第2話
考えてみれば、翻弄されるだけの人生だった。
たかが二十年で偉そうなことを言うなと罵られるかもしれないが、本当にそうなのだ。生まれた家はごく普通の花屋だったが、場所が問題だった。敵対する組織同士の縄張りの境界線上に、店は建っていた。
片方にみかじめ料を払っても、もう片方に妨害される。困った挙句片方へと土下座して花を贈れば、片方から裏切り者と怒鳴られる。安心して暮らせる夜など、あった試しがない。
引越しし、移転先で再起を図ればよかったのだろうが、戦前から店を引き継いできたという親の意地が邪魔をした。亡き母との思い出が残る場所を捨て切れなかった所為もある。とうとう抗争に巻き込まれ父が拉致された時、頼ったのは隣の地区の組織だった。
先代が病に倒れたということで最近代替わりし、二十五の若者が後を継いだらしい。周囲の組織を取り込むことで次第に勢力を強め、支配範囲を広めているという組織に母や兄弟は泣きついた。
今までに全く関係のない相手であり、第一助けたところで向こうにメリットなどひとつもない。門前払いされるに決まっていると思っていたが、新しい跡取りは以前花屋に訪れたことがあったらしい。
綺麗な花束を見繕ってくれた礼だと、跡取りは手を貸すことを了承した。しかし部外者同士の争いにくちばしを突っ込むには理由が必要だとの言葉と共に、花屋のひとり娘と婚約させてほしいとの申し出があった。
それは申し出という形の脅迫だ。父を助け出してほしければ、その代わりに娘を上納しろと。断る選択肢はなく、千花は跡取りの許嫁として組織に入るしかなかった。野望に満ちた青年が有り余る性欲を発散する為の、夜の道具として。
婚約者の家族を助けるという口実の元に父が救い出された夜は、千花にとっての初夜だった。まだ結婚はしていないからその表現は少しおかしいのかもしれないが、いずれにしろ初めて男と肌を重ねた夜には違いない。招き入れられた寝室で未体験だと告げた時、相手の顔が嬉しそうに綻んだことをよく覚えている。
「恋人のひとりかふたり、いるかと思っていたがな」
「そんなのいたことないし、それに向こうがお断りだと思う、けど」
無意識のうち、粗雑な口をきいていたことに気付き狼狽える。慌ててソファーから立ち上がれば、男に抱き寄せられ壁へと背を押し付けられる。
「大した度胸だ。面白い女だな」
「ごめんなさ、い、今のは」
「それ位でないと、この世界では潰されるだけだからな。まずはこれからじっくりと、俺を覚えてもらうとしよう」
「やだ、嫌、痛いんでしょ」
「ああ、初めてだったな。大丈夫だ、気持ちよくしかしない」
俺も嫌われるのは嫌だからな、笑いながら言った男の言葉に嘘はなかった。気が遠くなる程の時間を掛けて丹念にほぐされ、もういいからと叫びたくなる位だった。充分な準備の後に体を開かれてからは、引いては寄せる快楽しか覚えていない。
あの日に比べて時間こそ短くなったが、毎夜その繰り返しだ。仕事を終え帰ってくる啓斗を部屋で迎え、一緒に食事を摂った後で抱き潰される。
啓斗が外で会食を済ませてきた際は、数回達した後ベッドの上で会話を交わす。もっぱら今日の出来事を語る啓斗の話を、千花が聞く形ではあるが。
仕事と言っても何処の組織に殴り込みを掛けたとか、誰を完膚なきまでに痛め付けたとかいうことではない。表向き上この組織はIT系企業であり、啓斗はその若社長だ。高層ビル内にあるという本社オフィスには出勤せず、マンションの別室で企画の承認や決裁、業務指示などをしているらしい。いわゆるリモート勤務は、この界隈にも広まっているようだ。
勿論裏の世界に住む人間であるから、正規のビジネスで終わる筈はない。探し出した弱味を材料に、圧倒的有利な交渉を持ち掛けたりもする。雇ったクラッカーに不正アクセスをさせ、企業の機密情報を抜き取りもする。それでいて急成長を遂げる注目の会社として、業界誌の表紙を飾ったりもする訳だ。
一般的には優男と言われそうな顔立ちも、その起用の一端を担っているのかもしれないが。実際、こんな状況で声を掛けられたのでなければ、もう少し心を開けていたかもしれない。
多分今は新しいおもちゃに傾倒しているだけで、いつかは飽きられる。何処かに若く綺麗な愛人を囲う、それまでの辛抱だ。千花は溜息をつき、ひとつ寝返りを打つ。ダブルベッドの上、隣で眠る男の顔を眺めた。
疑問はある。代償として自分を婚約者に求めた時、彼は花屋の娘を欲しがった。以前から千花を知っていたような口ぶりだった。
店で花束を一度買ったことがあると言っていたから、直接千花が応対していたのかもしれないが。それにしても、と思う。確かにこの手の組織のトップが結婚相手を探すのは、多少高いハードルがあるのかもしれない。
とはいえ潤沢な資産はあり、加えて本人の美形ぶりだ。名目上だけでも婚姻関係を結び、財産を手に入れ自尊心を満たしたいと思う女はその世界に少なからずいるだろう。何も一般人に手を伸ばさずともよかったのではないか。
今幾ら考えてみたところで、無意味なことではある。優しい顔をしておきながら、弱者を追い詰めるのが啓斗の趣味なのかもしれない。そもそもが弱肉強食の世界だから、もしそうだったとしても驚きはしないが。
啓斗は若いライオンで、千花ははぐれたガゼルだ。と言ったら、自分を美化しすぎかもしれない。あんなに早くは走れないし、脚だって細くない。ふと目の前の瞳が開かれ、思わず身をこわばらせる。
「気分はどうだ?」
「平気」
「明日の夕食は和牛のステーキにするか。百五十位は行けるだろう?」
「ちょっと多い」
要するにスタミナを付け、多少のことでは失神しないようにしろというのだろう。溜息をついたところで抱き寄せられ、千花は目を見開く。のし掛かってきた啓斗が、男の顔で笑った。
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