第2話 会話機はいらない

 湖畔の砂地に立ち、二人は対峙している。

 じろじろ互いを見ているのは両者とも同じだ。

 

 「おとぎの島」で長く暮らしてきた【彼女】には、はじめて見るものばかりだ。

 平たくて大きな眼を取り外した時にはぎょっとしたが、眼に覆いカバーを付けていただけで本当のはちゃんと下にあった。


 勢いよく横に引いたような切れ長の鋭い眼は、獲物を狙う狼のようだ。空色の瞳は湖の底につながっているみたい、奥行の分からぬ色をしている。

 

 命綱なしで湖畔にいることが今頃になって急にこわくなってきた。鼓動が脈打つのが向こうにも聞こえているかもしれない。


 頭をおおっていたフードを外すと、灰がかった銀色の髪が月光のように輝いている。

 どくんどくんと耳元で響くのを収めようと深呼吸するうち、眼の前で何かの作業が開始された。攻撃する意思のないことは直感的に分かっていたが……。


 でも、こわいものはこわい。


 【彼】は、腰から下げていた機械を取り出して速やかに組み立てた。


 ボード、紙束、いくつかのキー、ベル、万年筆。


 何に使うものなのかさっぱり分からぬ。持ち物を見せ合うということでもなさそうだ。

 ボードの上に置いた紙に記載してシフトキーを押すとベルが鳴ると同時、「@」の活字が紙に打たれた。筆者の交代を示していることを【彼女】は知らない。


 涼やかなベルの音が面白く、あと2,3回鳴らしてくれないかと期待した。しばらく待ってみたが鳴らさぬ。

 ようやく、紙に記されたものを見ると文字が書かれている。


『アラスタ・アーシュが会話を開始する』


 名を知って【彼女】は小さな喜びを覚える。

 黒いの、とか、翼のない鳥、なんて呼ばなくて済むからね。


 湖色を帯びた視線を頬の上に感じ取った。アラスタが何かを待っているのは分かる。書かれた文字やら綺麗な音のするベルを見ながら思案する。


 分からぬままの【彼女】がともかく、ボードに手を伸ばすとアラスタの瞳に期待の火花が煌めいた。


 ボードに置かれた万年筆に手を伸ばす。

 【彼女】が取ろうとするのを、アラスタはまだ手放していなかったので、ボードの上、両端を摘ままれたペンが宙に浮いた。アラスタが離して【彼女】の手に入った。

 本来なら、ペンを持ち歩かぬ者はいないが【彼女】は知らないし、必要とすらしない。ぬかりなく、アラスタは予備を取り出す。

 

 入手したペンを使う【彼女】は、金属の先端を紙面で踊るように滑らせる。


 尖った「A」がやや離れて二つ並んだら、くるっと下に丸まって始まりの位置でつながった。線に囲まれた内側に「I」が並ぶ。オリオンのベルトを示す三つの星のように真ん中が下に寄っている。さらに下方、ペン先を移動させたら慎重に三日月のような模様が描かれた。


 月は大きく傾いた「D」だろうか、すると「AAIID」、「I」に見えた一つが「L」だったら「AILDA」にもなる──エルダとでも読むのだろうか、などと思案していたのはアラスタだけである。


 彼は視線を引いて気付く、なんだか猫の顔のように見える……、奇妙な署名であるが、先方の自由であると無理やりに納得した。


 一方、【彼女】にとっては、やはり、喋り猫のカトドの似顔絵を描いただけだった。うまく描けて満足げに笑みながら、シフトキーを押して「@」を刻印し、鳴るベルに喜んで見せたが……。


 ──分かっている。


 本当は名前を書かないといけないのは分かる。


(君、お嬢さん、人間……)


 カトドにそう呼ばれたこともあったけど……。


 ──名前がないことをアラスタに知らせたくはなかったのだ。


 ともかく、「会話」の開始が成立した。

 アラスタは任務遂行のため、素早く筆記する。


『私の名はアラスタ・アーシュ。王国の王太子である。妖精王オベロンに会うために「おとぎの島」に来ている。この会話は王令に基づき記録は当方が接収する。妖精王オベロンの居所、又は関連する情報を知っていれば直ちに伝えよ』


 小難しく言ってる(書いてる)ので、【彼女】はもう一度読み直して理解した。


 湖の底に人間の国があるってのは本当だったのか……。王太子? アラスタの顔を見上げ、瞳を眺めて【彼女】は納得した。


 記憶を探る。妖精王オベロンという名は、カトドから聞いたことがある。おとぎの島のどこかにいる王様だ。長く住んでいるが見たことは一度もない。


 そう書いても良かったが、話す方がずっと早いし楽だと思うね。


 【彼女】が、入手した万年筆を腰に下げた巾着ポーチの底に大事にしまってから眼を戻すとボードの紙にはアラスタが続きを書き上げていた。さっきの偉そうな感じとは少し印象が違う。困っている、という感じ。


『使役魔法の発動から100年が経った。いつ妖精王が現れて「おとぎの島」を元に戻そうとするか分からぬと国王は憂いている。王国の繁栄は、島の商品で成り立っている』


 商品というのは、砂糖、紅茶、それと妖精の粉であることを【彼女】はよく知っていた。小精霊たちとずっと過ごしてきたからだ。なぜ商品を作り続けるのか知らずに一緒になって続けてきた労働を思い出す。ぼんやりしているうちにアラスタは続きを記した。


『此処、「おとぎの島」には、100年前から人間は一人もいないはずだ』


 そう、【彼女】は自分以外の人間を今日まで見たことがなかった。島に人間は一人だけだ。


 釣り眼とサファイアの瞳が、【彼女】の美しい顔立ちの中で特に際立っていたが、人間を見たことがなかったのだから顔貌の区別は難しい。でもしげしげと相手を観察する。


 アラスタにとっては、眼の前にいる【彼女】は瞬きの間に消えてもおかしくない現実離れした幻を見ているようだ。


『貴方は人間か? それとも小精霊か?』


 心からの彼の問いかけの後──

 ベルが鳴る音と【彼女】の声が重なる。 

 

「じゃあ、きっと私は最後の一人だね」


 聞きなれぬ音のつながりにアラスタは身を固めた。

 アラスタが、発話を耳で聴いて理解するのは、王侯らしい教養、古典知識の恩恵である。


 失われたはずの「声」を使って話す【彼女】は、やはり人間にしか見えない――


 互いに観察を続けながら二人は移動を開始する。

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