ジョニーの星

髙橋螢参郎

ジョニーの星

 この街には何もなかった。

 高校を出て以来しがない郵便局員として十数年、何千日と走り回ってきた俺以上にこの街が空っぽな事を知っている人間は、もういないだろう。つるんでいたバカ共も少しずつ知恵をつけていって、全員この街を出て行った。とうとう本物のバカは俺一人になった。

 生きてく上で必要なものくらいは最低限揃ってはいた。

 バカしか行かない地元の高校。

 誰でも名前を聞いた事のある大型チェーンのスーパー。

 初乗り料金を二重に取りやがるローカル線のクソムカつく駅。

 だが、それだけだ。最寄りのゲーセンは隣の駅。女を連れて行きたくなるような洒落た飯屋も、ギターの練習ができるスタジオもなかった。これじゃスラムの方がまだマシだと、バカだった俺たちはよく冗談めかして笑っていた。

 こうして今、折角の休みにオンボロ軽自動車で走っていても、本当に何もない事を再確認するだけだった。FMラジオもトーキョー、トーキョーと連呼するばかりで、大切な事を何ひとつとして伝えてはくれなかった。

 俺はたまらず1枚のCDをオーディオに突っ込んだ。

 爆音で流れ始めたチバユウスケの歌声が締め切った車の中に充満し、それで俺の心はあの頃のように満たされた。

 昔から、ミッシェル・ガン・エレファントの4人はどんな聖人より俺たちの心を救ってくれた。それは今も変わらなかった。

 そう、いつだってロックだけが俺たちの心の拠り所だ。それだけは何があっても変わらない。アベフトシの高速ギターを聴く度に、心へニトロをぶち込まれたような気になる。

 せめて今日くらいはそう思ったっていいだろうと、俺はミラー越しに後部座席へ置かれた白い花を見た。

 そしてタバコを切らしていた事に気付き、最寄りのコンビニに入った。


 コンビニってやつは本当に気味が悪いなと、入る度に思う。

 どこの店に行こうが大体同じものが同じように当たり前の顔をして揃っているのが、冷静に考えると奇妙で仕方がなかった。

 まあ、この話は何もコンビニに限った話じゃない。ハンバーガー屋だとか、ファミレスだとか。そんな画一化されたものたちが少しずつ世界を塗りつぶし、平らにしていく様を俺はこの街を通して見てきた。ここも昔は個人経営の萩野商店という名前だった。そんな事を強く覚えているのも、散々万引きを繰り返した俺くらいのものだろう。

 田舎特有の無駄に広い駐車場の角の喫煙スペースでコーヒー缶を片手にタバコを喫いながら、俺はそんな事を考えていた。裏手には広大な畑が広がっている。

 何もねぇ、何もねぇ、何もねぇ……

 そんな昔よく聴いていた曲のサビが、脳内で繰り返され始めた頃だった。

 何もない筈のこの街でも、事件はあるらしい。遠くて詳しくは判らないが、コンビニの入り口近くに停まったパトカーの前で警官が誰かともめているようだった。

 散々補導されてきた身としてはあまり関わりたくはなかったが、缶を捨てるゴミ箱は生憎店内だ。極力目を合わすまいと横をそろそろと抜けようとしたものの、好奇心が俺の足を引っ張った。

 警官に問い詰められていたのは女のガキだった。

 高校生だろうか。一丁前にライダースジャケットを羽織って、ファッションだけはキメている。ちんちくりんな背丈には全っ然似合ってなかったが、好きなのだけはきちんと伝わってきた。

 どう見ても、この街の人間ではなさそうだった。にじみ出るお上品さというか、どこか洗練された感じを服装で消し切れていなかった。この街に三十年以上どっぷりと浸かってきちまった俺のドブ臭い嗅覚が、そう告げていた。

「だからぁ、何も言わなきゃこっちもわかんないだろ? お名前は? 住所は?」

 次に俺が見たのは、粘着質に詰め寄っている警官の顔だった。

 飽きるほどよく見たツラだ。

 向こうも一目見た瞬間すぐにそう思ったのか、こちらに向き直った。

「あれ、谷口先輩じゃないですか」

「おう」

 さっきのは訂正する。まだ俺一人じゃなかった。今もなおこの街に巣食う数少ない本物のバカこと、高校の一年後輩の小林だった。カンニング常習犯のこいつが警官になったと本人の口から聞かされた時、日本という国のいい加減さを呪ったものだ。

「今日はお休みですか」

 まあな、と新しいタバコに火を点けて小林にも一本勧めたが、「いや、流石に」と断った。

「本官、勤務中ですので」

 よほど中で鍛え直されたのか、サル以下のこいつにも人並みの良識というやつがようやく備わったようだった。金が無さ過ぎてシケモクを拾うかどうか、マジで悩んでいたあの頃が懐かしい。

「熱心な事で」

 煙とともに半分皮肉交じりにそう言ってやったが、どうしても根はバカなので小林は「いやあ」と照れてみせるだけだった。それから街の平和がどうとか言い始めたが、俺は一切聞いていなかった。

 ガキは警官の仲間だと思ったのか、嫌悪感丸出しで睨み付けてきやがったが、俺はお構いなしにじろじろと観察してやった。

「ふーん……」

 一通り見た後最後にガキの貧相な胸元を見て、俺は小林の肩に手を回した。

「小林」

「はい?」

「悪いな。見逃してやってくれ」

「えっ」

 流石のバカでも日本語の意味は通じていたらしい。

「いや困りますよ。二人一組で来てるんですから。相棒になんて説明すれば」

「俺の遠い親戚だったような気がしてきた。そう、迎えに来たんだ。ここまで」

「いやいやいや。いくら先輩でも……」

 ジョニー、とだけ、俺は耳元でささやいた。

 あっ、と小林はやっと思い出して、声を上げた。

「そういや、今日でしたっけ……」

「ああ。まだいるもんだ」

「どうしてわかったんです?」

「Tシャツ」

 小林もガキの着ているシャツを確認すると、ああ、と感嘆の声を上げた。

「じゃあ、仕方ないっすね。上手く言っときますんで、あと頼みます」

 返事の代わりに俺は小林の肩を軽く叩いておいた。

 同じバカだと話が早くて助かる事もある。


「おい」

 絶体絶命のピンチを助けてやったというのに、相変わらず口をへの字に曲げているお姫様に俺は軽くチョップをくれてやった。

「いった! 何すんだよ!」

「いやまず何か言う事あんだろ。人として」

「あっ……ああ……ありがとう、ございます……?」

 小さな声と語尾がちょっと気にかかったが、とりあえず良しとした。

「お前、ジョニーのファンか?」

 そう訊いてやると、ガキはあからさまに警戒の色を緩めてうん、と頷いた。

 何も驚く事はなかった。着ていたライブTシャツ以前に、よその若者がこんな街へわざわざ足を運ぶ理由なんてそれくらいしかなかったからだ。

 ジョニー・ザ・スターダスト。ゴミみたいなこの街が唯一産んだスターだった。いかにも外国人風な名前だが、本名は髙橋星也で、れっきとした日本人だ。あのWikipediaにも書いてある。

 そして今日は、その命日。

 忠告も込めて、俺は言ってやった。

「わざわざこんなところまで来ても何もねぇぞ。何てったってジョニーが産まれたのはここじゃなくて、ジョニー星なんだからな」

 ジョニーの産まれた、ジョニー星。

 ジョニーがバンドを解散し、お茶の間のテレビ番組の雛壇で喋り始めた頃からの持ちネタだった。

 金星の近くにあるという、まだ地球からは未発見の星。ジョニーはそこから来たのだと事あるごとに冗談めかして語っていた。

「やっぱり有名なんだ、ジョニーって……」

「そりゃああれだけテレビに出てたらな。特にこの街で知らねぇ奴はいねぇさ」

 それだけに衝撃的な訃報が出た当初の反響は大きかった。

 ジョニーは東京の高級ホテルで泥酔し、喉に吐瀉物を詰まらせながら独りきりで死んだ。亡くなった直後こそ墓を訪れる熱狂的なファンがちらほらいたものの、あれから五年経った近頃はめっきり見なくなったが。

「墓参りか?」

 ガキは黙って頷いた。

「そうか。街の外れにあるから、市役所経由で巡回バスに乗ってくといい。さっきはツレだったから何とかなったが、サツには注意しろよ」

 じゃあな、と手を振りその場を後にしようとした俺の袖を、ガキが引っ掴んだ。

「……何だよ」

「あの、お墓もそうだけど……それよりあたし、ビリーって人を探してるの。知らない?」

「知らねぇな。外国人の知り合いはいねぇよ」

「や、日本人、のはず。ジョニーが最初に組んだバンド『飢餓集団』のドラム担当なの。この街に来たらもしかしたら会えるかと思って……」

「ふーん……」

 とりあえず手を振りほどいて、俺はガキの方に向き直った。

「それ、何年前の話だよ。こんな街にまだいるとは思えねぇが」

「手がかりが他になくて……でも、どうしても会いたいの。ねぇ、必ずお礼はするから、一緒にビリーを探して」

 俺は思わずばっちりセットしてあった髪をかき乱してしまった。

「どうかしてるぜ。第一、会ってどうすんだ」

「どうしても訊きたい事があるの。お願い」

「おい、ちょっと優しくしてやったからってあんま調子乗んなよ」

 久しぶりに本気でメンチを切ってやったが、俺を見上げるガキは一歩も引かなかった。むしろこっちの方が気圧されるほど、その視線は真っ直ぐだった。

 悪くない眼だ。あの頃俺たちがしていた眼と同じだ。

 バカで、ダサくって。みっともなくって。でも真剣そのものだった、そんな眼だ。

 埒が明かなくなって、俺は不覚にも自分から目を逸らしてしまった。

「……会えるかは知らんが、実は俺も今からジョニーの墓参りに行くところだ。乗っていくか?」

「えっ、おじさん、いいの?」

「例え思ってても、おじさんはやめろ。実際そうかも知れねぇけど、そこは気を遣うのがマナーってもんだ。俺は谷口。谷口さん、な。お前の名前は?」

 そう訊くと、ガキは急にもごもごと口ごもり始めた。よくわからん奴だ。

「あ? 聞こえねぇぞ?」

「る、ルーシー……」

「アホか」

「いった! またぶった!」

 すかさず俺は二発目のチョップをくれてやった。

「馬鹿野郎、鼻の低いお前のどこがルーシーってツラだよ? どうせミッシェルのゲット・アップ・ルーシーからだろうが」

「うっ……」

 どうやら図星だったらしく、クソガキはそれっきり黙り込んでしまった。

「これだからネット世代は……こういう時は本名だろうが、普通」

「本名は、ちょっと……」

「ちょっと何だよ。乗せてやんねぇぞ」

「……た……」

「小さくて聞こえねぇ」

「……た、たみこ……多く見る子、って書いて、多見子……」

 へぇ、と俺は多見子の肩を叩いた。

「いい名前じゃねぇか、多見子。おお。じゃあ乗れよな、多見子!」

「うっさい! ルーシーでいいでしょ、もう!」

 ガキ改めルーシーに後ろから蹴られながら、俺はオンボロ軽自動車へと逃げ込んだ。


 ジョニーの墓のある集合墓地は、市内でもかなり外れの方、どの駅からも遠く離れた辺鄙な山の中にあった。

 さっき言った通り巡回バスで行く事も一応できたが、本数が少な過ぎて現代っ子にはとてもじゃないが耐えられなかっただろう。田園ばかりの外の景色を眺めても本当に仕方がないので、道中俺たちは他愛もないお喋りをした。

 聞けばたみ、改めルーシーは東京産まれの東京育ちだと言う。

「何でもあるんだろうな」

 率直な感想だった。本当だったらこんな街にわざわざ足を運ぶ事もなかったのだろう。

 対する俺は中学の修学旅行で一度だけ東京へ行ったが、何だか物凄いところだった事だけは記憶している。

 アルタ前。109。ハチ公。

 ずっと画面の中だけだと思っていた場所が現実に存在しているのだと、その時に初めて知った。東京の人間はテレビで紹介された最先端の流行の店へと実際に行けるのだ。原宿の甘ったるいクレープを食いながら、そんな事を思った。

 流石に入れはしなかったが、下北沢の有名なライブハウスの前も通った。

 ここで今この瞬間に、最先端のロックが産まれているんだと音楽の好きな同級生は熱っぽく語っていたが、当時の俺はいまいちピンと来ていなかった。

 バカだったよな、とそんな話をしてやると、ルーシーは首を横に振った。

「言うほどいいところでもないよ」

 それも俺には謙遜を通り越して嫌味にしか聞こえてこなかったから、重症だ。

「最近は治安も良くないしね」

「噂のトー横、ってやつな。行くのか?」

「ううん。全然。新宿は危ないからって、お母さんが……」

 ふーん、と適当に相槌を打ちながらも、実はトー横が新宿にある事も知らなかった。

「つか、親はいいのかよ。大体今日、平日だろ? 学校なんかいくらサボってもいいけどよ、あんまり心配だけはかけんな」

「ね。そんな事よりミッシェルもいいけど、折角ならジョニーの曲聴こうよ。ブルートゥース繋いでいい?」

「は? ねぇよ、そんなもん」

「えっ、じゃあこれどうやって聴いてんの?」

「CDだよCD。……まさかとは思うが、知らんとか言わんよな?」

「あーもうしょうがないな。一応持って来といて正解だったわけか」

 ルーシーは大事そうにCDケースを取り出した。俺は目を疑った。飢餓集団のインディーズアルバムだ。しかもディスクにはジョニーのサインまで入っている。

「よくそんなもん持ってるな」

「あっ、わかるんだ。凄いでしょ」

「そもそも東京のバンドならともかく、どこで知ったんだ」

「全曲YouTubeに上がってるよ。谷口さんは見ないの?」

「通信制限が怖くて見てねぇ。パソコン持ってねぇし」

 そう言っている間にルーシーは慣れた手つきでCDを交換した。すぐにイントロが流れ出し、あの忘れもしない特徴的な声ががなるように歌い始めた。

 曲は以降のバンドでも歌い継がれたジョニーの代表曲、『ガソリンの給油口』だ。

 おいおい大丈夫かよと俺は内心ひやひやした。昨今権利関係がとにかくうるさいのもあって詳細には書けないが、簡単に説明するとタイトルのガソリンの給油口、とはずばり女性器のメタファーであり、様々なガソリンスタンドに寄る度とっかえひっかえ、というような歌詞だった。とてもじゃないが現役女子高生に聴かせられる歌詞じゃなかった。

 だがそんなオジサンの心配をよそに、ルーシーは今にもヘドバンをかましそうな縦ノリでぐわんぐわん揺れていた。

「もう本っ当最高。あたしと同じ高校生がこんな名曲作ったなんて信じられない」

 それについては全く同感だ。

 しかし事実だった。飢餓集団はジョニーが高校の適当な身の回りの友人に声をかけて作った初めてのバンドだ。

 各メンバーの演奏技術は今聴いてもお世辞にも足りていたとは言えなかったが、全部フロントマンのジョニーが無理矢理に引っ張っていった。圧倒的な世界観の歌詞と、ソングライティング力。結成後、すぐに地元では名の知れた存在になった。

 井の中の蛙、という言葉を現国の授業中寝ていた俺たちは当時知らなかったが、今実際に遠く離れたところからこいつがこうして来たという事は、少なくともジョニーの才能だけは当時から本物だったという事だろう。それは素直に嬉しかった。

「やっぱすげぇよな、ジョニー」

 思わず口をついて出た言葉に、ルーシーも嬉しそうに頷いた。

「改めて聴くと、演奏はまだまだって感じだけどな」

「そうかな? 粗削りなのはそうだけど、あたしは好き。特にビリーのドラム」

「リズムキープも怪しいし、力任せにぶっ叩いてるだけだろ」

「そこがいいんだって。独りだけジョニーに立ち向かってる感じがして」

「立ち向かって、ねぇ」

「うん。他のメンバーは何だか遠慮して当たり障りのないプレイしかできてないのに、ビリーだけはいつも全力でぶつかってきてる」

 きっといいコンビだったんだろうね、とルーシーは言った。


 人間死んじまったらどうしようもねぇよな、という話を一度、高校時代に俺たちはした。

 きっかけはちょうどフジファブリックの志村正彦が亡くなった時だった気がする。同じ年のアベフトシの時ももちろんショックだったが、ロックを聴くようになってから初めて直面したリアルタイムでのスターの死は、志村正彦のものだった。

 特に大ファンだったジョニーの受けた衝撃と言えば相当なものだった。授業中にもかかわらず号泣したり、空き教室で勝手に葬儀を執り行おうとしたりと、その荒れ方はいつもにも増して酷かった。後を追って窓から飛び降りようとしたのを俺たちは必死で止めた。

 何とかジョニーを宥め、散々人の死について話し合った結果バカなりに導き出した結論が死んだらどうしようもない、だった。0がいくら掛け合わさったところで0なので文殊の知恵など出て来るはずもなかったが、あの時はジョニーもそれで納得してくれたはずだ。

 今、等間隔に味気なく並んだ墓石の数々を目の当たりにして、確かにどうしようもねぇなと改めて思い直した。この中にはうちの爺さんと婆さんの墓もあるんだが、一見しただけじゃどこに誰が埋まってんのかも判りゃしなかった。それはロックスター、ジョニー・ザ・スターダストも例外じゃなく、ここでたくさんの墓に紛れひっそりと建っていた。

 盆でも彼岸でもない今日、墓参りに来ているのは周りを見渡しても俺たちだけだった。少し荒れ始めていた墓の草をむしって柄杓で水をかけてやると、多少は見られるようになった。

 最後に買って来た花を手向け、俺たちは手を合わせた。

「ちょっとは気が済んだか?」

 ルーシーは首を横に振った。

「……ごめん。ここまで連れて来てもらっといて」

「いや、構わねぇよ。むしろここまで来たなら、正直な感想を言ってみろ」

 ありがと、とルーシーは言った。

「……あたし、家が厳しくてさ。結局ジョニーのライブ、行けなかったのね。さっきのサインも人づてに何とか貰ったの。だからこの目で一度もジョニーを見た事なくて。本当にいる人なのか、最後まで確認できなかったっていうか……それがたまらなく悔しくって」

 俺はタバコに火を点けた。

「気が付いたらこんなところまで来ちまった、か」

「うん。グッズや洋服を処分して、お金作って……」

「随分と思い切ったんだな。良かったのかよ、マジで」

 それがね、とルーシーは前置いてから続けた。

「貴重なものもあったんだけど、本当にジョニーの産まれたところへ行くって決めたら、どうでもよくなっちゃって。だって『全部、残像。』でしょ?」

 全部、残像。

 ジョニーの出したソロアルバムのタイトルだった。

「こうして実際に来てみたけれど、ジョニーの言った通り、結局は残像って事なのかもね。今も、どうしても実感が湧かない。本当、ごめん」

「もしかして、それでジョニーじゃなくて、ビリーに?」

「ううん。お墓参りに来たかったのは本当。それとは別に、ビリー本人にどうしても直接訊いてみたい事があって。何とか会えればいいんだけど……」

「……」

 タバコが最後まで燃え尽きるのを俺は待って、大きく煙を吐いた。

「おい、多見子」

「……なに。急に本名呼ばないでくださる? 谷口さん」

「今日、この街で一夜を明かす覚悟はあるか」

 俺は率直に訊いた。

「あっ……もしかしてさっきのおおお、お礼の話?」

 ルーシーの頬がみるみるうちに真っ赤に染まって行くのを見て、俺は初めて事態を飲み込んだ。

 バーカ、と俺は本日三回目のチョップを見舞った。

「えっ今のあたしが悪いわけ!? あまりに理不尽じゃない!?」

「馬鹿野郎、言葉通りの意味だよ。一度きりなんだ。大事にとっとけ」

「なっ……! バッカじゃないの!? 露骨にセクハラだし!」

「それよりどうなんだ、このまま一晩家出する根性があんのか? 無いならこのまま駅まで送ってくぜ」

「……ある! あります! こうなったらとことんまで行ってやる!」

 その返事を聞いて、俺はルーシーの肩をばん、と強くはたいた。

「じゃあ早速親に電話して来い! 明日になったらちゃんと帰ります、ってな!」

 

 夜、俺たちはその辺のコンビニで適当に食事を済ますと、件のバカしか行かない地元の高校へと車を乗り入れた。もはや言わずもがな、俺の母校だ。

 本当にいいの? と助手席のルーシーは不安そうに見つめてきたが、流石に俺もバカだが大人だ。その辺りの手続きは一応取ってある。

 まだ明かりの灯る職員室へと近付くと、俺はそこに立つ人影に一礼した。

「毎年すみません、先生」

 高校の唯一と言える恩師、石田先生だった。

 最初こそ傍らに立つルーシーの姿にぎょっとしていたが、ジョニーの熱狂的ファンである事を告げると納得してくれた。先生もまたジョニーの、飢餓集団からのファンだった。

「こう見えて先生は古参のミッシェルファンだ。ペットボトル事件も生で見てる」

「あの頃は若気の至りで血気盛んでしたからね。投げ入れた奴絶対見つけ出してやろうと、ライブ終わった後友人たちと血眼でZeppの周りを歩き回ってましたよ」

「そういや太腿に入れたタトゥー、まだ学校にバレてないっスか?」

「ははは。もう誰にも見られる事もないでしょうしね。このまま墓まで持っていきますよ」

 先生と俺はいつもの武勇伝で笑っていたが、ルーシーはちょっと引いていた。

 一通り談笑した後、先生はルーシーを見た。

「そうですか。音楽に引き寄せられて、はるばるこんな所まで。髙橋君もきっと喜んでますよ。谷口、いやビリー君も嬉しかったでしょう」

「えっ」

 その一言をルーシーは聞き逃さなかったらしい。

 俺は黙っていた。

「じゃあ、これ。くれぐれも気を付けてくださいね」

 先生がそう言って手渡してくれたのは、屋上の鍵だった。

「はい。いつも通り生徒が登校する前には出てくんで、よろしくお願いします」

 行くぞ、と俺はルーシーを伴って夜の校舎を奥へと進んだ。

 

 今夜は幸運にも雲ひとつなく澄み渡っていた。

 俺たちは寒空の下用意してきたシュラフに包まりながら、さっきからお互い黙ったまま星々を見上げていた。

「……おい、ビリー」

 隣でルーシーの声が聞こえた。

「何だよ」

「どうして最初から言ってくれなかったの。私をからかってたの?」

「……悪いな。別に意地悪をしたつもりはねぇんだ。ただ、色々あんだよ」

「色々って……」

 俺は寝返りを打って全てに背を向けた。ルーシーが怒っているのは声でわかった。

「何聞いても笑わねぇって、約束できるか?」

「……わかった。笑わない」

「俺が本当に飢餓集団のビリーだったのか、もう自信がねぇんだよ」

 ルーシーにはやはりピンと来ていないようだった。

「……? ビリーはビリーでしょ。まさか今更ニセモノなんて言わないよね?」

「だが、証明はできねぇだろ。ジョニーの言う通り、全部、残像だからだ。お前が存在もしてない20年近く前の話なんか、今じゃほとんど夢みてぇなモンさ」

「そういうものなの?」

「そういうもんだ。もうちょっと生きてみりゃそのうちわかるさ。だから年に一度、こうしてここに自分を探しに来てるのかも知れねぇ。あの頃と同じように、午前二時に天体観測なんかしてな」

「バンプじゃん」

 わかるんだな、と俺は笑った。

「俺は同じバンプでも、プラネタリウムの方が好きだったが。まあそれはいい。ジョニーの奴がその時に言い出したんだよな。俺たちが今見ているあの星の光ってのは、全部過去の残像なんだと。そんなもんをありがたがってるくらいなら、自分で輝けばいいのに、って」

「そんな頃から……」

「流石だよな。そうとしか言いようがない」

 そう、あいつは昔からどうしようもないくらいの綺羅星だった。

 修学旅行のあの時も、皆が高層ビルを見上げて立ち尽くすしかなかった中で、ジョニーだけがいずれ来る東京進出の話をずっとしていた。

 そして高校卒業を間近に控えた頃、ジョニーは俺に一緒に来ないかと手を差し出した。

 今にして思えば、まさにお釈迦様の垂らした蜘蛛の糸だ。

 だが底抜けのバカだった俺はその糸すら掴まなかった。クソみたいな街からこいつは羽ばたいていくだろう。そう期待させてくれるような何かが、ジョニーには間違いなくあった。そう思ったからこそ、皆惜しみなくカンパした。その中には石田先生もいた。

 しかし俺は明らかにそうじゃなかった。日本中から綺羅星の集まるトーキョーで埋もれずにやっていける器じゃないのは、自分が一番解っていた。実家だって太くない。高校を出たら当たり前のように地元で就職するものだと完全に信じ切っていた。どれだけつまらなくても、俺にとっての世界はこの街が限界だった訳だ。

 あの時付いていったら今頃どうなっていたのかと、何度も酒を飲みながら考えた事もあった。

 酒だってあの頃はいらなかった。

 セックスもドラッグもいらない。

 本当にただ、ロックンロールさえあれば十分だったのに。

 なあ、と俺はまた空を見上げながらルーシーに訊いた。

「ジョニー星って、この中のどれだと思う」

 金星の近くって話だが、学の無い俺にはその金星の場所さえわからなかった。

 だが調べようとも思わなかった。知りたくもなかった。

「多見子」

「……何よ」

「お前があの頃の俺たちに何を見たのかわかんねぇけどよ。多分、それは残像に過ぎねぇんだ。東京に帰って、お前はお前の今を真剣に生きな。それだけが本物だ」

 そうだ。俺みたいに過去に片足を突っ込んだままずぶずぶと沈んでいくような真似だけはするな。お前にはお前の、本物の青春があるはずなんだ。

 とても素面じゃ言えないような青臭い台詞を、俺は口の中で嚙み殺した。

「……ねぇ。ビリー」

「何だよ」

「ずっと訊きたかった事、訊いてもいい?」

「今の俺に答えられる内容ならな」

 そんな難しい話じゃないんだけど、とルーシーは前置いた。

「東京のジョニーと、連絡は取らなかったの?」

 取れなかった、と言うべきところを、取らなかった、と俺は言い直した。

「LINEはその頃なかったと思うけど、メールとかも?」

「ああ。俺からは、何も」

「ジョニーからは?」

「行ってすぐの頃は割とあったが」

「最近は?」

「あるわけねぇよ。俺と違って向こうは忙しいだろ」

「……友達なんでしょ?」

 しつこく食らいついてくるルーシーに、少し苛立ちを覚えた。

「馬鹿野郎、友達だよ。でもよ、俺たち男の友情ってのは、お前ら女同士のきゃぴきゃぴした気軽なものと訳が違うんだ。決して馴れ合いじゃねぇ。まして決意を胸に故郷を出たなら、尚更……」

「ビリーのバカ!」

「は!?」

「ビリーもジョニーもバカだ!」

 そう言ってルーシーはスマホの画面をぐい、と力強くこちらに押し付けてきた。

「……この動画、観てよ。ジョニーの最後のメン限配信」

「メン……何だ?」

「お金を払ったファン限定って事。とにかく観て」

 促されるがままに俺はルーシーからスマホを受け取った。そこに映っていたのは前後不覚になるまで酔っ払ったジョニーの姿だった。

 そこに俺が勝手に思い描いていた輝かしいスターの面影はなかった。雑誌の取材を受けてスーパーカーを何台も乗り回していると語っていたのが嘘みたいだった。

「やめろ、こんなもん見たくねぇよ」

 俺は思わず口に出していた。

「いいから観て」

 スマホを押し返すルーシーの力は信じられないほど強かった。

 言われるがままに動画の続きを見たが、バーボンの瓶を片手にろれつの周っていないままくだを巻く様子は、とてもじゃないが見ていられなかった。

 そんな中でも、時折はっきりと聞こえてくる単語があった。

 ビリーと、確かにその名前を呼んでいた。

「ジョニー……」

「……カッコつけ過ぎなんだよ。二人とも。友達だったらもっと素直に助けを求めたり、何でもない事で連絡したりしていいんだよ。何の為にSNSがあると思ってるのさ」

 ルーシーは涙声になりながら続けた。

「全部残像なんて悲しい事、少なくともあんたたちの間でだけは言わないでよ。あたしの中では、ジョニーとビリーは永遠のヒーローなんだから。チバとアベのように。ヒロトとマーシーのように」

 もしかしたらジョニーは、俺とそういう風になりたくてあの時声をかけてくれたんだろうか。それもただのうぬぼれなのか、それはもう確かめようもない。

 もっとたくさん話をしておけば良かった。

 こいつみたいに勇気を出して、会いに行けば良かった。

 直に夜明けが来るその瞬間、俺はひと際光る明るい星をやっと見つける事ができた。

 

 翌朝、俺はルーシーを新幹線の通る大きな駅まで送っていった。

「ごめんね。結局言いたい事だけ言って、ここまでさせて」

「構わねぇよ。ダチなら、見送んのは当然だろ」

「……ありがと」

 はにかむルーシーと俺は拳をこつんと軽く突き合わせた。

「また帰ったら連絡するね。ちょっと気が重いけど」

「おう。しっかり叱られて来いや。愚痴くらいなら聞いてやっから」

「うん。それで絶対また来る。その時はもっと飢餓集団の事教えてよ」

「おい本気かよ。見ての通りの、何もない街だったろ」

 俺は笑いながら言ったが、ルーシーは黙って首を振った。

「そんな事ないよ。だってこの街にはジョニーとビリーがいるんだから」

 そう言うとルーシーは最後に件のCDを嬉しそうに見せて、改札の向こうへと消えて行った。

 ディスクにはジョニーと俺の、二人のサインが並んでいた。

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