第9話 ざわめき


 「瑛蘭えいらん様の番ですよ。さあ、どうぞ」


 屋敷内で一番大きな池の前で、ひとえに石を手渡され、私は複雑な心境でその石を見つめる。


 秋も深まり、桂東けいとうはかなり冷え込んでいる。


 私の周りにはひとえ、弦深げんしんの妃3人、そして美兎たち侍女がいる。


 どうしてこの面々と水切りをして遊んでいるのかと言えば、今朝方、弦深の正室である紗那しゃなに突然、


「何となく退屈なので、側室のものたちと遊ぼうかと思うのですが、ご一緒しません?」


 と誘われたからだ。断るのも何だが、月界の妃3人組の中にひとりで飛び込んで行く勇気はなかったので、たまたま屋敷に来ていたひとえを誘い、付き合ってもらうことにしたのだった。


 何をして遊ぶのか、と紗那に聞くと


「仙族の遊びを教えてくださいな。せっかくですので」


 と屈託ない笑顔で言われ、それなら、とひとえが水切りを教えてくれることになったのだ。


「何だか地味な遊びですね。楽器だとか、貝合わせとか香合わせとか、そう言う優雅な文化が地界にはたくさんあると聞いていたんですけど」


 紗那は男性陣と一緒にいる時には決して出さないような、聞いたこともない低い声で言った。自分から教えて欲しいと言っておいてそんな文句はないだろうと私は思ったが、ひとえは優しく笑って言った。


「そういう遊びは、都会に暮らす非術族ひじゅつぞくの貴族が嗜む遊びで、我々には縁がない遊びなのです」

「非術族?」

 聞きなれない言葉に、私は首を傾げた。


「はい、瑛蘭様も、聞いたことはありませんか? 地界には専属の他にも、妖族ようぞく野族やぞくなど、特殊な能力を持った種族がありますが、そういった能力のない、地界の人口の大半を占める人々を我々はそう呼びます。もっとも、非術族は我々のような特殊能力を持つ種族があること自体知りませんから、自分達がそんな呼び方をされていることも知らないでしょうけれど」

「妖族は、聞いたことあるかも。確か目が紫色なんですよね!」

「ええ、目だったり、あるいは爪が紫色をしていることもあるようですよ」


 私とひとえが話しているのを横目に、紗那は心底つまらなそうな顔をしていた。そしてその後ろにまるで侍女のように侍る側室二人は、相変わらず影が薄い。口がないのかと疑ってしまうほど発言がない。そのうちの一人は、見た目だけは何だか派手だけれど。髪赤いし。謎の手袋してるし。


「そうだ、ずっとお聞きしたかったんですが、瑛蘭様、その髪飾りは、何という石でできているのですか? 赤い輝きがとても美しいですね」

 ひとえにふと訊かれ、私は石を投げようとした手を止め、遠くを見つめた。


紅蕾石こうらいせきっていう日界の宝玉です。本当は、母のかんざしなんです。これ」

 母が気に入っていて、大切な日にはいつもつけていたもの。桂東へやってくる時もつけていた。


 ひとえは、そうでしたか、とだけ言い、申し訳なさそうに俯いた。


「ねえ、瑛蘭様。よろしければ私と、勝負しませんか?」


 感傷的な話で静まり返ってしまった池のほとりに、突然高らかな声が響いた。

 紗那だった。


「勝負、ですか?」

「ええ。どうでしょう? 私と瑛蘭様、どちらかより遠くまで石を飛ばせた方が勝ち、勝った方の願いを一つ、負けた方が聞き入れる、というのは? だって、そういう楽しみでもないと、あんまりにも退屈じゃありませんこと? この遊び」


 そう言う紗那の笑顔にはどことなく意地の悪さが潜んでいる気がして不安になったが、何だか断ることも許されない雰囲気なので、

「名案ですわね」

 と乗ってしまった。


 しかし私は、この水切りという遊びには、からきし才能がなかった。私の手から離れると、石はすぐに水底に向かって沈んでいってしまう。ひとえがやってみせるように、水面を何度も弾ませることはできない。


「じゃ、瑛蘭様がちょうど石をお持ちですから、お先にどうぞ」


 紗那に言われ、私は無駄に深呼吸をしてから、祈るような気持ちで石を投げた。しかし祈りは届かない。石はこれまで同様、飛ばした瞬間水底深く沈んでいった。


「では、私が」


 紗那は側室の須和すわから石を受け取り、しなやかな動きで石を投げた。石は水上を舞う水鳥のように軽やかに水面を飛び跳ねていった。


「どうかしら、ひとえさん。師範の目からご覧になっても、私の勝ち、ということでよろしいかしら?」


 紗那は、不敵な笑みをひとえに向けた。

「そうですね。紗那様、お見事でございました」


「では瑛蘭様、願い事を申し上げてもよろしいですか?」

「ええ、どうぞ」


 なんかこの人、とんでもないこと言ってきそう。広大な敷地内を走って3周して来いとか、山のいただきまで行って珍しい花を取って来いとか。


 しかし紗那の「願い」は、私の予想を遥かに超えて無慈悲なものだった。

「その簪、とっても気に入りましたので、少しだけ貸してくださいな。もちろんきちんとお返ししますから」


 場が静まり返った。


 ひとえが紗那に小声で囁くのが聞こえた。


「紗那様、それはちょっと」

「あらなんですの、ひとえさん。私何か良くないことを申し上げたかしら? 何でも願いを聞くという取り決めだったはずよ」


 雰囲気が悪くなり始めた。母の形見を誰かに渡すようなことはもちろんあまりしたくない。だけど、これ以上空気を乱すわけにはいかない。


「もちろんですわ。きっとお似合いになります。さあ、どうぞ」


 私は簪を外し、できる限りの笑みを浮かべて紗那に差し出した。紗那はさっ、と不作法にそれをひったくると、すぐに自分の髪に挿しこんだ。

「いかがかしら?」


 確かに、彼女の艶やかな黒髪にその赤い色はよく映えていた。ひょっとすると、私の白茶の髪よりも合っているかもしれない。私の母も髪が黒かった。彼女の後ろ姿は、少し母の姿と重なって胸が痛んだ。


「素敵ですわ。とても」


 私が言うと、彼女は静かに笑い、池に浮かぶ飛石を渡って池の中央に立った。

「こうして光に当たると、もっと美しいのではなくて?」


 霧深い桂東だが、今日は珍しく弱い日が差していた。そのささやかな光を受けて、簪は儚げな紅い光を放った。


「でも私、こうしていると見えないわね。ちょっと外してみようかしら」


 紗那はそう言って、おもむろに簪を外した。そして手を伸ばし、簪を天へ向かって掲げた。

「まあ……なんて綺麗」


 そう嘆息を漏らした時、紗那の足元がふらついた。そして体を立て直そうとした時、彼女の手から簪が滑り落ちた。


「あっ」

 私は思わず声を上げた。簪はそのまま池の中に落ちてしまった。


「まあ……なんてこと……どうしましょう」


 紗那は両手で頬を抑え、困り果てた表情で私たちのいる方へ戻ってきた。

「瑛蘭様……何と申し上げたらいいか」


 側室の須和が、弱々しい声で言った。

「あ、あの……私、術師の方を呼んで参ります。せ、仙術でなら、池の水を吸い取ることもできるって聞いたこと、あるので……」

 正室の不手際に責任を感じているらしい。


「この屋敷には水性の術を自在に操れる術師は首長しかおらず、首長は今ご不在ですので……」

 ひとえが青ざめた顔で言った。

 

 術だとか何だとか言ってられないわ。早く探さないと。

 私は迷わず、冷たい池の中に入り込んでいった。


「瑛蘭様」


 美兎が呼ぶのが聞こえたが、構ってはいられなかった。私が振り向きもせず水を掻いて進んでいると、後ろで誰かが私に続いて水に飛び込む音がした。振り向くと、それは美兎だった。


「私も探します」


 ひとえが叫んだ。

「瑛蘭様、人を呼びますから、どうか上がってきてください。今日は気温も低いので、お体に触ります」


 私は構わず水中を探し続けた。するとひとえが小さく息をついて、池の中へ入ってきた。彼女は地上に並ぶ侍女たちに言った。

「できるだけたくさん人を呼んできて。みんなで早く探すのよ。若奥様に風邪をひかせてはだめ」


 侍女たちは一礼し、すぐ建物の方へ走っていった。


「では私たちは、協力してくださる術師の方を探して参りますわ」


 紗那の冷めた声が聞こえた。そして遠ざかっていく三人分の足音も。


 紗那は、わざと落としたのではないか?


 そんなことを思ってはいけないと分かっていても、思わずにはいられなかった。あの演技じみたよろめき、簪を落とした手の動き。


 私に何か恨みでもあるというの?


 でもあまり考えている時間はなかった。探さなくては。早く。早く。


「なんの騒ぎじゃ、ひとえ」


 必死で水中に腕を泳がせていると、頭上から幼い少女の声が降ってきた。ふと顔を上げると、そこにいた小さな少女と目が合った。そしてその顔を見て、私は一瞬凍りついた。


 顔中が青い痣に覆われている。


「かすみ様!」


 ひとえが叫んだ。


「こんなに寒い日に表に出てはいけません。何でもありませんから、どうかお部屋にお戻りください」


 しかし少女はそこを去ろうとせず、その場にかがみ込んだ。

「池で何をしているのだ。かすみも入りたい」

 そう言って、彼女は小さな腕を精一杯水面に伸ばした。


 落ちる。


「待って、だめ」


 私が彼女の方に手を伸ばそうとした時、突然雷鳴のような大声が響き渡った。


「かすみ! 何してる!」


 呂太朗ろたろうだった。こちらめがけて、すごい形相で走ってくる。そして池のほとりにたどり着くと、かすみを抱き上げた。


「兄上」


 兄上……?

 妹がいたの? そんなこと知らなかった……。


「……瑛蘭様。説明していただけますか。これは何事ですか」


 呂太朗は私に訊いた。普段の明朗な声からは想像もつかないような、低く震えた声だった。


 怒っているのだ。私に。


 でも、説明すれば分かってもらえるはず。


「私の大切な簪が、池に落ちてしまって。私が探し出そうと池に入ったら、みんなが手伝おうと一緒に入ってきてくれたのですが、そうしたらその騒ぎで、かすみ様がこちらまでいらしてしまって……」


「……簪?」


 呂太朗は表情なくつぶやいて、池の中にいるひとえをまっすぐに見つめた。ひとえは頭の先まで水に濡れ、髪も着物も乱れている。彼女を見る呂太朗の目が赤らみ、震えた。


「瑛蘭様」

「はい」

「あなたは、自分の立場をちゃんと分かってくれてますか」

「え?」


 何を言われているかよくわからず困っていると、呂太朗がこの山全体を揺るがすような怒鳴り声を上げた。


「わからないのか! あなたがそうやって池に入ったら、下のものたちはそれに続くしかないだろう! この寒さで冷たい水の中に入れば体を壊すかもしれない。命も危険に晒すかもしれない。それでもあなたが池に入ってしまえば、ひとえや侍女はそれについていくしかないんだ! 何でわからないんだ!」


 ものすごい剣幕だった。心の底から怒っているようだった。私は凍りついた。私が動けなくなっている間に、呂太朗は一度かすみを下ろして、ひとえと美兎を順番に地上に引き上げた。

 私には目もくれない。


「……瑛蘭様。ここはもうあなたの生まれ育った宮殿ではありません。ここにはここの、上に立つものの責任と振る舞い方があります。あなたのわがままで、周りを振り回すのはやめていただきたい。……そろそろ日が落ちます。簪は父が戻ってきたら探してもらいますから、あなたも上がってください。体に触る」


 呂太朗はまたかすみを抱き上げ、ひとえに「行くぞ」と声をかけ、行ってしまった。ひとえは心配そうに私のほうを見、一礼して呂太朗の後を追った。


「……美兎。あなたも結花殿ゆいかでんに戻っていて。さっきの話、聞いてたでしょ。またあなたを池に入れたら、今度はただでは済まされないわ」

「瑛蘭様、一緒に戻りましょう。呂太朗様のおっしゃる通り、もう日が落ちます。ひとまず……」

「母の形見が池の中に落ちたのよ! 見つかるまで戻れない! ここから出ない! いいから先に戻っていてちょうだい!」


 耐えきれなくなって叫び声をあげ、私はまた池の中を探り始めた。美兎はしばらくそこに留まっていたが、やがて諦めて引き上げて行った。



  ***



 そのすぐ後、日は本当に落ちた。それでも私は捜索をやめられなかった。

 もちろん母の形見を探し出さなければ、という気持ちが一番大きかったが、悔しさと意地もあった。


 あんなに怒ることないじゃない。


 どうして私があんなに怒られなければいけなかったのだろう。美兎にもひとえにも、手伝ってほしいだなんて言ってない。私はただ、池に落ちた母の形見を探したかっただけなのに、簪如きで、とでも言いたげな冷たい口調。そして……


 ひとえを見た時のあの瞳。


 呂太朗にとって私なんて、地界の人々に比べたら取るに足らない存在なんだわ。

 悔しい。寂しい。朱絃都しゅげんとに帰りたい。

 お父様、お兄様、香燐こうりん……。


 抑えきれなかった涙が、池の中にぽとり、と落ちた時、突然大きく水面が揺らめいた。


 え……?


 次の瞬間、急激に水面が下がっていった。胸まで浸かっていた私の体が、だんだんと姿を現し始めた。


 どうなってるの?


「瑛蘭様」


 背後で突然声がした。

 なぜか懐かしい、優しい声……。


 振り向くと、そこにいたのは弦深だった。


「瑛蘭様。大丈夫ですか?」

「えっと、あの……」


 ふと下を見ると、池の水はすっかり干上がっていた。どうしてこんなことが? 水はどこに行ったの?


 水がなくなると、全身に冷たい風が吹き付けて、更に寒かった。私は体を抱いて身を震わせた。


 すると弦深が干上がった池に降りてきて、自分の羽織を私に着せた。

 暖かい……。


「お探しのものは、こちらでしょうか?」


 弦深が何かを拾い上げて差し出した。それは母の簪だった。涙が勝手に溢れてきた。


「……ありがとうございます。本当に……本当に大切なものなんです。ありがとうございます」

「何もしていませんよ。それより、紗那から聞きました。紗那がこの簪を借りて、池に落としてしまったと……。本当に、申し訳ありませんでした。紗那も取り乱し、大変なことをしてしまったと、自分の行いを悔やんでおりました。代わりに謝っても許してもらえることではないと分かっておりますが……、本当にすみませんでした」

「いえ、そんな、顔を上げてください」


 やはり紗那も、悪気があってしたことではなかったのだろう。そう思うと、何となく気持ちが楽になる気がした。


「それより、弦深様、これは……どういうことなのです? 池の水が……」

「ああ、驚かせてしまいましたね。実は私は……水性の仙術を使えるのです」

「え? でも、日界と月界の人々はみんな、仙術を封じられたのでは……」

「色々と、訳がありましてね。でも、悪用するつもりはありませんし、それほど強い力ではありません。極秘なので、本当はこうして力を使ってはいけないのですが……。困っている瑛蘭様を見たら、居ても立ってもいられず、つい」


 え……?

 私の、ために?


「だから瑛蘭様、このことは私と瑛蘭様、二人だけの秘密にしてくださいね」


 弦深は私に近づいて、耳元で囁いた。


「あ……あの……」


 その時、ものすごい立ちくらみがした。世界が歪み、体から力が抜け、私はその場にくず折れた。


「瑛蘭様」


 次の瞬間、弦深は私を抱き上げた。


「お部屋までお連れします」


 彼の腕の中は、幼い頃私を抱きしめてくれた両親の腕の温もりに似ているような、でも全く違うような、何とも言えない不思議な感覚がした。


 どうしようもないほど心地よかった。


 


 





 

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