第10話 暖かかったのは


 夢を見た。


 姉、宇衣ういの夢だ。

 夢の中で私はまだあの地下室にいて、姉は実際いつもそうしてくれていたように、本や食べ物を持って地下室に遊びに来てくれた。

 眉のところでまっすぐ切りそろえた前髪の下に広がる、年上のはずなのにあどけない笑顔。


弦深げんしん。久しぶり。私、ずっと来られなくて。ごめんね」

「いえ、よいのです。忙しいのに来てくれて、ありがとうございます」


 私たちは、私の好きな紫色の果実や、姉の好きな木の実の餡が入った饅頭を食べながら、他愛のない話をして過ごした。やがて姉が唐突に立ち上がる。


「行かないと」

「そう、ですよね。来てくれて、ありがとうございました。お会いできて嬉しかったです」

「私も弦深と会えて、楽しかった。たった一人の弟だから。でも......弦深にはもう、私がいなくても仲間がたくさんいるもんね」

「......仲間?」

「うん、たくさんいるよね」

「そうでしょうか」

「結婚もして、地界でいろんな人と出会って、もう一人じゃないよね」


 私は首を傾げた。


「そうなんでしょうか」

「そうだよ。それに、もうじき、夢の中じゃなくても、また私に会える日が来るよ」


 姉は、子どものように顔をくしゃくしゃにして笑った。



  ***



 夢から覚めると、枕元には姉ではなく、呂太朗ろたろうがいた。


「......いくらこの屋敷の主であっても、私の眠っている間に勝手に部屋に入り、枕元に立っているというのはいかがなものでしょうか」

「お話があって参りましたが、お休みになっておりましたので。非常識なほど早い時間ではなく、むしろ遅いくらいだと思いますが、いつまで経ってもお目覚めにならないので。こうしてできるだけ静かにしておりましたが、気に障ったなら謝ります」


 ずいぶんと喧嘩腰だ。一体この男は私に何の恨みがあるというのだろうか。


「話とは、何でございましょう」

「はい。単刀直入に申しますが、お妃様方の管理くらい、ちゃんとしていただきたい」


 私は彼の言っていることがよく分からず、呆然としてしまった。


「あの。聞いてます? 俺、一応真面目に話してるんですけどね」

「すみません......。管理、というと、どういうことだろうと思って」

「そのままの意味ですよ。紗那しゃな様が瑛蘭えいらん様の大切な簪をいかに落として、大変な騒ぎになったでしょう。普通の神経してたら、人の大切なものを借りてそれを水の上まで持って行って落とすなんてこと、絶対にやりません。弦深様からも、ちゃんと言って聞かせてくださいよ」

「ああ、その件は、本当に申し訳なかった。もちろん悪いのは紗那だ。ただ、彼女によくよく話を聞いてみたら、悪気があったわけではないのです。瑛蘭様の簪があまりに綺麗で、少しの間自分の髪に付けてみたくなっただけで、池に落とすつもりも奪うつもりもさらさらなかったのだと。とにかく自分の行いを悔やんでおります。私もしっかり言って聞かせますから、今回は多目にみてくださらぬか」


 呂太朗は一瞬妙な表情をした。私の言っていることを理解できない、とでも言いたげな不服そうな顔を。


「まあ、紗那様と二人で、瑛蘭様に謝りに行ってくれれば、今回の話は終了とさせていただきますよ」

「ありがたい」

「あと、瑛蘭様を助ける時、あなた仙術使いましたね?」


 呂太朗は鋭い目で私を睨みつけた。


「ええ、他に手がなかったもので」

「あなた、この前俺が話したこと、理解してくれてないんですか?」


 もちろん覚えている。私の仙力が、彼に見破られたこと。私に仙力があるなら、瑛蘭の母を殺害した人物として疑いを向けざるを得ないが、呂太朗としてはどうしても私がそんなことをするように思えないし、瑛蘭の母たちを殺めた術は殺傷能力の高い気性きせいの術だったことがわかっていて私の術とは無関係だ。使う陣も現場に残っていたものとは少し違った。だから妙な疑惑を生まないように、出来る限り仙力を使うところを見られないでくれ、と頼まれた。


「仙術を使ったのはあの一度きりです。瑛蘭様を救うためには、どうしても使うしかなかった」

「そこまでしなくても、引っ張り上げれば良かったでしょう」

「それでは瑛蘭様は納得しない。落ちた簪を見つけ出さない限り、意地でも池を出なかったでしょう。そもそも、ひとえさんたちを助け出した時、あなたが瑛蘭様も助けていたらこうはなりませんでした。何故、彼女を放っておいたのです? 婚約者なのだから、一番に助けるべきでしょう?」

「それは......瑛蘭様が己の立場を考えず、自分のことばかり考えて行動して周りを振り回していたことに腹が立っていて......」

「ひとえさんに、瑛蘭様に手を差し伸べる姿を見られたくなかったのですか?」


 呂太朗は顔を真っ赤にして、それを隠すように慌てて頭を下げた。それきり何も言わなくなった。


「自分たちの民のため、世の平安のため、上に立つものが伴侶を自由に選べないことは、とても残酷で、苦しいことだと、私もわかっています。しかし、どのような経緯があったにせよ、あなたの将来の伴侶は瑛蘭様と決まっていて、故郷を離れ地界へやってきた瑛蘭様には、あなた以外に頼れる人がいないのです。護ってあげなくては」


 呂太朗は俯いたまま、きまり悪そうに黙っていたが、やがて口を開いた。


「わかっていますよ。今回はただ、瑛蘭様は甘やかされて育ったからか周りが見えていなかったり、全てが自分の思い通りになって当然だと無意識に思い込んでいる節があるので、俺がその辺りを正してあげたいと思ったまでで......まあ、それはおいといて、とりあえず、謝罪の件と、仙力を隠す件、よろしくお願いします」

「わかりました」

「じゃ、来客があるので俺はこれで」


 呂太朗が立ち上がった時、私はふと、ずっと呂太朗に聞いてみたかったことがあるのを思い出した。


「あの、呂太朗殿。一つお聞きしてよろしいか」

「なんです」

「宴で振る舞っていただいた料理があるでしょう」

「? はあ、ありましたね」

「あの料理なのですが、舌や内臓以外のところに作用する、独特な味覚だったり、温度を持っているのでしょうか?」

「ん? 何を言っているんです?」


 呂太朗は不気味がるような目を私に向けた。


「不思議な感覚がしたんです。これまで口にしてきた料理は、ただ甘いとか辛いとか、味覚でしか感じられなかったはずなのに、あの時、料理を食べたら、何だか胸にまでじんと、料理の温かみを感じた気がしたのです」


 上手く言葉にできず、不確かな言い方になってしまった。すると呂太朗は、何度か目を瞬かせた後、それまで私には一度も向けた事がなかった優しい微笑みを浮かべて言った。


「それはきっと、みんなで一緒に食事したからでしょうね」


 脳に閃光が走ったような衝撃があった。


「食事なんて一人でも出来るけど、みんなで食べたほうが美味しいしあったかいもんですよ。俺らはよく、みんなで集まって食事してるから、またやりましょう。宴。仙術さえ使わないでいてくれれば、あなたも俺たちの仲間なんで」

「......仲間?」


 私が、彼の?


「そんな複雑な顔しないでくださいよ、嫌なの? 俺としては、一回一緒に飯食ったら、仲間だと思ってるんですよ。ま、一方的な考えかもしれないけど。じゃあ、行きますね。俺の話、ちゃんと覚えててくださいよ。王太子殿下」


 そう言い残し、呂太朗は颯爽と出ていってしまった。


 私はしばらく、不思議な感覚に包まれて立ち尽くしていたが、やらなくてはいけない事があるのを思い出して、急いで部屋を飛び出した。


 外に出ると、建物から少し離れたところにまだ呂太朗がいた。先程話していた「来客」だろうか。ひょろりとした白い肌の男と談笑している。


「若様。それは災難でしたな。がしかし、私が今日お持ちしたものをお使いになれば、万事うまく行きますぞ。実は野族の長も愛用している代物でして、効果は実証済み、なんなら野族の間での評判を全てこの手で書き落としたものをご覧にいれられるくらいですからねえ、紙20枚ほどにはなるんじゃないのかな、まあ今日は準備が間に合わなかったのですが」


 なんだか胡散臭い商売人に見えるが、呂太朗はずいぶん親しみのこもった笑顔をその男に向けている。


「呂太朗殿」


 近づいて声をかけてみると、二人が一度に私の方を見た。商人風情の男の顔を見た時、私ははっとした。


 この男、どこかで見た事がある。


 どこだったかは思い出せない。きっとものすごく昔のことだ。ものすごく昔に見たということは、月界で、しかもあの地下室で、見たということになる。一体誰だ?


「ああ、弦深様。こちらは幽俠ゆうきょう。我々に必要なものをあちこちから調達して持ってきてくれる商人です。幽俠、こちらは月界の王太子、弦深様だ」

「あああなんと。月界の王太子様ですと。そのような方の御前に出て良いような者ではございませんのに。ご無礼いたしました」


 幽俠は自分の顔が私に見えないよう、深く頭を下げた。


「いや、よいのだが、幽俠とやら。そなた、もしや」


 私が言いかけると、幽俠はその言葉を遮った。


「若様! 私などが王太子様の御前に長々と姿を晒し続けるなど、無礼千万! 無礼千万です! 早いところ、いつものお部屋へ」

「そうか? まあ、お前も忙しいだろうからな。では、弦深様。また」


 二人は、そのまま去ってしまった。


 一体あの男は誰だったか。

 気にはなったが、いつまでもそこに止まってはいられなかった。



  ***



 「絶対に嫌でございます! 弦深様、何故そのようなことを?」


 一緒に瑛蘭に謝りに行こう、と言っただけで紗那に金切り声で怒鳴られ、私は思わずあとずさってしまった。


「何がそれほどまでに嫌なのだ。謝れば、瑛蘭様も許してくださる。今後わだかまりなく過ごせるよう、問題を終結させようと言っているだけだ」


 私は子どもをあやすように、出来るだけ優しい声で言った。


「もう謝りました」


 紗那はまさにわからずやの子どものように、そう吐き捨ててそっぽを向いた。


「ちゃんと顔を合わせて、しっかり謝るのだ。そなたに悪気がなかったこと、私はちゃんとわかっている。だが、瑛蘭様には誤解されているやもしれん。だからきちんと話をしよう」


 紗那は顔を背けたままだ。頬まで膨らませ始めた。本当に子どもみたいだなと少し微笑みながら、私は言った。


「紗那が本当は聡明で芯が強く、優しい娘だと私は知っているし、たとえみんながそなたを悪く言ったとしても、我が妻であるそなたを、私は信じている。そなたなら瑛蘭様にきちんとお詫びができると思っているよ」

「弦深様......」


 少し俯いてから、紗那は言った。


「わかりました。お詫びに参ります」



  ***



 二人で自分の居所を訪れた我々を、瑛蘭は不思議そうに見つめた。


「どうなさいましたの、お二人お揃いで、こんなところまで」

「突然の訪問、ご無礼をお許しください。実は紗那からお話がございまして。そうだな?」


 私に水を向けられると、紗那はすぐさま床に三つ指をつき、低頭した。


「先日の......瑛蘭様の簪のこと、誠に申し訳ございませんでした。寒天の下、瑛蘭様自ら池に入る事態となってしまい......自らの浅はかな行いを恥じるとともに、深く反省しております」

「紗那様、頭をあげてください。もう済んだことですから......」


 瑛蘭は慌てて紗那の肩に触れ、頭をあげさせようとした。しかし紗那は深く頭を下げたまま動かなかった。


 きっと深く反省しているのだ。この様子を見れば、瑛蘭にもその思いは届くことだろう。


「それに......あの日は弦深様に助けていただき、無事に簪を見つけることができたのです。きっと紗那様がお伝えしてくださったのでしょう。だから気になさらないで。私ももう、忘れることにしますから」


 瑛蘭が言うと、紗那はゆっくりと顔をあげ、瑛蘭ではなく、私の方を見た。


「えっ?」


 紗那の目はまるで空洞のように色がなく、意思が見えなかった。私は背筋に軽い震えが生じるのを感じた。

 なんだ、この目は。


 瑛蘭の居所を出て自分たちの居所に戻る間、私が何を言っても、紗那からは曖昧な相槌しか返ってこなかった。


 別れ際まで、彼女は私の顔を見なかった。





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