第5話 新しい遊びをしてから
会話機のシフトキーを押して
急に東屋を飛び出して行った理由が分からず、彼は戸惑っていた。
呼び止めることはできず、飛んで行って捕まえるというわけにもいかないので見逃さないように一定の距離を保って付いてゆくと、
だが……。
何かが彼女を警戒させたのだ……。
あっけなく目的が達せられそうだと慢心していた?
婚約の成立は目的ではないぞ……。自戒を繰り返す。
彼は次代の国王――使役魔法の継承者である。王国の繁栄は彼の双肩に重く担われている。
彼にとって婚約とは政略の意味しか持たなかった。
ある時までは――
腰から記録を取り出して確かめる。
『ピピは婚約します』
彼女がさらさらと猫の似顔絵を描いた後(意味は分からない)、ペンを少し持ち直して書くのを見た時に感じた高揚は何であったか……。自分が溶けて跡形もなくなってしまうような危うい感情も同時に覚えた。
彼女の文字を指の腹で擦りながら、此処に来た目的を暫くすっかり忘れさせてしまった感情を胸の内で確かめるが、まだ形をとらぬ何かである。
姫は私の心を見透かし、まだ形をとらぬ感情について言及したのだろうか?
妖精姫の言う
**
庭園の木々は鬱蒼と茂っているが木漏れ日が地面やピピの身体に散っている。
足には自信があるが、アラスタが飛べることをピピは警戒していた。
ひっそりと気配を消して地面に這いつくばっている。
茶器を隠した木の根元の近くにウサギの穴を見つけたけど、身を隠すには小さすぎる。ピピの手足はもう伸び切っているのだ。
アーチ近くで鳴っていた
頭を低く保ったまま視線を遣ると、
アーチに近寄って柱に抱きついたと思ったら、身体を丸めながら持ち上げ脚でも柱を挟みこんで体重を支え切る。また長い腕を伸ばして身体を持ち上げゆく。一連の動きを繰り返す。
彼が柱に登る目的は定かではない。
ああいう動きもできるんだな……。訓練された柱登りを見物しながら、アラスタの骨格や筋肉が獣ではなく自分に近いものであるのを改めて感じ取った。
すぐに登り切ってしまった。柱の上には重厚な梁が架かっている。装飾の一つを掴んだアラスタが林を見下ろす。
上から動くものを探すんなら飛べばいいのに……。
柱頭の飾りに足先を掛けたまま、彼は黒い隊服の上着を脱いでシャツ姿になった。
何かをしているがよく見えない。注意が逸れている好機を生かしてピピは音を立てずに移動を開始する。
太い幹に身を隠してから振り返ると、アラスタが両手に上着を掴んで左右に動かしバタバタと風に翻している。
何をしてるのかさっぱりだ、と思って眼を凝らすと、黒い上着の背中に白いものが見える。
だが大きな文字は太く濃い――遠くから見えるように力をこめて書かれたものだ。
遊歩道を挟んで反対側、ピピのいない方の林に身体の向きを変えて、またバタバタと上着を振っている。飛べることが分かっていても足を滑らせて落ちそうでヒヤッとする。
よく見たら、上着の裏地にも文字が書かれている。……よく見えぬ。
彼は再び向きを戻した。
――
背中の文字は見えた。
旗のように上着は宙に翻って裏地も見える。
――話したい
眼を細めながらピピは思案をはじめる。どういう意味だろう。翻る上着の表と裏を眺める。
話したい
話したい
やや気になるが……、嘘であろう。信じられないね。
旗振りの動きを不安定な柱頭で行うアラスタに林の中は大して見えていない。
ピピは移動を再開する。
地面に腹這いになって手と膝を動かして前進する。後ろでは、まだバタバタとした音が鳴っている。
ピピは動きを止めた――
少し確かめることにしたのだ――
林に不気味な声が地響きのように鳴る。
「嘘をついても無駄なことだ」
ウサギが掘った
いつでも逃げ隠れたり、別の場所から出て追っ手を引き離すためだ。
空いた穴の一つに顔を埋めるようにしてピピは低い声音で話しかけた。
反響する声が、林の至るところにある開口部から放出されて鳴っている。
「お前の言うことは信用できない」
正確には言ってるんじゃなく、彼は書いてるだけなんだがまあいいだろう。
低い声音は
旗振りを止めて驚く様子のアラスタ、表情までは見えない。
ピピは新しい遊びを発見して喜びを胸の中に隠して、
「湖の底に
アラスタは身動きせずに聴いている。
「空を泳げるし、もしかして魚の仲間なのか? そうは見えないけども」
率直に聞いてみたが、彼は返事をできないことに気付く。
手に握る上着が揺れるだけ。
風ではない何かが彼の肩がぶるっと震えるのが遠目に見えた。
「……ヴヴヴ」
風ではない何かの音がピピの耳に届く。
アラスタの身体は柱みたいに強張って、顔から首まで白い肌は赤く染まっている。
開けていた口を閉じたら上半身が膨らむ――息を吸っているのだ。
「うぅーー」声にならぬ声。
「ヴぁるぅ! ヴァルルうぅ!」彼は吠えた。
馬の
怒り含めながら、アラスタがなぜか羞恥に震えているのがピピは分かった――
嘘をついているかもしれないが……。
本当のことも彼は言っているんじゃないだろうか?
嘘をついたのは自分も同じである。
立ち上がったピピは、すたすた歩いて林を抜け遊歩道に戻った。
「
明るい声を投げかけた。
アーチに近寄りすぎて仰ぎ見るアラスタの姿はほぼ足しか見えない。
彼が人間だと言うことについて、信じてよい気がしている――
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