第32話 脱出
帆付きの馬車が森を
かなりのスピードが出ている。カーブで車輪が軋み、空中分解を思わせる不吉な音をまき散らす。道は開いている。暴風タートルが木々を吹き飛ばし
と、車輪が大きめの石に弾かれ、荷台が斜めに宙へ浮く。
「っと、やっべえ」
荷の引き手でもあり、同時に運転手でもある
「ちょっと翔くん。気を付けてよね。陽ちゃんの傷に響くでしょ!」
荷台後方。追走する白狼が飛び掛かって来たところを光属性の
龍人は垂直跳びで十メートルを超える脚力を持っている。帆馬車を引くぐらいわけはない。ものすごく疲れるので本当はやりたくないが、公主様を安全に護送するためにはこの手しかない。
「あのデカ亀もちっとは役に立つじゃねえか」
地面をえぐり切り開かれた道は、真っすぐ教師のいる本陣へと続いている。途中、道が
また、道中の魔獣は全スルーである。正面から襲ってくる魔獣は、荷台へ飛び掛かるものを除いて完全に無視。質量のある荷台を超重量の鈍器のようにブチ当てれば事は足りる。荷台へ飛び移ろうとしている魔獣については、模擬刀でその腹を
中には、
と、急カーブを曲がろうかというタイミングで、黒犬と呼ばれる魔獣が荷台へ飛び掛かってきた。カーブを曲がり切るために
「桜華! 一匹入った。対処してくれ」
「オッケー」
荷台の桜華は、飛び掛かってくる黒犬の牙を左腕で受けた。鋭利な
女だからと言って、龍人の筋力を舐めてはいけない。筋肉の質が人間などとは根本的に異なるのだ。筋肉などとは無縁のか弱い乙女に見えたとしても、その実、恐ろしいほどの暴力を内包している。
「ギャウンッ」
一発、二発、三発。
三度拳を叩きつけたところで黒犬は動かなくなった。
傷口をペロリと舐めると、桜華は黒犬を前方の荷台から放り投げるように捨てた。
「陽ちゃんには指一本触れさせないんだから」
完全に戦闘民族としての龍人の血が目覚めている。戦いにおいて最も重要とされる覚悟を、今の彼女は持ち合わせていた。戦うと覚悟さえ決めていれば、どのような状況にも体が勝手に反応するもの。
後方から荷台へ二匹の白狼が飛び込んでくる。荷の木箱や樽を蹴散らし、白狼は跳躍する。これに対して桜華は考えるよりも先に行動に移していた。
龍人としての身体能力を最大限に活用し、迷いのない一直線の
が、もう一匹の白狼は桜華の真横を通過した。狙いは彼女ではない。
「こっの――」
桜華は直線の運動エネルギーを腰を捻ることで回転エネルギーへと変換し、百八十度ターンを決めると同時に、公主様へ襲い掛かる白狼の尻尾を掴んだ。そしてそのまま思いっきり引っ張る。ブチブチブチという龍人には想像のできない痛みの音が響き、1.5メートルはあろうかという巨体が力任せに馬車から投げ捨てられる。
と、人力の馬車が一瞬宙に浮いた。
バランスを崩し掛け、桜華は荷台に掴まった。文句を言おうとして前方へ視線を向けると、馬車は長い坂に差し掛かったところだった。黒土の道が勾配の度合いを強めて、眼下の森へ引かれている。
「ちょっと翔くん。スピードが」
「わかってる。でも制御が利かねえ」
スピードがぐんぐん上がっていく。
「嘘でしょ……」
馬車が三台はすれ違えるほどの広い黒土の道に、白い狼の大群が待ち構えている。五十匹はいるだろうか。一斉に飛び掛かられれば、一体何匹の侵入を許してしまうのか想像すらできない。乱戦になれば、桜華の実力では公主様を守ることはできないだろう。
「翔くん、あれは無理だよ」
「わかってる。でも止まれないんだ。引き返せねえ」
急勾配を進む馬車は限界まで加速し、トップスピードへと入っている。仮に急ブレーキを掛けられたとしても、慣性をそのままに、搭乗している桜華と公主様は外へ投げ出されることになるだろう。
絶対的優位。自ら飛び込んでくる愚かな獲物を前に、白狼が
開戦の時は近い。
急坂で加速した勢いをそのままに強行突破するしかないだろう。
桜華はぎゅっと拳を握り締め、覚悟を決める。
と、その時。
坂を下り切って平地へ差し掛かった頃合いに、白狼の群れから弱々しい「きゅうーん」という鳴き声が聞こえてきた。何かと戦っているとわかったのは、もっと距離が狭まってから。白狼と白いモコモコがもみ合い、乱戦となっている。
「嘘。魔獣同士で戦ってる」
巨大化した兎の
五十を超える白狼の群れへ、三十ほどの兎の群れが襲い掛かっているようだ。驚くことに数で劣る兎の方が優勢である。
「いや、違う。あれはただの魔獣じゃない。あれは」
それは公主様が捕縛し、殺さずに見逃した兎の魔獣。
「なんだかわたしたちを助けてくれてるみたい」
「嘘だろ。魔獣がそんなことするか?」
乱戦の様相を呈している脇を馬車がトップスピードで駆け抜ける。
すれ違いざま、角の生えたリーダー格と思しき兎が「ぎゅううう!」と唸り声を上げる。それはまるで「ここは任せろ。先に行け」と言っているように聞こえた。
――殺人兎。
縄張りに入った者を容赦なく食い殺す
しかし同時に、とても義理堅い性格をしており、一度受けた恩は絶対に忘れない。例えば、命を奪うことなくあえて見逃してあげれば、恩義を感じた彼らは二度と襲ってこない。そして場合によっては助太刀を期待することもできる。丁度、今のように。それは先を見据えた公主様の
後方の荷台から桜華が顔を出す。
白狼が五匹ほど乱戦を抜け出して追走してくる。
すっと目を細め、桜華は静かに追走者を見下ろした。
一匹の白狼が大きく跳躍し、荷台の桜華へ飛び掛かる。
桜華は右拳を振りかぶり、大きく開け開かれた白狼の口内へ硬く握りしめた拳を突き立てた。そして――
「
白狼の口内から頭部を吹き飛ばし、鮮血がまき散らされる。
屍となった白狼を無造作に右腕から振り落とす。地面にバウンドし、追走する白狼を一匹巻き込んで、地平線の彼方へと消えて行く。
桜華の表情から感情の色が失われていく。
静かな殺気が彼女の周囲にだけ満ちている。
追走を続けていた他の白狼は、得体の知れぬ恐怖を感じたようで、その駆け足を緩め、追走を止めた。帆馬車後方へ仁王立ちし、虚無の瞳を向ける桜華を見送るように。
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