第11話 恋慕


 夜中に喉の渇きで目が覚めて、私は美兎みとを呼んだ。

 しかし返事はない。


 どこに行ったんだろう、こんな夜中に。不思議に思いつつも、酷い喉の渇きに体を動かされ、私は水差しに入っている水を杯に注ぎ、一気に飲み干した。


 そして寝床に戻ろうとした時、窓の外から女性の声がして立ち止まった。何を話しているのかはよく聞こえないが、確かに話し声だった。


 私はそっと引き戸を引いて、外を見てみた。


 そこには、弦深の側室、舞鶴まつるの姿があった。赤茶の髪に、手袋。暗くてよく見えないが、あの風貌は舞鶴で間違いないだろう。なぜこんな時間にこんなところにいるのだろう。


 彼女の話し相手は、知らない女性だった。小柄で、顔もあどけない。髪も肩のところで切り揃えていて、子どもかしら、と私は思った。一体誰だろう。


 しかしとてつもない眠気が襲ってきて、私はそれ以上立っていられなかった。何かに引き寄せられるように寝床に吸い付き、そのまま再び眠りについてしまった。



  ***



 朝、私は美兎の声で目覚めた。

瑛蘭えいらん様。ひとえ様がお越しです」


 私はゆっくりと目を覚ます。


「ん……ねえ、美兎。昨夜はどこに行っていたの?」

「夜ですか? どこにも行っていませんよ」

「でも、水が飲みたくて起きた時、あなたはいなかったわ」

「いいえ、瑛蘭様がお目覚めになって喉が渇いたとおっしゃるので、私が水をご用意しましたよ」

「え? でも」

「きっと眠りが完全に覚めていらっしゃらない時のことなので、夢と混同しているのではないでしょうか」


 そう言われるとそうなのかもしれない、と思って、夜の記憶のことは気にならなくなってしまった。


「ひとえ様をお通ししなくてはならないので、まずお着替えを」


 私は急いで着替えを済ませ、ひとえを中に通した。あの一件で流石に少し体調を崩してしまったので、それ以降毎日私の様子を見にきてくれているのだ。


「お加減はいかがでしょうか」


 ひとえは薬を用意しながら、いつも通りの天女のような優しい微笑みを浮かべ小鳥が歌うような声で言った。


「だいぶ良くなりましたわ。ひとえさんのおかげね」

「顔色も良くなってきましたものね。私も一安心です」


 ひとえさんの用意してくれた苦い薬を飲みながら、私はふと、ずっとひとえに聞いてみたかったことを思い出した。


「ねえひとえさん。呂太朗ろたろう様は、どうしてお怪我なさったの?」


 ひとえは少しの間、まるで私の質問が聞こえていないかのようにまっさらな表情で薬草を片付けていたが、やがて穏やかな声で答えた。


蟲族こぞくが山の麓まで攻めてきて、争いが起きたのです。お館様と呂太朗様のおかげで、大事に至らずに済みましたが。強力な蟲の毒を使った蟲術こじゅつを操る彼らによって、呂太朗様の腕が腐食してしまいました。でもご安心ください。今はもうほぼ完治しております」

「腕が……腐食?」


 想像を絶するその内容に、私はしばし絶句した。

 やがて話す気力を取り戻した時、私はひとえの話の中にあったもう一つの気になる言葉について問いかけた。


「争いとは? なぜそのようなことが起きたのですか? この平和な世界で……」


 ひとえさんは口をつぐんで私から目を逸らしたが、意を決したようにその美しい灰色の目を私に向け、話し始めた。


「呂太朗様は故郷を遠く離れてここまで来られたあなた様に心配をかけまいと、あらゆることを内密にしておいでです。ですが、仙族次期首長の奥方となられるあなた様には、そのさまざまな事柄をおりになる権利があると私は考えます。僭越ながら、私から少しだけ、お話をさせていただきましょう」


 毅然とそう宣言したひとえは、いつにも増して美しい気がした。銀色の髪が、部屋の中にまで侵食する白い朝靄をかき散らすようにその輝きを強める。


「この地界に生きるほとんどの人々は、特殊な能力など持たず、平穏に過ごす善良な民たちです。地界は広く、様々な文化を持ったさまざまな国があります。我々の領土があるこの国は、京、と呼ばれる都におられる帝、と呼ばれるお方が治める国であり、この国には多くの特殊な能力を持った部族が存在しています。仙族も無論その一つです。我々はそれぞれの部族で集まり、部族内で独自に自治を行なっておりますが、昨今、不穏な動きが出始めています。いくつかの部族が、他の部族に争いを仕掛け、相手の部族を自分たちの支配下に置こうと企んでいるのです」

「そんな」

「仙族には、他の部族に争いを仕掛けようなどという考えはもちろんありません。ですが、自分達の力を強めたい他の部族にとって、神仙とのつながりが深い仙族は最も手に入れたい部族と言えるでしょう。蟲族だけではなく、いくつかの部族から狙われているのが現状です」


 そんな状況で、首長は、呂太朗は、戦っているというのか。

 知らなかった。何一つ。


「私が……こんなに非力だから……何も知らないし、知ろうとすらしないから……誰も何も教えてくれないのね」

「瑛蘭様。それは違います。どうかそのようなこと、おっしゃらないでください。あなた様は非力などではありません。地界に来られてまもないので、知らないことが多くこの世界に溶け込むのが難しいとお感じになったとしてもそれは至って普通のことです。いずれ、あなた様の純粋さと明るさは、皆の心を照らし、暖め、たくさんの者を救うでしょう。何と言っても、瑛蘭様は」


 ひとえは混じり気のない優しい笑みを浮かべて言った。


「世に平安をもたらす、朱月姫あかつきひめ様なのですから」


 またそれか。内心気弱に独りごちながら、私は小さくため息をついた。



  ***



 その日は珍しく、もう一人来客があった。

 しかもそれは紗那しゃなだった。弦深の姿はなく、一人で来たようだ。侍女すらもいない。


「どうなさいました? 紗那様」


 問いかけると、紗那はどこか冷たい雰囲気の漂う笑みを浮かべて言った。


「退屈で」


 また、退屈か。水切りをした日もそうだった。だがもちろん気持ちはわかる。月界がどのようなところかはよくわからないが、王宮、と呼ばれるところで暮らしていた紗那にとっても、ここでの暮らしはどこか寂しく、退屈に感じられても無理はない。


「今日は、瑛蘭様と一緒に、訓練場に行ってみたいと思いまして」

「訓練場?」


 訓練場とは、当然仙術の訓練が行われるところだ。この屋敷の中にあり、毎日多くの訓練生が訪れていると言うが、この屋敷で暮らしていながら私は一度も行ったことがなかった。


「今は、訓練生の人たちがみんな退がっていて、誰もいない時間だそうですよ。ご興味ないですか? 仙術の訓練場がどんなところか」


 私は先ほどのひとえの話を思い出した。呂太朗の婚約者でありながら、この世界と専属について、何も知らない私。

 一つずつ、身近なところから、知識を増やしていくべきなのではないか。


「そうですね。行きましょう。美兎みと


 私が美兎に着いてきなさい、と目で合図すると、紗那が一歩前に進み出ながら言った。


「瑛蘭様。仙術を封じられている身の私たちが、仙術の訓練場に行くことは、あまり良いことではないかもしれません。できるだけ目立たないように、私たち二人だけで行くほうがいいかと思います」


 そういえば紗那は、黒く目立たない装束に身を包んでいた。確かに、私たちが訓練場に行くことは、禁じられているわけではないが誉められたことでもないだろう。あまり目立つのは良くない。


 美兎を連れていくのは諦め、私も地味な服装に変更した。


 訓練場は、私たちの居所があるところよりも更に山の上へ登ったところにあった。靄が濃く、気温も低かった。

 寒い、と言うのが、正直なところ一番最初に胸に浮かんだ感想だった。


 そこはだだっ広いだけの砂地だった。小さな的のようなものがいくつか、古びた倉庫のようなものがいくつか、休憩所のような東屋がある以外は、これといって何もない、ただただ広いだけの地。


 紗那が言っていた通り人も全くいないので、本当に寂しいばかりの空き地に見えた。


「ここで、仙族の人々は……鍛錬を積んでいるのですね」


 私は呟いた。隣にいる紗那に向かって話しかけたつもりだったが、彼女からは何の反応もない。


 代わりに、彼女からこんな提案があった。


「瑛蘭様。あの、黒い小屋が見えますか?」


 紗那に言われ、私は彼女の指差した方を見遣った。そこには確かに、黒い小屋があった。鋼のようなもので作られているようだ。壁も屋根も重たい黒の光を放っている。


「あれ、何ですの?」

「あれは、火性かせいの仙術を使う者たちが、火の力を使った訓練を行うための小屋だそうです」

「火性?」

「仙術には種類があり、神がこの世にお与えになった自然の力、火、水、風、光などが術の礎になっているそうです。私もあまり詳しくはないのですが。そのうちの一つ、火の力を源にした術を使う術士が、あの小屋に火をつけながら火を操る訓練をしていると聞きました」

「そうなのですね」


 仙術と言ったら、神仙の力を借りて使う術だとしか知らなかった。そんな風に種類があったとは。


「少し見に行ってみませんか、瑛蘭様」


 紗那が静かな声で言った。私ももちろん興味はあったので、すぐに頷いた。


「ええ。そうしましょう」


 その小屋は、何度も何度も火に炙られたためか全体を煤に覆われ、焦げ臭い匂いがした。扉には外から閂がかかっている。


「中はどうなっているんでしょうね」


 特に何かがありそうな雰囲気はしなかったが、紗那のその言葉に背中を押されるように、私は閂をひいて扉を開いた。厚い鋼で光が遮断されているせいで中の様子はよく見えない。


 私は小屋の中に入ってみた。やはりただ黒い壁が円柱状に私を囲んでいるだけだ。


「紗那様、何もないようですわ」

 

 私の言葉に、紗那からの応答はない。代わりに、私の背後で扉が閉まる音がした。


 バタン、と。


 そして、何も見えなくなった。光の国で育った私にとって、間違いなく人生で初めて体験する、それは完全な暗闇だった。


「紗那様?」


 やはり何の反応もない。胸の中に黒い雲が垂れ込め始める。私は扉を内側から思い切り殴りつけた。


「紗那様! 紗那様! 助けてください。出られません。紗那様? いらっしゃいますか、紗那様?」


 いくら呼んでも返事はない。暗い小屋の中、自分の弱々しい叫び声がこだまするだけだった。厚い鋼の壁。きっと外には、私の声は届かない。


 どうしたらいいの……。


 私はその場に座り込んだ。脚にも腕にも、もう力が入らなかった。


 どれくらいの時間が経っただろうか。小屋の外に人の気配を感じて、私は再び立ち上がった。そしてまた扉を叩きながら、声のかぎり叫んだ。


 しかしどれだけ叩いても扉はびくともしない。こんなに頑丈な扉は見たことがない。


 外で数人の男が話しているように聞こえたが、何を言っているかはまったくわからない。小屋にそれほど近いわけでもなさそうだ。私は扉に耳を擦り付けてみた。いくつかの単語が聞こえてきた。


「……に、力を分散させる……で、……先日教えたことを……」

「まず……小屋を……ばいいんですね?」


 何の話をしているのだろう? 訓練生と師範だろうか? よくわからないが、とにかく外に人がいるのだ。気づいてもらわなければ。ここから出してもらわなければ。


 私はより一層強く、扉を叩いた。しかし、誰かが気づいてくれる気配はない。


 お願い、気づいて……。


 一向に変わらない状況に心が萎れかけ、私は力尽きた手のひらを扉に貼り付けて項垂れた。その時、手のひらに途轍もない温度の熱が伝わり、ジュッ! という弾けるような音がした。


「熱い!」


 反射的に扉から手を離し、そのまま後ろに倒れた。手のひらにひどい激痛がし、何かが焦げる時の匂いがした。


 手が焼けた?


 何が起きているのかわからず焼けた手を押さえながら呆然としていると、煙の匂いが鼻をつき、咳き込んだ。そして信じられないほどの凄まじい熱気が全身を包み込んだ。


 まさか。小屋が燃えている?

 訓練が始まったのだ。


 強い焦りに駆られて、私はまた扉を叩いてしまった。再び手が焼かれ、あまりの痛さと息苦しさに涙が溢れる。


 私……このまま死ぬの?


 何度も叫び声を上げた。しかしその声は固く分厚い壁に跳ね返され、炎の燃え上がる音にかき消される。


 私は座り込んだ。

 もう、だめだ。


 お母様……。

 もう時期、そちらに行くことになりそうです。

 何も成せないまま死ぬことになってしまって、本当にごめんなさい。

 世に平安をもたらすことどころか、日界のために呂太朗と結婚するという役目すら、果たすことができなかった。


 すぐに熱い煙が喉の奥まで入り込み、息ができなくなった。意識が朦朧としていく。座っている力さえ失い、地面に倒れ込んだ。


 その時だった。


 天井から突然、滝のように水が降ってきた。その水が全身に叩きつけられ、遠のきかけていた意識が戻ってきた。


「何……?」


 外を誰かが全速力で駆け抜けてくる荒い足音がした。


「瑛蘭様!」


 大声で私の名が呼ばれた。でも誰の声だかよくわからない。

 呂太朗様?

 でも、今日は確か屋敷にはいらっしゃらないはず……。


 ぎい、と扉が開く音がし、突然視界が開けた。ああ、助かった。


「瑛蘭様……」


 光に慣れない目は、なかなかそこに立つ人物の顔を判別できない。その人物の後ろで、訓練生や師範たちがざわめくのが聞こえた。


「え、瑛蘭様……」

「若奥様?」

「中にいらしたのか?」

「な、何てことしちまったんだ……」


 扉を開いた人が、小屋に入ってきて私の肩を抱いた。


「瑛蘭様。大丈夫ですか? 私がわかりますか?」

「……弦深様」


 そう。助けてくれたのは弦深だった。


「私……もうだめだと思いました。小屋が燃えてて……私」

「とにかく、お部屋に行きましょう。ひとえさんに見て頂かなくては。私がお連れします」


 胸の中の一番深いところに、沈み込むような深くて優しい声。

 私……この声を、昔から知っている。


 一体どこで聞いたのだろう。遠い昔のような気がする。全く思い出せない。でもきっと、私はどこかで彼に会っているのだ。ここで巡り逢うよりも、ずっと前に。


 それがどこなのかわからなくても、この胸の奥の強い感情が何なのかはわかる。

 これまで一度も持ったことのない感情なのに、はっきりとわかった。


 気がついたら、私は弦深に抱きついていた。強く強く抱きしめていた。焼け爛れた手で、彼の羽織を握りしめながら。


「逢いたかった。ずっと逢いたかった」


 そんな言葉が勝手に口をついて出た。どうしてそんな言葉が出てくるんだろう。でもそれは心の底から湧き上がる本心だった。その意味を自分で理解できなくても、紛れもない本心だった。

 弦深は何も言わなかった。ただ黙っていた。黙ったまま、私の体を抱きしめ返した。私よりももっと、強い力で。





 




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