第1章 邂逅
第1話 暁の旅立ち
これほど奇妙な風景を、私はこれまで目にしたことがなかった。
歪な形をした大小の山の連なり。いく筋にも分かれる細い川。そこに架かる古い木の橋。少しでも風が吹こうものなら飛んでいってしまいそうな小さく頼りない民家。
そして、それらを全て覆い尽くすような白い霧。
これが、仙族の暮らす村、そして私の暮らすことになる場所。
「ねえお母様。本当にこれが地界なのですか? 本当の本当に?」
私は耐えきれなくなって輿の引き戸を開け、前を行く輿に向かって大声を張り上げた。するとその輿の引き戸が小さく開き、そこからにょいと出てきた細い手がそばにいた小柄な侍女を手招きする。幼い頃から私の側に支えてくれている、親友同然の
「姫様。皇后様が、はしたないから大声を出すものではありません、おとなしくしていなさい、と仰せです」
私は狭い輿の中いっぱいに足を投げ出し、ため息をついた。
「もう、息苦しいったらありゃしないわ」
「
朱絃都。私が生まれ育った、日の光の都。
たった一つの私の居場所であるはずだったのに。
まさかこれほど深い霧に包まれた、こんなにも寒々しい場所に嫁ぐことになろうとは。
***
輿入れの日が決まったと、父である日界の皇帝から知らされたのは、今からわずか十日前の出来事だった。
「瑛蘭。突然ですまないが、十日後、地界に向けて発ってもらうことになった」
地界の民族、仙族首長の長男である
停戦にあたり、日界と月界の人々は戦いに必要な「仙力」を仙族の長によって封じられた。一人残らず。変わらず仙力を持っているのは仙族の人々だけ。
そうなると、再び戦争が勃発した時有利になるのは、地界を味方につけている側なのだ。
もちろん私もその話は、物心ついた時からずっと言い聞かされてきた。そして特に異存もなかった。17年間ずっと宮殿で育ってきた私は恋愛などする機会もなく、恋が、結婚が、どういうものなのかよくわかっていないので、そこにこれといったこだわりがないのだ。
ただなんとなく、実際の結婚はずっと先のことだと思っていたので、私はいささか急な父の宣告に流石に動揺を見せた。
「十日後……ですか。でも、色々と準備が……」
「それは心配しなくていい。全てもう手配してあるから、大丈夫だ」
父の声は、なんだか冷たく響いた。
それ以上何も話そうとしてくれない父の元を離れて、私はすぐ母の部屋を訪れた。
「お母様」
皇后の居室に入ると、いつも緊張してしまうくらい整然として美しい室内が、たくさんの衣装や靴、嫁入り道具などでごった返し、母の指示を受け何人もの侍女が忙しなく動き回っていた。
「お母様、まさかお母様自ら準備をしてくださっているとは。あとは私がやりますから」
「何を言うの。娘の嫁入りの準備なのだから、母が取り仕切るのは当然のことです」
母はいつまで経っても歳を取らないみずみずしい目を細めて穏やかに笑い、また作業を再開した。
「ねえ、お母様。地界はどんなところなのですか?」
母は仙族のある有力な戦士の娘であった。地界は母の生まれ育った地だ。
母はすぐには答えなかった。少しの沈黙の後、静かにこう言った。
「人々の暮らしは、朱絃都と比べたらとても質素で、初めは少し寂しいと感じるかもしれないけれど、いいところよ。みんないい人ばかりで、お互い助け合って生きている」
「私、うまくやっていけるでしょうか?」
「絶対に大丈夫」
母は再び手を止め、私に近づいてきた。そして私の手をとって、両手で優しく包み込んだ。そして私の白茶色の髪をいとしそうに撫でた。子どもの頃よくしてくれたように。
「お父様も私も、あなたが苦しむような場所へあなたを送ったりしないわ。万が一何かあったとしても、私が必ずあなたを守るわ。もし辛くなったら……いつでも帰ってきなさい。ここはいつまでも、あなたの家なんだから」
母の声は涙に震えていた。母に抱きしめられると、私の目からも涙が溢れた。
そして今朝、朝日が登る頃、私は父と兄である皇太子、
「
私が輿に乗り込む時、父がそう呟くのが聞こえた。そしてその言葉に続いて、皆が私に恭しく頭を垂れる姿が見えた。
***
朱月姫。
三人揃って天界に行き、祈祷することで世に平安をもたらすという、三美神のうちの一人。
それがどうやら私らしい。
特に実感はなかった。何か特殊な能力があるわけでもないし、役割を課されるわけでもない。ただ、生まれた時からそう決まっているようだ。首の後ろに浮かび上がる、朱、の文字がその証だと言う。
私が特別な存在であるからと、人々は私に対し他の皇族以上に敬意を払い、愛を注いでくれた。その恩恵を受け、随分と快適に生きてこられたが、しかし得体の知れない「朱月姫」という称号の重さはなんだか不気味だった。
世に何ももたらしていないのに、崇拝される存在。
そんな存在があっていいのだろうか?
ぼんやりと物思いに耽っていると、突然輿が大きく不自然に揺れ、窓の外が騒々しくなった。
「何? どうしたの?」
窓を開けようとすると、母と清琳の悲鳴が聞こえた。そして従者たちの呻き声も。
「何があったの? 早く、早く降ろして!」
私が輿の壁を叩いて声を張り上げると、外から私の輿を担ぐ従者の張り詰めた声がした。
「姫様、危険です。どうかもう少々お待ちを」
「何が、何が起きたの? 清琳は……、お母様はっ?」
返事はない。
やがて数人の足音が遠くへ去っていく音がし、その音が完全に途切れたところで輿がゆっくりと降ろされ、扉が開かれた。
「姫様……」
私は夢中で外に飛び出した。
そこに広がっていたのは、信じられない光景だった。地面に転倒した母の輿、その周りに倒れた従者たちと清琳、そして同じように倒れた母。
私は震える足でそちらに歩み寄った。壮絶な光景だが、倒れているみんなは誰一人として出血してはいない。綺麗な姿のまま、眠ったように目を閉じて横たわっている。
私は恐る恐る一人の従者に歩み寄り、震える手でその首筋に触れた。そして頭を硬いもので殴られたような衝撃を受ける。
脈がない。
私は血の気が失せた顔を今度は清琳に向けた。そして手を伸ばす。彼女の首筋にも。やはり同じだった。頬を涙が伝った。
「……お母様……」
最後に母に歩み寄った。触れたくない。私はまず頬に触れてみた。うっすらと赤みのさす頬を見て少し希望が芽生えたが、その希望はすぐに打ち砕かれた。
頬が氷のように冷たい。
そしてその首筋に触れ、どうにか脈を感じ取ろうと、何度も何度も指を押しつけた。しかし、指に返ってくる反応はない。
私は慟哭した。
「おかあさまああああああああああああああああああ!」
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