第12話 ∞甘酒が運んだチャレンジ(シーズン1最終話)



「うわあ、寒いよ」

 暖簾を潜って店に入ってきたのは、千宮辞幸生せんぐうじゆきお四十三歳だ。

「おお、幸生ちゃん、肩に雪だよ」と一色。


「まあまあ」

 慌てて一色の妻、零香れいかも駆け寄ると肩の雪を払ってやる。

「ただの風花かざはなかと思っていたら、本格的に降り出してきたね」


 幸生はコートとスーツのジャケットをハンガーに掛けるといつものカウンター席に着いた。


「なんで幸生ちゃんは、業界人なのに垢抜けないのかね?」

 鍋を洗いながらジョークがてら笑う一色。地味なネクタイがそれを印象づけている。一色の言葉は派手なガラモノを好まない彼の趣味に起因している。


「そりゃ、気取るような物がオレにないからさ」と出されたお茶を一気に飲んで暖をとる。

「ラジオ局務めなのにね」

「いや、ウチみたいな小さなミニFM局は、業界といってもさ……」といったところで、ふと思い出す。

「あ、ごめん。美和ちゃんは垢抜けているし、良いパーソナリティだよ。念のため」と前口上まえこうじょうを入れておく。一色への気遣いだ。

「あはは、ウチの妹にお気遣いありがとう」

 一色の妹、美和は同じFM局の昼の帯番組で人気パーソナリティを務めるフリーのラジオアナウンサーだ。


「オレが扱っている番組は早朝と深夜の独占枠。単一スポンサーの真面目番組。鉄道会社提供の列車運行情報、宗教法人の年配者向け番組とお役所の広報番組だ。花形のマスコミっぽいやつはオレの守備範囲ではない。そんなオレには小洒落て、気取った楽しみはないのさ。年も四十歳越えたし、結婚も諦めた世も末のプロデューサーって感じ」とやれやれ顔でぼやく。


「よくそこまで自虐的な要因を次々と挙げることが出来るね。いやいや人生、何が起こるか分からないよ。ものすごい若い嫁さんをもらえるかも知れないよ」


「どこに今の番組編成聞いて、若者と接点があるのよ。気休めは空しくなるからやめてよ」と首を横に振って、冗談めいた笑みを浮かべる。

「そうかな? 幸生ちゃん、結構オレから見ても格好良いのに。人の良さが好きな若いお嬢さんだっているかもよ」と希望的な言葉を向ける一色。

「慰めをありがとう。まあ、いいや。お燗とおでんを一皿。それと天ぷらを紅葉もみじおろし添えでお願い」とカウンター越しに注文を出す幸生。


「はい。かしこまりました」と返事の一色の横で、零香は伝票に品目を記入する。

「お正月は特番で、帰っていないんだろう。酒どころの郷里」

「まあね。でも郷里って言ったって、群馬と県境の新潟だ。新幹線で二時間はかからない距離だよ。まあ、ようやく休暇が取れたので、明日から数日行ってくるよ」


 食事も終わって、幸生はぽつりと本音を漏らす。

「好きだった子がさあ、恋人だったんだけど、郷里の森に山菜採りに出かけたまま行方不明になってね。そのまま俺の恋は消えたんだ」

 昔、少しだけその話を聞いたことがある一色は優しく頷く。

三国湯本みくにゆもとの酒蔵の娘さんだったんでしょう?」

「うん。その子の家のお酒の銘柄の姫菫ひめすみれにちなんでスミレちゃんっていってねえ、今でも姫菫の酒瓶を見かけるとつい思い出しちゃうんだ」

 珍しく弱気な幸生だ。よる年なみの独り身は強がりだけでは撥ね除けられないのだろう。カウンターのテーブルにうつぶせに覆い被さったまま、ほんのりと涙がにじんでいるのが分かる。

「純愛だ。本当に好きだったのねえ」

 零香もしゅんとする。湿っぽいのは得意ではないが、人の心を受け入れるのが彼女だ。


「はい、温まってから帰ってね」と一色は、帰り支度を始めた幸生に湯飲みに注いだ甘酒を出した。

 幸生はにこっと笑うと、「いいねえ。コーヒーでも、紅茶でもなく、こういうのをさりげなく出す一色さんの心配りが好きなんだよなあ」と言って、「いただきます」とその芳醇さと甘い麹の舌触りを堪能してから店を出た。



 翌朝早い一番列車、幸生は帰省する新幹線の中で夢を見ていた。菫の花が咲き乱れる春のスキー場は草原だ。その中央にはウエディングドレスを纏った女性が彼を待っている。顔は誰なのかは分からない。ベールの向こうには満面の笑みを浮かべた口元だけが映る。ただそれだけのシンプルな夢。不思議なのはその花嫁、ブーケでなくて一升瓶を抱えている。そこで新幹線は大きく減速した。駅が近いのだ。その振動で我に返る幸生。

『ふっ、おじさんが変な夢を見たもんだ。呑兵衛おじさんは酒瓶を持った花嫁がお似合い、ってか……』

 そう苦笑いして、飲みかけの残り少ないビールを飲み干すと下車準備に取りかかった。すぐにトンネルを抜けて三国湯本の駅へと新幹線は滑り込んでいった。



 三国湯本駅のホームに降りる。湿った雪の質感と鋭いキレを持つ寒さ。懐かしい郷里の冬である。川端康成の小説にも登場する芸者駒子の物語で有名な場所だ。『国境の長いトンネルを抜けると……』で知られるあの名作である。

 すでに降り積もった雪の除雪は追いつかず、道路に設置されているスプリンクラーから出されるお湯や水によって解凍を促す季節になっていた。リュックに簡単な着替えだけを入れて、背負って歩く数日だけの帰郷だ。兄とその妻が切り盛りする温泉宿。そこが彼の実家である。


「ただいま!」

 勢いよくホテルのロビーから自動ドアを踏んでチェックインカウンターを望む。

「ゆきおちゃん! お帰り」  

 フロント係のお梅さんが笑顔でこっちを見た。彼が子供の頃から働いてくれている従業員だ。もう七十歳を越えただろうか。

 そして館内を見て驚いた幸生。

 なんとロビーでソファーに座っている、あの行方不明になった恋人の十三夜菫じゅうそうやすみれがいるのだ。


「スミレちゃん?」

 はにかんだ横顔は少女時代のままである。

「ゆーくん」

 蚊の鳴くような小さな声で、あの頃と変わらない。

「えっ? どういうこと」

 狐や狸に化かされているか? 幸生の頭は上手く判断能力が働かない。


 菫は恥ずかしさからなのか、思わず立ち上がり、その場を立ち去ろうとした。

「待って!」

 幸生の言葉に少しだけ、動きが止まるが、それを振り切るように菫は走り出した。

 幸生は持っていたリュックをロビーのソファーに置いて、すぐに追いかける。

 上手く走れていない、辿々しい走り方の菫にホテルの通用口の付近で追いつき、幸生は菫の腕を掴んだ。


「後生です。どうぞ、このまま何も見なかったことにしてください」と泣き乱れ出す菫。三十歳の菫は最後にあった二十歳そこそこの頃と何も変わっていなかった。ジーンズにセーターというラフな格好にマフラーと上着、おそらく御用聞きか配達の時の格好である。

「見なかったことになんか出来ないよ」と息を切らせながらも優しく見つめる幸生。

「いつ帰ったの? オレ、行方不明になったって聞いていたから……」


「幸生さんには知らせないでくれ、って、隠居なさったご主人から言われていたの。それで行方不明っていう方便を使ったんだわ」

 観念したように涙目のまま真実を短く言う菫。

「うちの親父から?」

 菫は黙って頷いた。

「なんで?」

「当時、山で迷って谷に落ちた私は、ベテランのハイカー一行に助けられたの。でも衰弱しきっていて、長期入院が必要な状態だった」

「うん」

「その時に沢に滑落したことが原因で後遺症が残った。具体的には過去の記憶が八割以上なくなったの。一時的なものとは言われていたわ。自分の名前も分からない状態で混沌としていたのよ」

「うん」

「その約三年後に実家の自分の部屋であなたの写真を見つけたの。でも誰だか思い出せない。仲良く写真に写っているのは腕組みして、どう見てもカップルだった自分」

「うん」

「やがてその写真の人物が、近所の旅館、三国湯本荘の息子さんだと知った。私の恋人だったと。それを私の家族から聞いて、思い切ってこの旅館に来て、訊ねてみたの」

「うん」

「その時は、ロビーに隠居のご主人がいて、こんな状態になったので、別れてほしい、幸生さんには会わないでほしい、とお願いされたの」

 彼女の瞳は大きく潤んでいる。それは悔しさと言うよりも、運命の持つ儚さを嘆くように幸生には思えた。恨んでいるような節は見当たらない。


「その数年後にリハビリの甲斐もあって、私の記憶はほぼ全面的に復活したんだけど、あなたとの事はご主人たってのお願いと言うことで、私は身を引いたわ。だからあなたとは会えないのよ」

「それでオレには君が行方不明って言って、家族皆で口裏合わせをしていたのか……」


 全てを打ち明けた頃には彼女の目には無念の涙が溢れていた。両手で顔を覆いながら、俯いてすすり泣く彼女は、そのまま廊下の絨毯の上に座り込んでしまった。

「私はあなたには相応しくないし、こんな境遇の女を妻にしてくれる奇特な人はいない」

 声にならないようなすすり泣きに混じって、聞こえてくる台詞は自暴自棄になった彼女の、あまりに悲しい本音だった。

「見たところ社会生活に不自由はなさそうだけど……」

 宥めるように言う幸生。彼の言葉通り、見た目から生活面を照らしてみても、ごく普通の生活をしているようだ。

「でも日陰者のようにリハビリを送ってきた三十女に人並みの生活は夢のまた夢なの……。分かって、そして分かったらそっとしておいてください」

 濡れたまつげに潤んだ瞳は、覇気も生気も感じられない。不幸に翻弄されすぎて、精根尽き果て、疲れてしまった涙目である。


 数秒の考える間ぐらいはあったのだろうか? 幸生は頷いた後で言葉を発する。それは彼らしくない言葉だった。


「やだ!」


 四十男が言う台詞ではない。だだっ子の子供が使う定番の言葉だ。彼女からすれば、予想だにしない言葉だ。


「え?」

 コンテクスト、脈略が意味不明のため、その言葉が彼女に入ってこない。涙を拭いながら、小首を傾げる菫。耳を疑うというのはこう言う時なのだろうか?


「やだ! って言ったの」と再度拒否の意思表示を示す幸生。


「どういうこと……?」

 小刻みに震える肩が、恐る恐る問いかける。


「君をそっとしておくことは分かってあげられないし、君が日陰者である事は認めない」


「でも……」

 意味不明の幸生の言葉に目が泳ぐ菫。困った表情だ。


「ウチの親父はきっと、オレに本当の事を知らせると、この性格だからまた訳の分からないことをやり出すと思って、オレに内緒でいることをお願いしたんだと思う。オレ、若いときは思いつきで行動する性分だったもんでね。でも記憶も戻って、社会復帰をしている状態なら何の問題も無いはずだ。生きていれば、親父もそう言ったと思うよ」

「え? イキテイレバ? どういうこと……」と途切れた後で、「隠居のご主人は?」は、と問い直す菫。


「親父は既に一昨年おととし亡くなっている。知らなかったの?」

「ええ。三国湯本荘には、あの一件以来、今日初めて伺いました。新しい社長さん、おそらくゆーくんのお兄さんが私に伝票を持ってきてほしいと頼んだので……」と言う菫。

「兄貴も分かっていたんだ。菫ちゃんがオレを慕っていること」

 すると菫は納得したように、何度も頷いた。儚くも嬉しげな顔が見て取れる。

「もう十分。みんな優しいって分かっただけで、今日は安心しました。私に対する意地悪でないことが分かっただけでも、十分すぎるくらい幸せです」

 菫は立ち上がると、手をぱんぱんと払って、埃を落とし幸生に一礼をした。そしてきびすを返すと見えない角度で涙を拭った。


「まだだよ。もっと幸せになる権利があるんだ、君は。君をけっして玉手箱を開けた浦島太郎のようにはしないさ。年相応の経験値を沢山積んで、一緒に失った年月を取り戻すんだ」とまた彼女の腕を掴む幸生。

 幸生の言葉に、「まだ何か?」と呟く。彼の方を振り返ることもなく言葉を発した。


「約束したろう。オレのお嫁さんになるって」と核心に触れる幸生。

「そんな子供染みた昔の約束なんて持ち出して……」

 その幸生の言葉に菫の表情が曇る。やっかい事を再燃させられるのは、ごめんだと言うことである。


「哀れみからなの?」と彼女。柔らかく睨みつける痛い眼差しで「記憶喪失だった女に慈悲の手をさしのべたいって事?」と加える。


「どうしてそんなにひねくれちゃったんだろう。菫は純粋だったのに。人なんて疑わない穏やかな女性だったのに」と優しく微笑む幸生。

 その表情を見て、「はうっ!」と息を止め、止めどもない涙を感じる。知らないうちに、穿うがった物の見方を覚えてしまったのは真実だ。それを正し、昔の自分を知っていてくれた唯一の異性にこみ上げるものが彼女の内面にはあった。


 一息ついて、考えをまとめた幸生はゆっくりと手を放す。

「菫の夢だったイラストレーターになること、これから叶えようよ。オレと一緒に」

 そう言って反対側の手を正面を向いて差しのべる幸生。おじさんになったと意識してから、初めて感じた熱い気持ち。


「無理よ」

「なんで?」

「そういう学校にも行ってないし、基礎も人脈もノウハウもないわ」

「今から行けば良い。費用なら心配ない。オレ趣味貯金だったから」

「だって……。おばさんになったし」

「年なんて関係ないよ。いくつになっても、がんばれる人になろうよ。一緒に東京においで! 葛西で暮らそうよ」


 涙の乾く暇のない菫。今度はうれし涙が押し寄せてきた。

「だって、だって……」


 どうして良いのか分からない彼女は、しどろもどろにしか返事できない。両手で顔を覆い、首を振り続ける。彼女の薄暗い視界が一気に晴れて、まぶしい世界に一転する心境だ。夢さえ見てはいけないと自分の心を固く閉ざしてきた彼女の心境で、不思議な気持ちが生まれていた。


 そのまま幸生は優しく彼女を抱きしめると、あの頃と変わらない、ゆっくりと触れるような優しいキスをした。

「うっ!」と口を塞がれ、返答に困った彼女は、そのまま無言になり、あふれ出る涙の落ちていく先をただ呆然と見つめていた。


「私、甘えて良いの?」

 弱々しいものの訊ねかただ。随分と精神的に苦労してきたのだろう。すっかり自尊心という物を忘れてしまったような口調だった。

 静かに頷く彼。それから彼女の涙は数十分止まることはなかった。



 やがて一年の月日が流れた頃には、三十歳でイラストの専門学校に通う菫の姿があった。日々葛西の商店街を買い物する姿も見られる。彼女は幸生の妻となったのだ。献身的に夫を支え、自己実現の勉強も研鑽に励む毎日だった。

 そして幸生のマンションにはあれから毎月のように酒粕が届く。菫の実家からだ。清酒「姫菫」のもろみで作られた酒粕だ。幸生の英断によって始まった生活。彼は両家にとって、未だ英雄扱いである。とりわけ彼女の実家からは、半ば朽ちた目をしていた菫を元の彼女に戻したということで、絶大な信頼を得たのである。


「あなた、甘酒、出来ましたよ」

 すっかり妻の雰囲気も板に付いた菫は料理に精を出す。甘い酒粕の香りが部屋に漂う。やる気の無い業界人の幸生は、そこから一念発起して、フリーの制作会社を立ち上げた。勿論妻の出遅れた人生をサポートする目的で、イラストを売り込むためと、自分がまだ何をやれるのか、を自己実現するための受け皿が必要だったからである。


 そんな幸生の人生を優しく微笑む食堂の店主がいる。制作会社のはす向かいにある『潮風食堂』の青砥一色だ。手ぬぐいを頭に被り、ゴム長で、店の前に咲く、妻零香が育てた菫の花に水をあげている。横には近所でも評判の美人妻と言われる零香が寄り添う。今年もまた春がプランターの菫の花を咲かせてくれる。皆の幸せと優しさを栄養分にしながら。


                                    了



 

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思い出の『潮風食堂』-不思議な味どころ- 南瀬匡躬 @MINAMISEMasami

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