第13話 宵


 美しい真夜中だ。山深いこの屋敷はいつでも濃い霧に包まれているが、夜の肌に絡みつくような靄はなんだか心地いい。

 

 私の立っている地面がひとりでに細く長い溝を作り、そこにさらさらと水が流れ始める。


「綺麗だなあ」


 呟いて、私はその真新しい川を見下ろした。しかしそこに移る顔を見て、今更だがどっきりする。そこに映っているのは、本来の私の顔ではない。少し前に私の「身代わり」として死んだ、弟弦深げんしんの侍女、美兎みとの顔である。


「遅くなって申し訳ございません」


 背後で、小さな声がした。振り返ると、そこには赤く艶めく髪の女が立っている。

蝶夏ちょうか


 彼女は手を覆い隠している薄紅の手袋を外した。周りには火傷の跡があると話しているそうだが、それは彼女の部族の特徴である紫の爪を隠すためのものだ。


 そして蝶夏はその両手を自らの顔の前にかざし、素早く左右に開いた。空中に一の字を書くように。その手の間から、薄紫の光が放たれ、私にぶつかる。


 そのすぐ後に川を見下ろすと、私は本来の顔を取り戻していた。

 月界の王女、宇衣ういの顔を。


「蝶夏、あなたの部族から便りは?」

「はい。準備は進んでいるとのことです。蟲族は前回の襲撃作戦の際に打撃を受けましたが大部分が回復しており、雅族がぞくとの交渉も順調です。野族やぞくに関してはやや難航していると」

「野族はもう捨て置いていいかもなあ。大して戦力になりそうもないし、時間の無駄だしね」


 私は川上を見つめながら独り言のように言う。外からやってくるはずの客人はまだ現れない。


「それで弦深の様子は?」

「変わりありませんが……かなり日界の姫に入れ込んでいる様子です。紗那しゃなはひどく焦っていて、あの姫を亡き者にしようと日々策を巡らせています」

「まあそれは私としてはありがたいね。正体を公にして皆から崇められてる朱月姫なんて、私からすれば邪魔でしょうがないんだもん」


 蝶夏は偽名を使い、弦深の側室として彼と共に地界にやってきた。

 弦深の地界入りは正直誤算だった。私は彼が瑛蘭えいらんに近づくたびに姿を消さなければならない。瑛蘭本人は他人に興味のない自分本位のお嬢様だから欺くのに苦労はしないが、周りの人間までそう簡単に騙せない。怪しまれるのは時間の問題だ。


 早くしなくては。


 軽い苛立ちに唇をかみしめていると、目の前の川の水面が小刻みにさざめきはじめた。やがてそれはうねる波となり、そのあいだから細く背の高い人影が姿を現した。


「宇衣様、お久しゅうございます......」


 外見と同じくらい細くて、なんだか女のような声。確かに、これを聞くのは久しいな、とぼんやり思いながら、私は彼の名を呼んだ。


幽俠ゆうきょう。息災だった?」

「息災なわけがございませぬ......。宇衣様が侍女などをさせられている中、準備に手間取りなかなかお迎えに上がることもできず......。日々重々しい心情を抱え過ごしているといいますのに」

「そんなことは気にしないで。それより抜かりなく準備を進めることのほうが重要だよ。頼りにしてるからね」


 そう言って私が笑うと、幽俠はじっと私を見つめたまま動かなくなった。


「ねえ、幽俠は、瑛蘭をどう思う?」


 聞くと、彼は不思議そうに首を傾げた。


「どうとは? 世間を知らないわがままなただの姫に見えますが」

「そうだよね。気にすることなんかないよね。なのに妙に気にかかるんだよ。弦深が入れ込んでいるせいかな......。何か特別な力があるように感じちゃうのかも。三美神なんて、3人揃わなければ何の意味もないのに」


 それに、3人揃って天界に行くと言うことは、言葉で言うほど簡単なことではない。天界への道のりは無論険しいものだし、なによりもまず3人が全員、祈祷を捧げることに同意しなければならない。


 私がいる時点でそれは敵わない。決して。


 それに。

 ここにいる幽俠が使う仙陣せんじんが、自分の母を殺めた陣と完全に一致することを知った時......。


 瑛蘭はそれでも、私と手を取り合おうと思うだろうか?


 既に多くの人間を殺めた。これからも、犠牲は増えていくことだろう。それでも、止まることはできない。何を犠牲にしても、どんなに穢らわしい人間になったとしても、私は必ず、故郷を守る。


 これから、地界の部族全体を巻き込んで、三つの世界の間に戦いが始まる。


 そして私は必ず勝つ。月界という美しい世界をこれからも存続させるために。




   第1章 邂逅  完



 




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朱月姫奇譚 猫谷あず季 @azukichan

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