第12話 行方
その老婆は、突然私の居所にやってきた。
霧のひどい昼下がりのことだ。何となく気が重くて、何をする気にも慣れずにいたところに、突然部屋の扉を乱暴に叩く音が聞こえてきた。
誰なんだ、一体。勝手に月界王太子の居所に上がり込めるような者など……
また
「あんた、何してるんかえ」
正直、こちらが聞きたかったが、自分よりあまりにも年上すぎる人だし、割に上等な衣装を纏っていたので、呂太朗の親族かと思い、私は努めて礼儀正しく、こう問い返した。
「どなた様でございましょう。私に、何かご用事がございましたでしょうか」
「何を悠長なことを言うとる、燃えとるぞ。早く火を消さにゃ。お前にしかできんじゃろうが」
「燃えている……? 一体何が?」
「訓練場じゃ。小屋が燃えとる。中にあんたの一番大事な人がおる」
「私の一番大事な人?」
「姫じゃて。日界から来た姫じゃ」
一瞬で頭の中が暗くなった。
「早う行かんか。間に合わんぞ。訓練場じゃ。場所はわかるな? 坂がきつうてわしはもう行けんのじゃ」
老婆は私の腕を引き、無理やり外に引き摺り出そうとする。そして廊下に出た時、暗くなった頭の中に閃光が走り、私は居所を飛び出した。
瑛蘭。
何も考えられなかった。無我夢中で坂を駆け上がり、訓練場へ向かった。
「本当に……燃えている」
真っ黒な小屋に火が上がっていた。小屋からいくらか離れたところに、数人の訓練生、そして師範と思われる中年の男がいた。
私は走りながら、小屋の上に陣を出した。
「頼む、消してくれ」
祈るように呟きながら、小屋に向かって滝を落とした。火は消えた。訓練生たちが走っていく私たちを不思議そうに見つめている。それに構わず、私は小屋に駆け寄り、力任せに閂を引いて扉を開けた。
そこには、煤だらけの瑛蘭が倒れていた。
その肩を抱き上げると、彼女は私の名を呼び、私に語りかけた。それだけで身体中に安堵の溜息が広がった。
彼女は私に抱きついた。そしてこう言った。
「逢いたかった。ずっと逢いたかった」
確かにそう言ったのだ。
もう何もかもがどうでも良くなった。瑛蘭以外の何もかもが。私はなりふり構わず彼女を抱きしめた。
例えあなたが他の男の婚約者だとしても。
私が他の男の夫だとしても。
私が愛しているのはずっと、あなただ。
瑛蘭。
***
数日後、私は
そこには尋太朗だけではなく、呂太朗と
「まず、弦深様にはお礼を申し上げねばなりませんな。瑛蘭様をお救いいただいたこと、本当にありがとうございました」
尋太朗は深々と頭を下げた。いえ、とんでもない、と私が言葉を返そうとした時、それを遮るように尋太朗は言葉を続けた。
「ただ、屋敷の者から妙なことをお聞きしたので、こうして紗那様とお二人、お呼びたていたしました。目撃した者がいるのです。瑛蘭様と紗那様が、訓練生たちの休息時間に、二人で訓練場に入っていったと」
私は紗那に視線を流した。紗那は俯いたまま黙り込んでいる。
「瑛蘭様に確認したところ、確かに二人で訓練場に行き、例の小屋に近づいた。瑛蘭様だけが小屋の中に入ったが、その後のことはよく覚えていない、とおっしゃいました」
紗那は表情ひとつ変えない。ひたすら斜め下の方向に視線を落としている。
「紗那様、お伺いできますか? 何が起きたのか」
「私、途中ではぐれたんです。瑛蘭様と」
空虚な瞳を下に向けたまま、抑揚のない声で紗那は言った。
「確かに一緒に訓練場に行きました。あの日は本当に退屈だったし、訓練場がどんなところか以前から気になっていたので私から瑛蘭様を誘いました。でも、訓練場に入って、私が訓練に使う道具がたくさん納められている倉庫を見ている間に、瑛蘭様とはぐれたんです。遠くの方に黒い小屋があったのは覚えていますけど、私は近づいていません」
呂太朗と飛助はそれぞれ乾いた表情を紗那に向けていた。何を言うわけでもないが、この二人が紗那を疑っているのは明らかだった。
だが私は、紗那がわざわざ瑛蘭を閉じ込めるような意地の悪い女だとは思わないし、彼女がそんなことをする理由もわからない。だからどうにか、この疑惑を晴らす手伝いをしてやりたいと思った。
「誰かその様子を見ていた人はいないのか? 侍女とか。証言して貰えば、この疑いは晴れるのでは?」
すると、紗那がぞっとするほど冷たい視線を私に投げかけた。
「弦深様? 私をお疑いになるのですか?」
私は慌てて弁明した。
「そうではない。お前がそんなことをするはずがないと思っているから、確実にお前の潔白を証明できる方法がないか探してみたいと思ったまでで」
「もう、いい加減にしてくださいよ!」
紗那はいかづちのような鋭い声を上げ、立ち上がった。全員が息を殺すのを、肌で感じた。
「弦深様はいつもそうです。私のことを気にかけるような素振りを見せながら、本当は私のことなんて少しも考えていないし、興味もないですよね。妃と言っても私はいつまでもただのお飾りのまま。挙句には人を燃やして殺そうとしたと、お疑いになるんですか? 私がお嫌いなら、早く女王陛下にそうおっしゃってください! あなたに疎まれながらそばにいるくらいなら、月界に出戻る方がましです!」
一息にそう捲し立てると、紗那は騒々しい足音を立てて退出した。残された我々四人は、しばし言葉を見つけられずに視線を泳がせていたが、やがて取りなすように尋太朗が言った。
「確固たる証拠もないことですし、ご本人もああおっしゃっていますし、今回はひとまず置いておきましょう。だが、今後紗那様と瑛蘭様の接触には注意を払う必要がある。呂太朗、お二人の侍女たちにも、その旨しっかり言い聞かせておきなさい」
「承知しました」
そこでその話は本当に終わった。
そして呂太朗は、歯切れの悪い言い方で次の話題を始めようとした。
「その件とは別に……その、弦深様に……お話があるのですが」
「はい、何でしょう」
私が問い返しても、呂太朗はなかなか本題を切り出そうとしない。何かを咀嚼するかのように唇をくねらせるだけで、そこから言葉が出てこない。
すると飛助が唐突に頭を下げた。
「あの、弦深様! お願いします、助けてください!」
「……え?」
思わず覇気のない間抜けなを出してしまった。
「おい、飛助。お前何を勝手に」
「るせえなてめえがズバッと言い出せねえでひよひよしてるからだろうがよ」
「何だとっ、ひ、ひよっ……」
「弦深様、我々に力を貸してはくださりませんか。その、強い仙力を持って、我々に
結局、実際にそう伝えたのは尋太朗だった。
「……私の力が、一体どのように皆様のお力になれるのでしょう」
私が訊くと、呂太朗が俯いて言った。
「我々は、多くの部族に狙われております。最近は、蟲の毒を武器とする
地界の部族同士が、そのように一触即発の状態にあるとは全く知らなかった。月界と日界の関係にばかり意識を向けていて、全く見えていなかった。
「つまりさ、仲間になってくれってことよ。こいつがはっきり言わねえから俺が言うけどさ。いいじゃないですか、王太子さんだって暇だろ?」
「飛助」
飛助の砕けた話し方に、尋太朗と呂太朗は同時に眉をひそめた。
しかし、私の胸中には言葉では言い表し難い暖かな感情が優しい風のように広がっていた。
仲間、という言葉は、やはり不思議なものだ。
「私の拙い力でお力になれるのならば、加わらせていただこう。仲間、とやらに」
私が言うと、三人はほっとしたような表情をした。
しかしその後すぐに、呂太朗がはっと思い出したように深刻な口調になって私に問うた。
「弦深様。その……日界皇后の事件について、気になる点があるのですが、ここ最近、月界を離れた朝廷の関係者は、弦深様だけでしょうか?」
「……朝廷関係者?」
「ええ。ちょっと気になることがあるのです」
「おそらく、私と妃たち以外にはいないと思いますが……」
「そうですか。それなら、いいのですが……」
そこで私は、私も仙族の人々に問いたい事柄があったことを思い出した。
「そういえば、ずっと気になっていたのですが、現在の神仙姫は誰なのでしょう? やはり呂太朗殿の妹君であるかすみ様なのでしょうか? 神仙姫は代々、仙族長の一族に生まれるとよく聞きますが」
私の質問に、三人は息をひそめ、控えめな視線を送り合う。最終的に答えたのは尋太朗だった。
「それが、我々にもよくわからんのです。もちろん探してはいるのですが、見つかりません。ちなみにかすみではありません。彼女の首には、証である『神』の文字はありませんから」
それでは一体誰なのだろう。今現在、尋太朗の家族にかすみ以外の女性はいないはずだ。
しかし、元々単純な好奇心から生まれただけのそんな疑問は、呂太朗に逞しい手を差し出された時、一息に消え去ってしまった。
「とりあえず、これからお願いしますよ。仲間としてね」
私は、何も言葉を返せないまま無言でその手を握った。見た目以上に、その感触から彼の強靭さが伝わってきた。
***
居所に戻ると、入り口付近を女性が一人、忙しなくうろついているのが見えた。額や首、腕に包帯を巻いている。
近づいてよく見てみれば、それはなんと瑛蘭だった。
「瑛蘭様! なぜこのようなところに。お体がまだ回復されていないのでは」
そばに駆け寄ってそう声をかけると、瑛蘭は視線を泳がせながら言い訳をするように言った。
「いえ、あの、でも、弦深様にまたしてもお助けいただいてしまったので、その、お礼しなくてはと」
責めているわけでもないのに声を震わせる彼女が不憫で、私は慌てて笑顔を作った。
「よろしいのですよ。それより、またしても紗那が関わっていたようで……むしろこちらがお詫びをせねばならない事態ですね」
「いえ、そんなこと。そんなことないです」
瑛蘭は大きく首を振った。そして私から目を逸らすと、心の中に引っかかる厄介な思いをどうにか言葉にしようとするように胸の前に手を合わせて弱々しく口を動かした。
やがて、やっとその思いは声として発された。
「あの、弦深様が困ったときは、必ず私がお助けしますから!」
言ってしまってから、彼女は頬を濃い桃色に染めた。
「その……こんなに、助けていただいてばかりでは、申し訳ないと思いますから。だから私、弦深様が窮地に陥った時は、誰よりも早くお助けにあがりますわ。だから……だから……困った時は、絶対に私を呼んでくださいね」
そう言って彼女が浮かべた大輪の笑顔が、明るく照らされる。桂東は霧に包まれた場所なのに、確かに瑛蘭の顔だけが明るく照らされていたのだ。
どうすればいいのだろう。
どうしようもできないことはわかっている。今、こんなにも心が躍っていても、その高揚を素直に表してはいけないのだと。
愛していても、決して正直に伝えてはいけないのだと。
私は必死で胸の高鳴りを抑え込みながら、できるだけひっそりとした、穏やかな笑みを浮かべて言った。
「ありがとうございます。得難い味方を得ることができ、この上なく幸せです」
どことなく侘しい香りのする風が吹き抜けた。私たちは、しばしお互いを見つめあっていた。互いしか存在することのできない世界の中で。
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