第2話 闇夜の変災
少女の泣き顔を、今も覚えている。
私の閉じ込められている地下の部屋は、今はだだっ広い二間続きの部屋だが、昔は中央で二つに区切られていた。
そしてその二つのうち、私が使っていなかった方はほとんど使用されることがなかったが、ほんの三ヶ月だけ、ある目的で使われていた。
当時戦敵だった日界の姫が、人質として幽閉されていたのだ。
その名前も、彼女が日界の何番目の皇女なのかもわからない。私の方もまだたったの九つだったので、細かい事情には疎かった。少女が日界の皇女だったということも、後になって知ったことだ。
私は初め、引き戸越しに彼女に話しかけた。最初の方は警戒されたが、徐々に私の話に反応してくれるようになった。やがて私は襖を開いて、直接彼女の顔を見て話をするようになった。
私の顔を彼女に見られてしまうことを母は別段恐れていなかったので、襖に術はかけられていなかった。
後で記憶を消せばいいだけの話だ。
初めて対面した少女は美しかった。
日界の明るく煌びやかな
一目で恋に落ちてしまった。
彼女は私のくだらない話を聞いて笑顔を見せてくれた。やや難解な話には呆然とした。私の境遇を聞くと、苦しそうな表情をした。そして、彼女の故郷の話になると寂しさを募らせて泣いた。
彼女は色々な表情を見せた。
しかし、思い出すのは泣き顔ばかりだ。
そんな昔の思い出に浸っていると、突然廊下を駆ける大きな足音が聞こえ、間も無く襖が音を立てて開かた。そしてそこから、灰色の絹の装束を着て長い黒髪を一つに束ねた長身の男が入ってきた。
「
「なんだ
「陛下が……お母上がお呼びです」
「……なんだと?」
私は眉を顰めた。母に会うのは年に一、二回母が私の様子をここまで見にくる時のみで、私がここを出て、母の元へ出向いて対面するなどということは……つまり、私がこの地下室から出るということは、あり得ない話だった。
「本当にか?」
「本当です。階段の上に陛下の使者も来ています。弦深様を、ここからお出ししろと」
部屋の隅で居眠りをしていた侍女の
「点久様。本当なのですか?」
「ああ本当だ。弦深様、お急ぎください。あまり遅くなると陛下の機嫌を損ねます」
点久が言うと、美兎がすぐさま着替えを持ってきた。紫の絹の装束。王族の衣装だ。
私はすぐに着替えて美兎に髪を整えてもらい、自らの姿を鏡に映した。白く浮き上がる、瓜型のまるで女のような顔。黒く長い髪。
しばらく見ない間に、随分やつれたものだ。
「弦深様、急ぎましょう」
急かす点久に手を引かれ、私は生まれて初めて部屋の外に出た。行ってらっしゃいませ、と言う美兎の言葉を背に受け、廊下を歩き出す。
月界は、常夜の世界。外に出たからといって、燦々と日が差しているわけではない。しかし、やはりそれでも、地上の世界は私が暮らしてきた部屋とは違った。
地上へ続く階段を上がると、空気が違った。澱みのない澄んだ空気。こんなにも違うものなのかと、私は衝撃を受けた。
「弦深様。お迎えにあがりました。参りましょう」
母の使者だという護衛官風の身なりをした男が、おざなりなお辞儀をした。その様子を見て、やはり自分は全く王族扱いされていないのだという事実を突きつけられる。
母の居室は、ここから少し離れた
月界の王室は長い間女系が王位を継承してきた。母である現在の女王、
私はそこになんの不満もなかった。王位など欲しいと思わない。権力に対する欲はない。しかも、私は姉が好きだ。家族の中で唯一私を気にかけてくれ、幽閉されている地下室へも足繁く通ってくれる優しい姉が。姉が女王になれば、必ず月界はよい界域になると信じている。それなのに母はなぜか、息子の私を異様に危険視している。
私は生まれてすぐに、王宮の北の端にある小さな屋敷の地下室に幽閉された。それから19年ずっとここを出たことはない。一部の家臣や従者を除き私の存在を知るものはいない。
私が地上に出ることは、母が決して許さなかった。たった今まで。
いったいなぜ、女王は突然私を呼び出したのだ?
何があったというのだ?
紫鵬殿までは、思っていたよりも歩いた。王宮がこんなに広いことも、私は今まで知らなかった。
やがて前を歩く護衛官と点久の足が止まった。目の前には、この王宮の中でもおそらく1番豪奢で巨大な宮殿があった。
これが紫鵬殿。
我々はその建物に入っていった。その名の通り、建物の欄間や柱などは、紫で彩られている。
そして女王の間の前で、護衛官は立ち止まり、扉の前に控える侍女に取次を頼んだ。
「陛下。弦深様がお見えでございます」
「通しなさい」
女性にしては低い、少し掠れた声が床を這うようにこちらに忍び寄ってきた。
侍女が扉を開くと、私たち三人は中へ入った。護衛官と点久はすぐに左右へ身を引いて、私の目の前には玉座に座る女王の姿が現れた。
まっすぐ私を見つめる彼女は、先ほど鏡で確認した私の顔に似ているようにも、似ていないように見える。目は私よりも細く長いし、唇も薄い。ただ、真っ白な肌と髪は同じものを見ているかのようにそっくりな輝きを放っていた。
「変わらないようだな」
女王は私の顔を一瞥すると、冷たくつぶやいた。あんなところに1人で籠っていれば、変わるも変わらないもないだろう、と心の中で吐き捨てながら、
「はい」
と答えた。それきり、女王が何も話そうとしないので、私はいてもたってもいられず自分から切り出した。
「恐れながら陛下、ご用件をお話しくださいますでしょうか。私にどんなご用があり、ここまで来ることをお許しくださったのでしょうか」
それでも女王の口は引き結ばれたまま開かなかった。
待つしかないか。
私はおとなしく直立したまま、女王の言葉を待った。
やがて女王は、ため息と共にこう言った。
「我が第一王子、弦深よ。本日そなたを、王太子に冊封する」
我が耳を疑う言葉だった。
「陛下? 今何と?」
「そなたは、本日から王太子だ」
女王は今度はもっとはっきりした声でそう言った。
「な……なぜですか? なぜ私を? 私は王子なのに……姉上は……」
「宇衣は……昨夜、殺された」
女王の言葉は、私の時を止めた。
殺された?
「昨夜、宇衣の自室で、胸部を刺し貫かれて死んでいるのを発見された。私もこの目で確認した」
姉上が? 殺された? 嘘だろ?
「冊封式を執り行い、そなたの存在を世に知らしめなければならん。これまで表に出ることがなかったのは、病弱だからということにしようと思っている。その前に宇衣の葬儀も執り行わねばならぬし、真相を解明せねばならぬ……。よってまだ詳しいことは定まっておらぬが……」
女王の声は、意識の片隅を少しくすぐっただけですぐに通り抜けていく。何も頭に入ってこない。
姉上。姉上。なんということだ……。
「聞いておるのか、弦深」
鋭い口調で咎められ、私は反射的に顔を上げた。女王は細長い目を吊り上げ、私を睨みつけている。
私を王太子にするのが、嫌でたまらないのだろう。あんなに寵愛していた娘を失っても、その悲しみより私への嫌悪感が勝るのだ。
本当に、なんと非情な人なのだろう。
「これからは、お前は時期王として生きるのだ。これまでとは全く違う生活を送ることになる。しかし、すぐに順応してもらわなければ困る。王家の威信がかかっているのだ」
それでも、私はこの非情な人に従うしかない。
「誠心誠意、善処いたします」
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