第8話 婚約ごっこは東屋で
バクソールは最も古いティーガーデン。王国に紅茶が入ってきた頃に作られた。
広大な敷地に整えられた草木。麗らかな陽差しの中でオーケストラの音楽を聴きながら、男も女も、貴族も庶民も紅茶を楽しんだ。昔のことである。
「ピピにとっては懐かしいんだろうさ」
カトドは椅子であくびをしながら言った。
『ニューバクソールと呼ばれていたそうだ。記録を調べたら、かなりそっくりに作ったみたいだね』
東屋の作りを眺めながらアラスタは書く。
古式ゆかしいティーガーデンの周辺には昨夜から近衛兵が立ち、内部はアラスタたち以外は無人である。
『
「小精霊と同じように夜明けとともに起きる、普段はね」
彼女が隣の小屋に潜り込んで朝を迎え、陽はもう空を明るく、アラスタの瞳の色に近くなっている。白シャツ姿の彼は眼を擦った。東屋のベンチで眠るのはもっと訓練が必要らしい。
小屋は扉を固く閉ざしてある。彼が夜明け頃に感じた冷え込みはなかっただろう。
そろそろ良い時間だ。
屋根から出て数歩、ピピでも入る時には屈まねばならない小さな扉の前に立つ。
背中を丸めたアラスタの大きな拳に暖かい陽が差す。
狼のような形の細長い影を伸ばして扉に落とした。
ノック
王太子らしく、ゆっくりと気品をもって扉は打たれ無人の庭園に響いた。
かつては、木を打つ音に誘われて願い事を叶える小精霊もいたらしい。
昔話のおとぎ話だ。王国には小精霊なんてもうどこにもいない。
小屋に物音
でも、扉から出てくるものはたしかに不思議な力をもっている。
アラスタの胸をノックより疾く鳴らす何かである。
**
『しばらくは東屋で過ごしてもいい。安全は確保しているし、貴方は、見知った場所で王国に慣れてゆく方がいいのかもしれない』
アラスタがそう書くのを見ながらピピは思案する。
あれ……。ベンチの隣に見覚えのある木箱。
「あれ! 私の!」
椅子から飛んで駆け寄ると、密閉が解かれて蓋も開いている。
昨夜のうちに近衛兵の一人が、近くに運び込んだのをアラスタが開けておいたのだ。
詰め込んだ藁をどんどん引っ張り出して放り投げる。
壊れないようにカチカチに詰めたのでいくらでも藁が出てくる。
茶器とチェス、それにトレイも見えてきた。
東屋の外に置かれた水かめに飛び乗ったカトドが、爪で蓋をカリカリとしている。
――水がある。
「じゃあ、
トレイに茶器を乗せてピピは言った。
多分、食べ物は何とかなるよ、きっと。
ポットからティーカップに注がれて湯気を立てる。
テーブルにはチェス盤も広げられている。
昼に近づき強まる陽差しは東屋の屋根が防いで、風だけが爽やかに通り抜ける。
二人は穏やかに笑みを交わしてからティーカップに手を添えた。
『馬の駒は私で、今はこう……、島にいる貴方を自分の領地に連れてきた』
馬頭を親指と人差し指で掴みつつ、他の指を広げるようにして小さい駒――ピピを示す駒を取って盤の端から端に移動させるアラスタ。
斬新な遊び方に思える。
「人間が多すぎるのが嫌になってちょっと逃げた……こうだね」
ピピは自分の駒を1マスずらした。
『私は貴方に付いてきた……こうだね』
ピピの隣にアラスタを示す馬の駒が並んだ。
『さあ、婚約者の二人は今からどうするだろう?』
私たちは婚約ごっこをしている……、のだったかな。
嘘が重なり過ぎている。
どこから解けばよいのか。妖精姫のところか……、それとも婚約か……。
何をバラしたらどうなるのか……。
盤上の自分の駒をつまみながら思案して先を読む。
――婚約者ではなくなってしまうのかな?
水を舐めたら満足して、隅っこで丸くなっているカトドをちらりと見た。
島では感じたことのない気持ちがピピを冷ややかに包んでいる。
ピピの髪をそよがせる麗らかな風。
自分の駒は今からどう動くのだろう?
今まで一人で生きてきたのだ。
王国であっても同じこと、やり方を少し工夫するだけのこと。
ため息が漏れる。
もうしばらく考えてから嘘を解こう、あと少しだけ。
駒を手放し、ティーカップを運んで白湯を口に含んだ――
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