しろ。紅蘭こうらんは優秀な人材だから、きっとあなたの役に立つ」

黒陽おまえはなんの心配をしてるんだよ!? 見当はずれだよ!?」


 公主様に対する無礼な態度に、紅蘭こうらんの全身から殺気という名のプロミネンスが生成され始める。その比喩ひゆではない殺意の炎に、麒翔きしょうは身震いした。


「だいたいその炎はなんだよ。殺意にじみでてんぞ!?」

「これは体の火照りよ。初めてのキスなんだから仕方ないでしょ」

「嘘をつけ、嘘を!? 興奮しただけで黒焦げにされたら堪ったもんじゃねえぞ」

「その程度で死ぬ男に用はないわ」

「そこは嘘でもいいから取り繕っておけな!?」


 うがーと身を仰け反らせ、意味もなくブリッジする麒翔きしょう。その様子を眺めながら、桜華がお腹を抱えて笑っている。頭を逆さにしたのが功を奏したのか、次の一手を思いつき、跳ねるようにして身を起こす。


「百歩譲って、その狂った本気を認めるとしても、だ。俺はおまえのことが好きじゃねえ。意味はわかるな?」

「同感ね。気が合うじゃない」

「全然合ってねえよ!? 相性最悪だよ、俺ら」

「フンッ。お姉様についていければ、相性なんてどうでもいいわ」

「なんだ? デジャヴュを感じるぞ。この話の通じない一方通行な感じ……」


 ふと、紅蘭こうらんの横に立つ乏しい顔に視線を向ける。話の通じない筆頭――公主様がその節穴の目をキラキラと輝かせて、


「これから少しずつ、お互いをわかっていけばいいのだ」


 麒翔きしょうは目の前が真っ暗になった。




 ◇◇◇◇◇


 夕日が室内に差し込む。

 生徒たちのけた無人の教室に一つの影がある。


 影は窓辺に両肘を乗せて前屈みとなり、視線を本校舎正面の広場へ向けた。

 広場では、男子生徒一名と女子生徒三名がワーワーと騒ぎ立てている。

 その中の一人。輪の中心にいる人物は、遠目からでもはっきり目立つほどの美貌の持ち主だった。影は陶然とうぜんと、薄く紅を塗った口角を吊り上げた。


「あらあら、緊張感のないことで。触れた魔術式を読めるなどと言われた時は焦りましたけど、どうやらただのハッタリ。取り越し苦労だったようですわ」


 夕日の差し込む薄暗くなった教室内。

 足をバタバタさせながら、影は狂騒きょうそうを浮かべる。

 その邪悪な笑みはいささかも衰えることなく、闇に溶け込むようにそこへ存在していた。


「第二ラウンド開始、と言ったところでしょうか。ゴングはとっくに鳴っているのだけれど、果たして気付いているのかしら」


 くっくっく、と愉快そうに体を震わせ、全身で哄笑こうしょうする影。

 広場で騒ぎ立てていた生徒たちの一悶着ひともんちゃくは終わったようで、ゾロゾロと帰途につこうとしている。と、そこへ遠目からでもはっきりわかる派手な龍衣をはためかせ、立ち塞がる者がいた。


「あら、あれは」


 影は黒陽公主の実力をよく知っている。

 だが同時に、この学園における一番の実力者は、黒陽公主ではないことも影は知っている。一番の使い手は間違いなく、あの女だろう。豪華絢爛ごうかけんらんな三色の龍衣に袖を通すことの許された、この学園で唯一の人物。六妃が一人、盟妃めいひ青蘭せいらんである。


「あれとまともにぶつかれば、無事では済まないでしょうね。慎重に事を運ばなければなりませんわ」


 窓の外。

 何やら青蘭からガミガミとお説教を食らっている様子の生徒たち。無理もないと影は思う。ピークが過ぎたとはいえ、下校途中の生徒たちが散在する中、真剣片手に大立ち回りを演じたのである。あのような危険行為が、許されるはずもない。


「もっとも、処分するかは学園長の胸先三寸むなさきさんずん。口頭注意程度で済むでしょうけれど」


 しばらくお説教は続き、叱責を受けた紅蘭こうらんがしゅんとうつむき意気消沈している姿がよく見えた。時と場所を選びなさい、という大声が遠く離れた本校舎にまで聞こえてくる。と、憤然ふんぜんと肩を怒らせる青蘭せいらんが、今度は黒陽公主の華奢きゃしゃな体を抱きしめて、何事かをさとし始めた。しばらくその抱擁ほうようは続いたが、青蘭せいらんは残念そうに首を振り吐息といきした。そうして生徒たちは、青蘭に連れられて本校舎の方へ引き返してくる。


「おっと。鉢合わせになるのはごめんですわ」


 ぶらんと伸ばした足を大きく振って、影は腕の力だけで体を浮かせるとつま先から静かに着地した。埃のついた袖口をぞんざいに払ってみせ、自身も教室を後にする。


 途中、廊下ですれ違った女子生徒たちが、影に向かってぺこりと頭を下げた。影はすっと普段の表情に戻ると、ひらひら手を振ってそれに応じる。


 本校舎一階。北側には、魔術研究棟へと続く教師専用の裏口がある。扉を開ければ、すぐ目の前に魔術研究棟の敷地が広がっている。


 魔術研究棟は二棟あって、教師専用の施設である教師棟と、魔術実験を行うための実験棟がある。裏口から教師棟までの間には、屋根付きの渡り廊下が通されている。影は迷いのない足取りで渡り廊下を進み、教師棟へ入っていった。


 実験棟と比べて、教師棟の建物はさほど大きくない。特に重要な施設というわけではないが、その地下に秘密の空間が広がっているなどと誰が想像できるだろうか。生徒たちはもちろん、教師でさえその存在を知る者はいない。


「もう油断はしませんわ。次は入念に準備の上、じっくり料理して差し上げます」


 隠蔽された空間の主たる影は、その顔に不釣り合いな凶暴な笑みを浮かべる。

 魔獣など比べものにならないほど獰猛どうもうで、残虐ざんぎゃくな笑みを。


 地下室には透明なガラスに覆われたカプセル型の容器が安置されていた。容器は全部で六基あり、内五基は空。残るは一番手前の一基。容器は緑色の液体で満たされており、円形の透明なガラスの向こうには、全裸の少女が入れられているのが見える。


 ゴボゴボ、と容器が気泡を吐き出し、緑の液体を循環させている。少女は柔らかく目を閉じ、まるで眠っているかのようだ。


 小さな手をガラス越しに少女の顔へ合わせ、愛でるようにして影が呟いた。


「まったく。派手に壊してくれちゃって。お気に入りだったというのに」


 黄金に輝く美しき髪をうっとりと眺める影。その閉じられた瞼の裏には、快晴を思わせる澄み切った青が眠っている。その人形のように美しい少女の名は――


「アリス、でしたか。ウエスポートから来た商人の娘」


 怯えるアリスを無理矢理押し倒し、へと変えた。


 素体そたいとは器。

 影の魂を受け入れるための器である。


たましい転化てんかの術式。どうやら見破れなかったようですわね。龍人族の公主様」


 影が妖艶ようえんに微笑んだ。


 瞬間、一斉に地下空間の蝋燭ろうそくに火が灯る。一瞬にして闇が払われ、影も浄化されるように消え失せる。影という仮面が剥がれ、その場に姿を現したのは、希代の魔術師エレシア・イクノーシスその人だった。




 ◇◇◇◇◇


 下院の敷地、北にある魔術研究棟。

 中でも教師棟には、普段から生徒たちは近づかない。用向きがないというのも理由の一つだが、全体的に古めかしくかび臭い雰囲気は、学生たちを近づかせない障壁となっていた。


 そんな訳で、教師棟は日中であっても人の往来おうらいはほとんどない寂れた空間と成り果てている。教師たちは授業で出払っていることが多く、無人である時間の方が圧倒的に多いのだ。


 そんな中、夕暮れに染まる薄暗い廊下を一人の女子生徒が歩いている。

 視界を塞ぐほどに積み上げられた資料を両手で抱え、時折、首を捻っては資料の壁から顔を出し、進路に異常がないか確認しながら進んでいく。


 午後の授業が終わり、帰宅の段となったこの時刻、なぜ女子生徒が教師棟へ立ち入ったのかはわからない。教師たちの姿も見えず、教師棟に存在するのは彼女だけのようである。女子生徒は山のような資料を崩さぬよう、ゆっくり慎重に歩みを進めている。


 廊下には魔術起動式のランプが置かれ、暗闇検知と同時に火は灯っているが、その炎は頼りなく闇を完全には払えていない。薄暗い。ただひたすらに薄暗く、かび臭い。不気味な雰囲気を感じ取ってか、女子生徒が足を止めて振り返った。


 そこには誰もいない。無人の空間が、真っすぐ廊下が伸びている。その先には、果てしない闇が大口を開けているかのようにも見える。


 ぶるっと女子生徒が身震いする。

 すると、今度は足早に廊下を歩きはじめた。山積みにされた資料が危なっかしく揺れ動く。この不気味な空間から一刻も早く逃れたい。そんな心理が透けて見える。


 と、ふいに強い風が吹いた。女子生徒は短く「きゃっ」と叫んで身を屈めた。とっさにつぶった目を開き、辺りをキョロキョロ見回す。そして女子生徒は、訝しげに首を傾げた。彼女の視界から見て窓はすべて閉じられている。


 では一体、風はどこから吹いたのか?


 しばらくの間、思案していたが女子生徒だったが、気を取り直して「まぁいいか」と呟くと、歩みを再開した。その後ろに自分のモノとは異なる黒い影が張り付いていると気付かぬまま。


 その日、女子生徒が一人姿を消した。

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