第42話 窮鼠猫を愛でる

 ――黒い鎖の束縛。


 それは闇属性魔術の中級に位置する魔術である。

 中級といえば、そこまで難しい魔術ではない。学園では初級~中級の魔術を教えており、上院の生徒なら誰でも習得可能な難易度である。


 だが、同じ魔術であってもクオリティに差は生じる。

 通常、黒い鎖の束縛は、闇が支配せし異世界から鎖を一本ないし、二本呼び出して対象を拘束する魔術である。そして呼び出せる本数は術者の力量に依存する。


 今、紅蘭こうらんを拘束している鎖の本数は、十や二十では利かない。このような真似ができる人物は、この学園では一人しかいない。教師でさえ無理なその芸当を容易くやってのけるのは、紅蘭こうらんの敬愛する義理の姉。気高く咲き誇る、圧倒的な美と力を備えた黒陽公主である。


 最初は崇拝する人物の登場に心が跳ねた。だが、すぐに自身へ向けられた敵意に、紅蘭こうらんは気が付いた。そして乏しい黒陽公主の表情に、怒りの感情が含まれていることを瞬時に察した。体の芯から震えがきた。


「これはどういうことだ紅蘭こうらん。返答次第では許さぬぞ」


 声に怒気が含まれていた。

 わかってはいた。覚悟はしていたのだ。

 彼女の婚約者に手をだせば怒りを買うことぐらいは理解していた。


 だが――


「お、お姉様……」


 心底の失望を隠そうともしない冷たい目が紅蘭こうらんを見下ろしていた。

 歯の根が合わずカタカタと音を鳴らす。


「あ、の……、これは……その……」


 黒鉄の鎖に拘束され、ひざまずくかたちとなった紅蘭こうらんは言葉を取りつくろおうとしたが、うまく形にできなかった。


 帝王学を叩き込まれて育った黒陽公主は、己にも紅蘭こうらんにも厳しい人である。

 下院を訪れたあの日もそうだった。高慢に道を開けろと言い放った紅蘭こうらんへ向けて、彼女は凛然りんぜんと注意した。


紅蘭こうらん。口が過ぎるぞ。上に立つ者としての自覚がまだまだ足りないようだな」


 それは将来群れを率いる立場――統率者としての心構えである。高圧的な態度を取るだけでは、人を動かすことはできない。常日頃から、血気盛んな紅蘭こうらんたしなめるように黒陽公主はそう説いていた。


 紅蘭こうらんは考えるよりも先に手が出る短慮たんりょな性格であったから、厳しく叱責されたことも幾度となくある。しかし、それは紅蘭こうらんを高く買っていればこそ、将来高い位に就ける人材だと期待しているからこその指導であり、愛の鞭でもあった。


 紅蘭こうらんは、黒陽公主を神よりも深く敬愛している。女の身でありながら、同年代はもちろん、年上の男でさえも寄せ付けぬ圧倒的な実力を持つ彼女は、紅蘭こうらんの理想そのものであり、憧れであったからだ。


 ゆえに、厳しい指導は憧れの人から向けられた期待の裏返し、すなわち愛であると紅蘭こうらんは認識していた。そのため、叱責が激しければ激しいぶんだけエクスタシーを感じてしまう。そんな状態だったから、黒陽公主の怒りを軽視していたのだと思う。

 だが、


 ――失望されることは計算外だった。


 紅蘭こうらんは、君主くんしゅ不要型思考の持ち主である。

 君主不要型思考とは、主人となる男を認めず、女だけで群れを作ろうという考え方である。君主不要型思考と、黒陽公主の持つ拡張型思考は、群れに対する基本方針はほぼ同じだが、主人に対する考え方が決定的に異なる。その認識の違いが失望に繋がっていることに、今更ながら紅蘭こうらんも気が付いた。


(あたしにとってのお姉様がそうであるように、お姉様にとってのあの男は、命を懸けるだけの価値があるということ? だとしたら――)


 決して自分を許すはずがない。

 ぶるる、と全身に寒気が走る。


紅蘭こうらん


 黒陽公主の冷たい声が頭上から聞こえた。感情がこもっていないのはいつものこと。だけど今は、それが空寒く響いた。


「私の婚約に反対だということは知っていた。だが、これは一体どういうつもりだ。私の主人を傷つけるというのなら、姉妹といえど、決して容赦はしないぞ」


 鎖の拘束により、跪く形で紅蘭こうらんの視線は地面に落ちている。黒陽公主の冷たい目を直視する勇気が持てなかった。そのままの姿勢で考える。


 夏季特別実習を終えて、ようやく帰ってきてみれば敬愛する黒陽公主が婚約していた。母である学園長にそう聞かされた時は、何かの冗談かと思ったぐらいだ。


 納得のいかなかった紅蘭こうらんは、礼を尽くすことも忘れて黒陽公主に詰め寄った。


 だが、


紅蘭こうらん! 麒翔きしょうはすごい男だぞ。将来はきっと大物になる」


 その目は、今までに見たことのない最高の輝きを放っていて。


「とうとう見つけたのだ。私のすべてを託せる男を。紅蘭こうらんは、私についてきてくれるのだろう? だったら一緒に嫁ごう。同じ主人に仕え、共に覇道を歩むのだ」


 黒陽公主の意志は固く、共に仕えないかと逆に説得される始末。

 紅蘭こうらんは異を唱え続けたが、聞き届けてもらうことは叶わず。


「どうして否定をするのだ、紅蘭こうらん。父上とて、最初は小さな群れからスタートした。裸一貫であそこまで登り詰めたのだ。才さえあれば出世はできる」


 彼女の目は、完全に恋する乙女のそれだった。


「あれは間違いなく龍王以上の器だ。私の言うことが信じられないのか」


 恋は盲目という。客観的な視点を失ってしまっている、と感じた。

 当然、納得などいくはずもなかった。


「とにかく、私は決めたのだ。麒翔きしょうに嫁ぐと」


 龍人は己の運命をすべて群れに託す。だから、誰に嫁ぐのかは本人の自由意志によって決められることが多い。公主の場合は条件がつくが、その条件さえ満たせていれば龍皇陛下でさえも異を唱えるのは難しい。あの男が条件を満たせるかどうかははなはだ疑問であるが、黒陽公主を溺愛できあいする龍皇陛下が、分不相応な位を授けてしまわないとも限らない。だから紅蘭こうらんは、実力を試すという大義名分を掲げ、勝負を挑み、そしてあわよくば亡き者にしてやろうなどと、物騒なことを考えていた。


 ――こんな男が、お姉様に相応しいはずがない。


 そう信じて疑わなかったから。


(だってそうでしょう? 下院のそれも適性属性なしなんて噂のある生徒なのよ。お母様だって言っていたわ。相応しくない、と)


 実際、黒陽公主の母上である将妃様も難色を示したそうである。

 そういう経緯もあってか、学園への火輪槍かりんそうの持ち込みを学園長である母・青蘭はこころよく認めてくれた。龍閃相当の実力があるのなら、このぐらいのハンデは覆してみろ、ということらしい。


(あたしは殺すつもりで攻撃を叩き込んだわ。だけどあの男は、あっさりとかわしてみせた。それも素手で。まさか本当に……)


 それは、紅蘭こうらんにとって不都合な真実だった。あの男が本当に実力者であるのなら、黒陽公主の婚約は正当なものとなってしまう。


 だが今はそのことよりも、この難局をどう乗り切るのかが問題だ。男の始末はいつだってつけられるが、姉妹の縁を切られてはかなわない。


 紅蘭こうらんが口を開きかけた時、


「失望したぞ。紅蘭こうらん


 先制攻撃を受け、くはっと紅蘭こうらんの喉が鳴った。そのままこいのようにパクパクと口は動くが言葉は出ない。


「どこまでも私についていく。以前、そう言ったな。私もそのつもりで指導してきたつもりだったが……これは、その決別ということか」


 考えられるシナリオの中で一番最悪の誤解をしている。思わず紅蘭こうらんは叫んでいた。


「それは……違うのです! お姉様への忠誠に偽りなどありません!」

「ならばなぜ、麒翔きしょうを襲った」


 龍人は群れの主人をなによりも尊重し、絶対の忠誠を誓う。学生の身で忠誠を誓うなど本来はありえないのだが、紅蘭こうらん自身はすでに黒陽公主に忠誠を誓うつもりでいるので、姉がどこまで本気なのか肌で感じとることができた。


 そして追い詰められた彼女の脳は、何か有益な情報を引き出そうと目まぐるしく回転を始めた。過去から現在にかけて走馬灯のように、様々な映像が頭をよぎる。そして、再生される映像が終わりに差し掛かった頃、ふいに男の言葉を思い出した。


 ――おまえもアレか。黒陽と同じで決闘しろとか言いだすタイプだろ。


 その時は、敬愛する黒陽公主を呼び捨てにされて、どうしようもなく腹が立った。だからその言葉の意味するところを深く考えたりはしなかった。

 が、冷静になって考えてみれば、それは明白だった。


(お姉様は、この男に決闘を挑んだ)


 そしておそらく負けた。だから主人と認めた。

 とても信じられなかったが、そう考えればすべての辻褄つじつまは合う。

 ならば、紅蘭こうらんの取るべき手は一つしかない。屈辱であったとしても、ここは一度、こうべれて暴風をやり過ごすべきだろう。


 キッと顔を上げ、歯を食いしばるようにして宣言する。


「あたしは幼少の頃より、お姉様についていくと決めていました。とすれば、お姉様の嫁ぐ相手は、あたしの嫁ぐ相手でもあります。ならば、己の主人として適格なのか、その実力を試さずにおれましょうか!」


 ぱっと黒陽公主の顔が輝いた。

 計算通り、と紅蘭こうらんはほくそ笑む。が、その言葉が何を意味しているのか――墓穴を掘ったことに紅蘭こうらんは気付いていなかった。

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