第40話 地位の向上
夏季特別実習期間が終わり、二学期の授業が始まった。
退屈だった日々は終わりを告げ、授業に追われる毎日が戻ってきたようだ。
魔術研究棟の敷地から本校舎へと向かう小道。
ふと、足を止め、麒翔は振り返った。石畳の続く先には上院の敷地がある。
「今は緑か、それとも黄か」
「え? なに言ってんの? 暑さで頭おかしくなっちゃった?」
桜華が怪訝そうに首を傾げて、短い栗毛を揺らす。
確かに暑い。龍人には
「ちげーよ。龍王樹。四季ごとに六種類の花を咲かせるだろ。今は秋に入ったところだが、気温は夏と変わらない。とすりゃ、緑なのか黄色なのかって話だよ」
ああ、と気のない返事をして桜華が先に歩き出す。
「翔くん、思ったより乙女チックだねー」
大股で桜華に追いつく。
「うるせーな。たしかに似合わねーよ」
龍王樹の下で出会った時、一体だれが想像できただろう。彼女は高貴な公主様で、しかも自分なんかの婚約者になるだなんて。
下院の北。魔術研究棟の敷地から本校舎の東を抜け、正面玄関から昇降口へ入る。木製のロッカーへ履物を放り込んだところで、麒翔は違和感を覚えた。
「ん?」
首を左右へ巡らせ、辺りを見回す。
昼休みも終わりに近づき、庭園から戻ってきたであろう女子生徒たちが、麒翔と桜華のすぐ脇を通り過ぎていく。昇降口から続く廊下にも、三人組の女子生徒たちがいて談笑している。特に変わった様子はない。日常的な風景。
「どうしたの?」
桜華に問われ、麒翔は眉間を寄せる。
一見すると何の変哲もない日常の一コマだが、何かがおかしい。
じっと注意深く三人組の女子へ視線を向ける。
見覚えのある顔。同じ一年生だ。
女子の一人がチラリとこちらへ視線を向け、そしてすぐに談話へ戻っていく。
麒翔は腑に落ちないものを感じつつも、訝しげな様子の桜華を促して廊下へ進んだ。横に広い廊下。すれ違う女子生徒たちを横目に観察する。
やはり違和感がある。どうしてか落ち着かない。
途中、ロッカールームへ立ち寄る。
中央龍皇学園では、大学に近い学習システムを採用しているため、自分たちの教室というものが存在しない。そのため、荷物の類はロッカールームへ収納し、各々が個別に管理しなければならない。
ロッカールームは男女で別れており、定員25名の男子のロッカールームは狭い。女子はこちらの五倍のスペースがあるらしい。
小さな南京錠を解錠すると、麒翔は上段に収納しておいた教科書とノートを取り出した。そのまま手慣れた動作で紐を括り、お弁当箱みたいにぶら下げる。
入口で桜華を待ち、合流する。
結局、違和感の正体がわからないまま、麒翔は教室へ到着した。重厚な木製の引戸に手をかけ、横へスライドさせる。摩擦抵抗はほとんどなく、滑るようにして開かれたドアが、開閉限界を超えてガタンと大きな音を立てた。
入口で立ち話をしていた女子生徒たちが、音に驚いてぎょっとした顔でこちらを振り向く。麒翔は少しバツが悪くなり、苦笑いで誤魔化した。
嫌味の一つや二つ。いや、罵倒の一つや二つも覚悟した。
何もしていなくとも、見下され陰口を叩かれるのが彼の日常であったからだ。
しかし、予想に反して、女子生徒たちが罵倒してくることはなかった。それどころか、視線をすっと外し、無言のまま道を開けるように左右へ割れた。まるで強者を前にした犬が、気まずそうに視線をそらし道を譲るかのような反応である。
「一体どうしたんだ。気持ちわりいな」
窓際の席。最後列にある長机の端っこに腰を下ろしながら、麒翔が腑に落ちないという風に言った。隣の席に座り、持参した教科書とノートを広げた桜華が、少し困ったように笑む。
「陽ちゃんと婚約したでしょ。だからだよ」
「は?」
なんでだよ。と言いかけて、麒翔は黙る。
そして思い至る、絶対的な権力の壁に。
「長い物には巻かれろってことか」
「ううん、それは少し違うかな」
「じゃあ、なんだよ」
あっさりと否定されて少しむっとする。つっけんどんな物言いになった麒翔を上目に見上げ、桜華が悪戯っぽく笑う。どこか芝居がかった口調で、
「陽ちゃんが正式に群れへ入ると決まったことで、翔くんの群れの総合力は飛躍的に向上したのです」
「は? なんだそれ」
桜華はノートに羽ペンを走らせ、小さな丸を二つと、大きな丸を一つ書いた。そして小さな丸をペン先で指し、
「龍人男子のステータスは、個人の能力と」
そして今度は大きな丸を指し、
「群れの総合力で決まるの」
(そういえば……)
先日交わされた公主様との会話を思い出す。
貴族階級を得るには群れの規模が一定数を超えていなければならない。
「群れの総合力……群れの独立性がどうこうって話だったか」
ぽつりと呟いた言葉に、桜華が大きな目を丸くする。
そんなに驚くことだろうか。もっとも、公主様に教えてもらったばかりなので、麒翔も偉そうなことは言えない。
「経済力とか軍事力とか。要は国力の概念に近いんだろ」
「うん。驚いた。翔くんが龍人の文化に興味を持つなんて」
別に興味を持っているわけではないのだが。いつの間にか公主様の影響を受けてしまっていたらしい。
「貴族階級の人たちが想定するのは、今、翔くんが言ったようなことなんだけど。でも下院の学生たちのいう総合力は少し違うの」
桜華によると。学生のいう群れの総合力とは、所属する龍人たちの個人能力を足し算した合計であるらしい。
「だから、陽ちゃんを擁する翔くんの群れは、それだけ価値が高まったってワケ」
通常、男子学生のステータスは個人の能力――学園の成績で決まり、群れの評価は含まれない。だが婚約と同時に、高貴な公主様が選んだ男というステータスが付与され、その常識が覆ったのだという。
「すると、なんだ? 黒陽の評価の分だけ、俺の評価も上がったってことか」
「そーゆーこと!」
そこでようやくさきほど感じた違和感の正体に、麒翔は思い至る。
「そうか。目だ。すれ違うやつら全員、蔑むような目をしていなかったんだ。だから違和感を覚えた」
「そりゃねー。総合力は陽ちゃんそのものだから見下せるワケないよ」
公主様は上院の首席である。そんな公主様のデタラメに高い評価が自分に上乗せされたのだとすると、確かに見下せるはずがない。自明の理である。
と、そこで。桜華が忍び笑いをもらしていることに麒翔は気がついた。そして彼女の言に含みがあることにも。
「まてまて。その言い方だと、俺が空気みたいじゃねえか」
「だって実際そうでしょ」
にしし、と桜華が嬉しそうに笑う。
その無邪気な笑みに毒気を抜かれ、麒翔は反論する気も失せた。代わりに、複雑な心境を吐露する。
「なんだか虎の威を借る狐みたいで嫌だな」
麒翔とて、何も好き好んで蔑まれているわけではない。女子生徒からの対応が柔らかくなるのならば、それに越したことはないのだ。しかしそれは、彼自身が勝ち取ったものではなく、公主様に与えられた恩恵にすぎない。
(好きな女に頼りっぱなしっていうのは何か違う気がする)
男としてのプライドがそう思わせるのだろうか。ヒモという単語が頭を過った。
呆れたように桜華がすっと瞼を下ろして半目になる。
「それ人間の感覚! 翔くんが主であって陽ちゃんが従なの。優秀な女の子を従えるだけの度量があるって考えなきゃ」
これがもしも盛館なら、どっしり構えて「当然だ」と自信満々に言い切るだろう。その姿が鮮明に想像できるだけに麒翔は苦笑をもらす。
「そうかな」
「そうだよ!」
桜華がぎゅっと両手を握り締めて、力強く頷いた。
半龍人の麒翔は、どちらかというと人間の感覚の方が近い。だからいまいち腑に落ちないわけなのだが、それでも、悪い気がしないのは龍人の血のせいだろうか。
「でもさ、相対的に俺の評価が上がったっていうなら、なんで誰もアタックして来ないんだ?」
一学期終了時に行われた模擬戦。
公主様と引き分けたときは、十名近い女子生徒たちから猛烈なアタックを受けた。その時の感覚からすれば、現在の反応は薄すぎるような気がする。それどころか、さきほどは避けられてさえいたような。
そのような事情を知る由もない桜華が、会心の笑みを浮かべた。その
「あー! 翔くんもとうとうハーレムを作る気になったんだ」
「ちげーよ!? 純粋な疑問だよ」
顔を真っ赤にして否定する麒翔を可笑しそうに眺め、桜華は得意げに人差し指を立てた。そしてキリッとした顔を器用に作り、
「分不相応という言葉がある。誰のセリフだったかなー?」
「人の黒歴史をつつくのはあまりいい趣味じゃないな」
公主様を拒絶した愚かな自分を思い出し、麒翔の顔に渋面が浮かぶ。そんな暗く曇った表情を吹き飛ばすように桜華の明るい声が言う。
「そーじゃなくて! 群れは同じぐらいの実力の男女で作るのが普通なの。だから陽ちゃんが入ったことで、翔くんの群れは、手の届かない高嶺の花になってしまったってワケ! だから翔くんはモテないのでした。残念っ!」
どこか誇らしげな桜華が、にんまり笑んだ。
けれど、どうにも腑に落ちないものがあり、
「高嶺の花って、俺の実力は変わらないのにおかしな話だな」
ふと思い出される。教室のドアを開けた時の、女子生徒たちのぎょっとした顔。今にして思えば、その目には怯えの色、
「黒陽と婚約しただけで格上だと認識されるのもおかしな話だが、そのように認識してしまった瞬間、今度は自分たちが見下される番だと恐れたんじゃないのか」
「ん-、それもあるだろうねー」
吐息し、麒翔は頷く。
「やっぱりそうか。
「ん-、まーそこら辺は、翔くん次第な部分もあるけどね。オープンに受け入れる姿勢を見せれば、よりどりみどりだと思うよ」
同性のよしみからか桜華が必死にフォローを入れる。その真意は不明だが、いずれにせよ、麒翔の答えは決まっている。
「まぁどうでもいいけどな」
「またまたー! 強がっちゃって!」
「別に強がってねえよ。見下してきた連中といまさら仲良くできるわけないだろ。集まって来られても迷惑なだけだ」
公主様なら迷える子羊を――とか言い出すのだろうが、あいにくと麒翔は博愛主義者ではない。そして、力ある龍人の義務とやらにも興味がない。彼にとって重要なのは、一番苦しい時に支えてくれた桜華の恩へ報いること。そして、こんな落ちこぼれを信じて、すべてを預けようとしてくれる公主様の信頼に応えること。
重要なのはこの二つ。大切なのはこの二人。
だから他の女子生徒には興味がない。
その時。
スッと教室のドアがスライドして透明人間が入ってきた。いや、違う。視線をもう少し落とすと、ミニマムな風曄教諭のお団子頭と緑の龍衣が目に入る。教室を満たしていた生徒たちの喧騒がピタリと止まった。
そのまま風曄教諭は教壇の前へ立った。が、身長が圧倒的に足りていない。完全に教壇の陰となりその姿が見えなくなる。
新月かな? 麒翔は失礼な想像をした。
そんな心の声を咎めるように、風曄教諭が大きな声を出す。
「ではではぁ! 歴史の授業を始めますよぉ!」
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