第3話
高層マンションの一室で、啓斗は毎日経営者としての仕事をこなす。千花がここに来る前から、その状況は変わっていないらしい。だから何も、脅すように関係を結んだ婚約者が逃げ出さないようにと見張る為ではないのだろう。
だからと言って、監視されている可能性はゼロではない。ひとつしかない玄関には、監視カメラが仕掛けられているかもしれない。
もしかするとこの部屋に、カメラか盗聴器かが仕込まれていることすらあり得る。その手のツールの進歩は目覚ましいというから、幾ら目を皿のようにして探し回ったところで素人には見つけられないのだろう。
どんな醜態を強いられたところで、彼には逆らえない。身に付けるのも、啓斗に与えられたグレーのワンピースだ。ソファーから立ち上がれば、節々が痛む。
毎夜のこともこれで二週間程になるが、体はまだ慣れない。見張られているかどうかは別として、朝の九時から夕方の五時まで構わずにいてくれるのはありがたい。とりあえずその間は、突然変貌した生活に乱れる心身を休めていられる。
足を引きずるようにして部屋の隅に向かい、置かれた小さな冷蔵庫の前でしゃがみ込む。扉を開け、炭酸水のペットボトルを取り出した。
キャップを外そうとするが、指先に上手く力が入らない。幾らひねろうとしても、指の腹が滑るばかりだ。四苦八苦しているうち、ドアの開く音がしてびくりと身をこわばらせる。
二拍置いて振り返り、閉まるドアの手前に立つ啓斗を見る。黒い革パンツに黒いシャツを纏った姿は、敏腕で冷徹な経営者のイメージと結び付かないようで、雰囲気そのものとも言えなくはない。
思わずカーペットに座り込んだ千花の前に、啓斗は胡座をかく。握り締められたペットボトルを取り上げ、難なくキャップを外した。手元に戻ってきた炭酸水を、千花はひとくち飲む。ふと視線を上げ、自分を見据える瞳に怯んだ。
「まあ、喉は渇いているだろうな」
うそぶかれた科白に二度、三度と瞬きをする。昨夜の自分の姿を思い出し、一息に顔が上気した。千花の喉が枯れるまで、いや枯れても尚抱く手を緩めなかったのは、目の前の男以外の誰でもない。
慌ててペットボトルのキャップを閉め、膝の横に置く。立ち上がろうとしたところで、不意に左の足首を掴まれた。まだまともに歩けない上に、脚を拘束されてしまってはどうにもならない。否応なしにその場へと座り込む恰好となった。
「仕事中、なんでしょ」
できるのは正論を吐き、この部屋から去らせることだけだ。こちらを見上げていた瞳が細められ、手が足首から離れる。
「休憩中だ」
「そりゃそうでしょうけど」
「導火線に火が付くのを待つだけだからな」
ごく自然な口調で発された科白に、千花は悪寒を覚える。聞いてはいけない言葉を聞いてしまったような気がするが、もはや手遅れだ。視線を向ければ、啓斗は少しばかり頬を緩ませる。
この男は善人ではない。父を助けるのと引き換えに、千花をこうして自らの所有物にした。今も何らかの目的を果たす為、きっと無慈悲な罠を交渉先に仕掛けている。
相手が罠に掛かれば、今度はそれを材料に取引を持ち掛けるのだろう。状況をこれ以上悪化させたくなければ条件を飲め、無条件に従えと。自分がこのマンションに連れられた時とは少し違うかもしれないが、結局弱みに付け込んでいることには変わりがない。
「悪党」
ひとこと呟けば、目の前の眉尻が吊り上がる。怒りではなく、そこにあるのは愉悦だ。
「それで煽っているつもりなら、それこそ甘党だな」
「甘党の意味違うでしょ」
「細かいことは気にするな。それにしても、相変わらず肝の据わった女だ」
啓斗は喉をひとつ鳴らす。右腕が持ち上げられたのを見た時には、既に間に合わない。気が付けばカーペットの上に引き倒され、腰へとのし掛かった男が垂れた黒髪の奥で笑う。
「逃げられないと判っていて、俺に喧嘩を売る女はお前位だよ」
千花は目を見開く。つまりこの男に追い詰められた女性は、自分以外にもいると言うことか。そして彼女たちは暴力と脅迫に負け、手なづけられてしまった。
「逃げられないじゃなくて、逃がしてもらえないの間違いじゃないの」
「人を外道みたいに言う奴だな。まあ、別に間違っちゃいないが」
「悪党と外道とどっちなのよ」
怒らせるつもりの科白にも、啓斗は楽しげに鼻を鳴らすのみである。
「どっちでも好きにしろ。お前の望んだ見返りを、充分に払っているだろう?」
「それは、そうだけど」
「嫌々納得したといった感じか。少なくともお前は自分の足と意思で、俺の元に来てる訳だからな」
言い放たれた科白に反論できず、千花は口を閉ざす。どうしようもない事情があったとはいえ、助けてほしいとこの男に泣き付いたのはこちら側だ。黙り込む一方で、不思議に思うことはある。
何故この男は、千花に色々なことを話すのか。自分を論破し屈服させる為の科白についてではない。ビジネス上の適法な行動は勿論、不法違法行為に関しても啓斗は話して聞かせてくる。性交渉に至る前後の、高揚感に任せているだけなのだろうか。ふと頬を撫でられ、現実に引き戻された。
「考えごととは余裕だな、許嫁殿」
演技がかった声に顔を顰める。
「俺は何も、ペットボトルを開けに来た訳じゃないんだが」
鋭さを帯びた眼光に喉が引き攣る。次の瞬間には体を抱き上げられ、ベッドへと組み敷かれた。下りてきた唇が首筋を辿り、前開きのワンピースのボタンをひとつずつ外されてゆく。
「嫌、やだ」
「早く終わらせてほしければ諦めろ」
耳朶へと寄せた唇で啓斗がうそぶく。胸元が露わになりかけたところで、布ずれの音の中にバイブレーションが交じる。数秒続いた後にそれは切れ、静寂の中にまた響いた。
手を止めた啓斗が、忌々しげに舌打ちをする。身をもたげ、革パンツのヒップポケットからスマートフォンを取り出した。画面の通知を見てか、眉根を寄せた後に唇へと笑みを刻む。
「残念で仕方ないが、ここでお預けだ。続きは夜だな」
「早く仕事に戻ったら」
「ひどい女だ。臭い餌に食い付いて釣り上げられて、これから骨が溶けるまで煮込まれる魚がいるっていうのに同情もなしか」
楽しげに言い、啓斗は千花の髪を撫でる。ベッドから下り、部屋を出ていった。
ゆっくりと身を起こし、目を凝らして千花は閉まったドアを確かめる。溜息をつき、外されたばかりのワンピースのボタンを留めてゆく。視線をしばし彷徨わせた後、置き去りにされたペットボトルを眺めた。
花瓶のなかの花 殿塚伽織 @tonotsukaolu
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