第3話 初めまして旦那様

 輿は、白い霧の中を静かに進み続けた。


 進むしかなかった。とにかく誰かに力を借りなければならない。借りるとしたら、仙族族長の家族しかいない。


 ここには、私の知り合いなど一人もいないのだ。


 残りの道中、私はひたすら泣き続けた。目が開かなくなってしまうほど腫れた。これから嫁に行くだなんて信じられないし、少しもそんな気分になれなかった。


 最愛の母と親友を、一度に失ったのだ。


 どうすればいい? どうすれば。


「姫様、到着いたしました」


 従者の声がし、輿が降ろされた。そして扉が開かれ、濃い霧が輿の中に流れ込んでくる。むせ返りそうなほどの濃霧だった。


 外に出ると、煙の中に入り込んだようで周りが何も見えない。だんだんと目が慣れてくると、そこが高い山の上だということがわかった。そして長い竹の壁に周囲を取り囲まれたたくさんの木造の建物が見えてきた。


 土地は広大で、大小の建物も美しい構造をしているが、やはり朱絃都の宮殿のような華やかさはない。私たちの元へ、質素な着物を着た老女が近寄ってきた。


瑛蘭えいらん様でございますね。どうぞこちらへ」


 私は老女に連れられ、敷地の奥の方へと進んでいった。


 中央部分に、一際大きな建物があった。その前に、黒い質の良さそうな着物を着た男性二人、そしてその後ろに、二十人ほどの男女が並んでいるのが見えた。


「瑛蘭姫」


 二人の男性のうち、中年の男性の方が私を見るなり明るい笑みを浮かべた。その隣に立つ青年は、私を見ると少し表情を失ったようだったが、すぐに微かな笑みを浮かべた。中年の男性が言った。


「長旅、お疲れ様でしたね。私が仙族首長、尋太朗じんたろうです。そしてこちらが、息子の呂太朗ろたろう。あなたの婚約者です。ようこそ、桂東けいとうへ」


 呂太朗は、背が高く体格のいい青年だった。私よりふたつばかり年上のはずだが、顔はどこか少年のようにあどけない。しかし表情は暗い。笑っているのに、冷ややかだ。彼はその曖昧な笑顔を浮かべたまま軽く会釈だけした。

 私はその青年の腕に縋り付いた。


「助けて。助けてください。どうか犯人を見つけて」


 突然全身の力が抜け、私はその場にくずおれた。


「え、えっ! 大丈夫ですか? どうしました? とりあえず中へ」


 呂太朗は軽々と私を抱き上げ、建物の中へと連れていった。


「医務官を呼べ」


 首長が緊迫した声でいった。並んでいた大勢の人たちは声を掛け合い、それぞれに何かの準備をするため散り散りになって行った。


「こちらへ」


 老女が白く分厚い敷物を敷いた部屋に呂太朗を案内した。私はその白い敷物に寝かされた。


 ……床に寝かされるの? 寝台ではないのね……。


 老女に差し出された水を飲んでから、私はすぐに上体を起こし言った。


「母と母の輿に付き従っていた者たちが、何者かに……」


 そこで私は一瞬言葉に詰まった。口に出してその言葉を使うのは初めてだった。少しの勇気と覚悟が必要だった。


「殺されました」


 首長と呂太朗は少し息を震わせて同じように眉をひそめた。呂太朗が低い声で言った。


「なんと、一体なぜ、そんな……」

「わかりません。私は輿の中にいて何も見ておらず……。私の輿を担いでいた従者が言うには、母の輿が突然黒ずくめの二人に襲われ、ほんの一瞬の間に、母たちを……」


 それ以上はもう言葉にならなかった。呂太朗たちも続きを求めようとはしなかった。


 突然、部屋の外で声がした。医者が到着したようだ。医者と付き添いの医女が通されたあと、扉の向こうで侍女が言った。


「恐れながら、お館様。瑛蘭様の従者が、皆様にご覧いただきたいものがあるとこちらに参っております。お通ししてよろしゅうございますか」

「通しなさい」


 首長が言うとすぐに、私の輿を担いでくれていた従者の一人が背を丸めて入ってきた。


「私のようなものが、こんなところにお入りしてしまい、申し訳ございません。どうしても、皆様にお話ししなければならないことがありまして」

「なんだ、申してみよ」

「実は事件の起こった場所で、妙なものを目にしまして」


 従者は懐から大きな葉を取り出し、おずおずと私たちに差し出した。


「なんだ、これは」


 首長が問うと、従者は言いにくそうに言った。


「皇后陛下の輿が襲撃を受けた時、地面に現れた、何やら怪しげな模様です」


 首長と呂太朗は怪しげな模様、という言葉を聞くなり顔色を変えて葉に視線を落とした。


「どういう……こと? 模様?」


 話を理解できない私をよそに、私の婚約者と舅は葉に釘付けになっている。尋太朗が重いため息をついた。


 試しに私も、その大きな葉の表面を覗き込んでみた。葉には木の枝のようなもので引っ掻いて描いた絵のようなものがあった。大きな円が描かれ、その中に小さな円が描かれている。そしてその小さな円と大きな円の間に、細い三角形が四つ、東西南北の位置に配置されていた。


 何? これ。


「父上、これは」

「うむ。そうだな」


 二人は私そっちのけで何やら小声で話し合い始めた。そして呂太朗が葉を差し出した従者に訊いた。


「これが地面に浮かび上がったんだな? 光っていたか?」

「へえ、光っていたような気がします。すぐに消えてしまいそうだったから、姫様を降ろして手が空いた隙に急いで描いたんですが、ぼんやりとしか見えなかったから、それで正しいかどうか」

「黒ずくめの男というのは、完全に顔を隠してたのか? 肌の色とか髪の色とか、何か見えたものはない?」

「そうですねえ……本当に全身隠していたもんで肌や髪はよく見えませんでしたが、二人とも細かったですね。こう、ひょろっとしているというか」


 尋太朗と呂太朗の表情が険しくなった。


「あ、あの……全く状況が理解できないんですが、この模様、なんですの? お二人は何かお気づきになったんですか?」


 私が耐えきれなくなって強い口調で訊くと、呂太朗は真っ直ぐ私を見て


「まだ、詳しいことは何も。ですが、念入りに調査をする必要がありそうです。姫、事件が起きたのはここから遠い場所でしょうか?」


 と訊いた。


「いいえ、そんなに遠くないところですわ。おそらく、この山を降りてすぐのところだと思います」

「事件の時の状況のままになっていますか?」

「さすがに、遺体と輿は道の傍の林に隠しています。騒ぎになるといけませんから」

「そうですか。飛助ひすけ


 呂太朗は側に控えていた呂太朗よりさらに体格の良い大きな青年に声をかけた。


「はい、若」

「すぐに調査団を組み、調査に赴いてくれ」

「承知つかまつりました」


 飛助と呼ばれた青年は呂太朗の言葉にほんの一瞬不快そうに眉を動かしたが、すぐに立ち上がり、部屋を出ていった。


 医師が私の状態を診て、後ほど薬を運ばせると言い退室した後、首長が優しい目で私を見て言った。


「調査で何かわかれば、すぐに知らせます。朱絃都の皇帝には……私から伝えておく。姫は、ひとまずゆっくり休んだほうがいい。あなたのために用意した屋敷に案内しましょう。呂太朗、お連れしなさい」


 すると呂太朗がすかさず進言した。


「父上。少し宜しいでしょうか」

「なんだ」

「私と姫様の結婚の話ですが、やはり事情が事情ですから、延期すべきかと」

「うん……もちろんそうだな。その辺りもちゃんと、陛下と相談させていただこう。とりあえず、姫様を結花殿ゆいかでんにお連れしなさい」

「……わかりました」


 呂太朗は返事をすると、再び私を抱き上げようとした。


「待って! 大丈夫、歩けます。自分で歩きますから結構ですわ」


 私は慌てて彼の腕をするりと抜け、立ち上がった。しばらく休んでいる間に、先ほどまで全く力の入らなかった足も、いくらか動かせるようになっていた。

 それに、婚約者とはいえ初対面の男に抱きかかえられるのはなんだかそわそわして落ち着かない。

 

 呂太朗は私の前に立ち、広大な敷地の中を迷いのない、しかし私を気遣ってかゆっくりした足取りで歩いた。その間、彼は何も言わなかった。嫁入り当日に母を亡くした不運な私に、なんと声を掛ければ良いかわからないのだろう。


 やがて、こぢんまりとした、しかし真新しくこの敷地の中では割と華やかな燕脂の屋根の建物の前で、呂太朗は足を止めた。


「ここが、姫様の屋敷です」


 呂太朗はそう言うと、そのまま中へ入っていった。

 建物の中には寝室と居室があり、どちらもやはり色彩に乏しい内装だった。寝室の敷物(やはりこの界域に寝台はないようだ)だけが、柔らかな若草色と薄紅色で彩られていた。


「今日は大変でしたね、本当に、なんと言っていいか」


 呂太朗が、俯き加減に言った。


「いえ、こちらに来て早々、ご迷惑をおかけして申し訳ないです。お館様にも……」

「気にしないでください。今日はとにかくゆっくり、休んで」


 呂太朗はそれだけ言うと、私と目を合わせることもなく去っていこうとした。しかし屋敷を出ていこうと彼が振り向いた先に、先ほどの老女中よりもさらに老齢に見える、顔にも腕にも深い皺がたくさん刻まれた極端に体の小さな老婆がいて、呂太朗は足を止めた。


「お、お婆さま。どうしてこんなところに来られたのですか!」


 お婆さま? これが呂太朗のお婆さまなの?


「お婆さまがいらしていたのですか、これは、ご挨拶が遅れました。私、日界より参りました、瑛蘭でございます」


 私が慌ててお辞儀をすると、呂太朗の祖母はかなりの角度をつけて首を右側に傾けた。


 ほ、ほとんど九十度曲がってますけど……。


「あんた、呂太朗の嫁に来たんかえ?」

「お婆さま。こちらは日界の姫君で、私たちはまだ婚姻していませんので、もう少し丁寧にお話しください。申し訳ない、姫。こちらは祖母のふきです。かなりの老齢で痴呆が入っているようでして」

「呂太朗が好いている娘は、あんたじゃなかろうに」


 ふきがぽつんと呟くと、呂太朗は明らかな狼狽の表情を見せた。そして不自然に裏返った声で祖母に言った。


「お婆さま。何を言っているんですか。さあ、行きましょう。姫君はお疲れですから」

「呂太朗だけじゃのうて、あんたも。あんたも、好いた相手が別におるのじゃのう」


 ふきの言葉に、今度は私の方が首をかしげる番だった。

 好いた相手も何も。これまで同年代の男との関わりなど、ほとんどなかった。周りは侍女か、男性だとしても相当年上の父の家臣たちや従者のみだったのだから。


「そんなことないですわ。私は、人を好きになった経験など、ありませんので」

「何を言うか。うんと子どもの頃に、心に決めた男と出会っておろうが」


 私は、ふきが何を言っているのかわからず、眉をひそめた。


「姫君、どうかお気にしないで。祖母は本当に、最近おかしいんです。お疲れのところ、すみませんでした」


 呂太朗は私に、まるで父か母にでも話しかけるかのようにうやうやしくそう言って、祖母の小さな手を取った。


「今日はゆっくり、とにかく休んでください。母君のことは……必ず私たちが真相を解明します。だからあなたはどうか、自分の身体と心のことだけ、考えて……」

 苦しそうな声でそう言うと、呂太朗は頭を下げて、祖母を連れて去って行った。


 きっと、本当にいるんだろうな。呂太朗には。

 心から愛する人が。


 私は思った。

 

 

 


 

 




 




 


 


 

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