第33話 帰還
「はぁはぁ……もう駄目だ。一歩も動けねえ」
石畳の街道に大の字に寝転がった
荷台から手を
「わたしも、もう限界……立ってられないかも」
彼女の小さな体が膝から崩れ落ちる。その小柄な体のあちこちには無数の噛み傷があり、赤と白の龍衣はその鮮血で赤く
「だ、大丈夫か。結構、怪我してんな。俺も……、人のこと言えねえけど……」
桜華をどこかのお姫様みたいに扱って、無傷で守り切ろうとしていた頃が、今となっては懐かしくすら感じる。傷だらけとなったお姫様は、いつもの
「陽ちゃんに比べたらこのぐらい全然平気。わたしだって守られてばかりじゃないんだからね」
ケラケラと楽しそうに笑うものだから、
息が整うと、
「人間、やりゃなんとかなるもんだな。人間なの半分だけだけど」
「必要だったのはもう半分の龍人の力の方でしょ。人間側の翔くんは役に立ってないと思いまーす」
街道まで出れば安全である。魔獣は滅多に平原までは出てこない。普段通りの軽口が叩けるのはそのため。
「しっかし、馬車がなけりゃ詰んでたかもな。黒陽抱えての移動じゃ、魔獣の襲撃に耐えきれなかったかもしれねえ」
馬車という安全地帯があったからこそ、公主様を守りながらここまで来ることができた。抱きかかえていたら、おそらく守り切れていなかったのではないかと
「でも、馬車を見つけていなければ。違った結果になったかも……」
「ああ、そしたらアリスには出会ってないからな」
「…………」
「…………」
沈黙。
いたたまれない気持ちになり、
「よし、あと少しだ。体に鞭打ってもう
「早く陽ちゃんを元気にしなくちゃね」
幕舎に戻れば緊急治療用の
「急ぐ必要はない」
帆の隙間から囁くような声がした。直立姿勢の公主様が、包帯で半分覆われた顔をぼんやりと遠方の野営本陣へ向けている。意識が戻ったのだ。ワサビを食べたわけでもないのに鼻にツンと刺激がくる。とっさに名を叫んでいた。
「黒陽!」
その大声は、喜と哀の感情を混ぜ合わせ、そこに少しだけ涙を混ぜたような声色だった。余りの大声にビクッと肩を震わせた桜華が少し遅れて振り返る。
「陽ちゃん!」
いつもと変わらぬ乏しい表情の上に、公主様は柔らかい笑みを浮かべた。
「ちょっと待て」
「ぐえっ」
反射的にその襟首をがしっと掴み、引き剝がすように自分の方へと引き寄せた。
「ちょっと翔くん。何するの苦しい」
「バカか
うー、と唸る桜華のこめかみをぐりぐりとやりながら、
「なんで瀕死の重傷なのに歩き回ってんだよ!?」
余りにも平然としていたため、
「半日ほど休めたからな。歩けるほどには回復している」
「んなわけあるか!」
「な、なにをする」
「抱いてほしかったんだろ」
「そんなこと言ってない!」
頬を赤らめ必死に否定する公主様。どうやら昨晩の記憶はないようである。
羽のように軽いその体をベッドに横たえ、
「いいか。起き上がる限り何度でも運んでやるからな。覚悟しとけ」
「むぅ……両腕が動かぬゆえ、起き上がるのは結構骨が折れるんだぞ」
「だったらずっと寝てろ。そして早く元気になってくれ」
公主様の額に手を置いた桜華が首を傾げる。
「でも、もう元気そうだよ? 熱も引いたみたいだし」
「元気になるのはこれからだろ。まだ寝かせとかないと駄目だ」
「でもでも! 浅い傷はもう塞がってるよ」
胸元の包帯をちらりとめくり、桜華が言った。そこでようやく公主様が包帯ぐるぐる巻きの半裸であることへと意識が向き、今更ながらに赤面する。ハヤブサよりも早く後ろを向く。
「そんな格好で外へ出て。
公主様はきょとんとしている。首を巡らせ、自身の状態を確かめると、そこで初めて気付いたかのように、
「龍衣を着ていたはずだが。脱がせたのか」
「治療のために仕方がなかったんだ。それに脱がしたのは俺じゃないぞ」
少し言い訳がましい響きになってしまったが事実である。
桜華はフォローするでもなく、口元に手を当ててクスクスと笑っている。
「あらら。身のこなしは
背中をバシンッと叩かれる。腰が入っている。かなり本気の一撃だ。焼けるように痛む背中を仰け反らせ、
「キリッ! なんてやってねーよ!」
「やってたよ。ねえ、陽ちゃん」
「ああ、男らしかった」
息の合った
「
抱き合って涙を流し、お互いの無事を喜び合う。流石にそこまでは望めなくとも、もう少し
「心配してくれていたのか?」
後ろから問われ、その愚問に反発するように振り向いてしまう。
「当たり前だろ!!!」
「そうか」
表情の乏しい公主様の顔に、いつになく柔らかい笑みが浮かんだ。それは女神様を思わせるような心の清らかな優しい微笑み。不純物の一切含まれない純然たる笑みに、
「はいはーい。二人の世界に入るのはそこまででーす。続きは夜に、二人っきりでお願いしまーす」
桜華にぶち壊された。
「そうかそうか。シリアスな雰囲気がぶち壊れるのは
俺としたことがうっかりしてたぜ。そう続ける彼の十本の指先は、それぞれが別々の意思を持っているかのようにワキワキとイヤらしい動きをしている。
桜華の顔が青ざめる。彼女は後ずさりをしながら、
「ちょっと翔くん? それは何のつもりかな。生理的にすごく抵抗がある動きしてるんだけど」
「何って見たまんまだよ。くすぐり地獄の刑」
悪い笑みを
「助けて、陽ちゃん。翔くんに犯される!」
その拡大解釈に
「
などと真逆のフォローが入ったので、
「いやそこは否定してくれよ!?」
こうして彼らは日常に帰還したのだった。
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