第10話 彼女が王国で成したこと

 薄いモスリンのワンピースは風に弱く、ピピの身体を冷やす。

 行き場所なくタメシス河沿いの歩道を下ってゆく。意味はない。強いていうと、海まで出れば島が見えるかもしれないなどと思っていた。もし見えたとしてもやっぱり意味はないが。


 来た時に着地した地点はとうに過ぎたが海に近づく感じはしない。

 思ったよりもずっと内陸までアラスタと飛んでいたのだ。

 息が上がり、陶器の欠片を踏みつけた傷が痛みはじめる。


 疲れたピピは腰かける。

 石で作られた欄干パラペットは彼女が座っても余裕のある広さがある。欄干パラペットから生えるように一定の間隔で立つ柱――街灯に身体を傾けた。見上げると、まだ日は高く、灯ってはいない。

 河の流れはゆるやかで水の音はほとんど聞こえない。

 そもそも河は巨大な水路のように石で囲まれている。ごつごつした岩に当たって砕け、泡を飛ばしながら流れを変えるような島の急流とは違っている。


 片手を街灯に沿えながら上半身をねじり、河の流れる先に眼をこらしているうち、自分の周りに人間が集まってきていることに気付く。


 男が多いか? そうとも限らない。

 女もいるし、老いた者も混じっている。


 ベルが幾重にも重なる。


 彼らは会話機トーカーを手にして隣り合うものと話している。

 内容は全く分からない。筆者交代を示す「@」が印字されてゆくのが分かるだけだ。


 ベルが鳴り響く中で、足元まで人間が寄ってきたので、ピピは驚いて欄干パラペットの上に立ち上がったら、もっと詰めてきて脚を掴まれそう。

 柱を登りたくはない。手を添えながらピピは心底そう思った。


「近づくな! 此処から離れろ!」


 叫んだら、ぴたりと群れの動きが止む。


 次の瞬間に沸き立つ。


 人間が多すぎてみんな立つ場所を動けず、忙しなく顔や視線を動かす。

 河畔に熱がこもる。集団から広がる蒸気に当てられて、ピピは街灯の手に力をこめた。

 薄まる空気エアーに気を失いそうになったからだ。


「離れてよ! 3歩ずつみんな下がって!」


 精一杯に叫ぶ声を、ベルの音が覆ってかき消した。

 

 驚きの気配を見せていた群衆の中に、今は違う何かがある。

 下がった目尻、緩んだ頬、閉じられてはいるがいびつに歪んだ唇。

 ピピを見る者たちはそれぞれが違うが似た部分がある。

 

 嘲笑


 会話機トーカーで書いている内容に察しがつく。

 見下した視線が、声を立てぬ笑いをともなっている。

 今までに受けたことのない仕打ちにピピは震えた。

 街灯と、短刀の柄に遣った手に力がこもる。

 熱くなる身体は、心音と一緒になって欄干パラペットの上で揺れている。

 こわくはない。湧き上がるものが心を隅まで満たって吹き出す先を探している。

 

 憤怒


 ピピは一人であった。生来の気高さを保って生き抜いてきたのだ。

 王国の者にとって、声を出すのはひどく滑稽なのだろう。

 理由はないが確かな恥辱をピピは感じている。眼の前の数人の頭を蹴り飛ばしたとしても、自分に浴びせられるのを変えることはできぬ。

 理不尽な扱いをされていることを整然と言明することもできる。しかし、言えばいうほど彼らは笑うだけであろう。

 

 彼らのために小精霊私たちは商品を作ってきたのか。

 今日も彼らは商品を口にするのだ、明日も明後日も、その次も。

 何で人々が笑っているのか、ピピにはやっぱりよく分からなくなってきた。


 ふっと力が抜けて、街灯を握っていた手が滑る。

 揺れていた身体が欄干パラペットの上でふらりと踊るように。

 タメシス河の水面が視界の中で近づいて離れる。

 くるりと旋廻した身体が群衆の方に向き直った。

 両手を伸ばしてもまだゆらゆらと風を受けて身体は動いた。

 

 びっしりと歩道を埋める人々を眺める。

 視界の端から端までいっぱいだ。

 もういいんじゃないのか……。

 もう島には戻れぬ。でも、王国にも居場所はないからね。


 ――もう十分に長いこと生きた。


 吹く風に身体を任せると、うまいこと群衆の姿は消えた。

 視界には島と変わらぬ青い空が広がる。


 ――いい天気だなあ。


 ピピの身体はタメシス河に向かって大きく傾く。

 どれだけ身体をくるくるしたとしても、もはや大差はない。

 投げ出した両手より先に、ピピの背中が落ち込んでゆく。


 うるさいベルの音が遠ざかって消えた。


 発話のできる最後の生き残り。

 おとぎの島の残された一人ロストチャイルド

 名前はピピ。彼女が自分で付けた名前である。

 正確にはヘルムを付けた小精霊に風が吹く度、「ぴーぴゅーぴー」と鳴ったのが由来である。風に攫われるのは彼女の定めであったかもしれない。


 真っ逆さまに落ちて、ぼしゃんと派手に水音を響かせる……はずだが。


 穏やかに流れる河の水面を荒らすことがピピの王国で成した全て……のはずだが。


 近くで見たら河の水が意外と汚れているのが分かりピピはうんざりした……のは本当だ。


 顎を引く。


 じっと水面に向かっていた視線を戻すと青い空が広がった。

 湖の色に親しい穏やかな色合い。知り合いの瞳にも似ている。


 手首が痛む……。

 いや、全身の筋肉が軋む、特に脚部に疲労が蓄積している。


 もっと顎を引きたいが疲れて眼玉だけぎょろっとずらす。


 手首を掴まれているのだ。

 そしてピピは欄干パラペットに残した足先が滑り落ちないよう無意識に全身を強張らせていた。

 街灯を支えにして、彼が身を乗り出して手首を握っている。

 ピピも腕を伸ばし切って、身体は真っすぐ水平になって欄干パラペットの上に足先が乗っている。


 半分に切ったアーチ


 扇形というべきか。


 アラスタと眼が合う。

 湖の瞳だ。


 彼への最後の言葉について不満があることを思い出した。

 手首を捻ってピピも彼の手首を掴む。


「……ヴヴヴ」


 彼の声がする――


 どこかでベルが、けたたましく鳴り続けている。

 見えぬが、歩道の人々が騒いでいるのは間違いない。


 ピピは鍛えた腕力を発揮して自分の身体を引き上げてゆく。

 扇形がどんどん鋭く狭まる。


 湖の瞳がきらきらとした光りを湛える。

 穏やかに笑む唇が開いて歯が見えた。


「うぅーー」声にならぬ声。

「ヴぁるぅ! ヴァルルうぅ!」彼は吠えた。



 馬のいななきに似ている。狼の唸りの方かもしれない。


 ――彼は、ピピに何か伝えようとしている

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