第3話

「ふぅ…」

 ベランダの手すりにもたれかかり、高良健二は深いため息をついた。見上げると、ひさしの端の方から夜空が覗いていた。夜空は昔授業で使っていた星座の早見表のように、ぐるぐると健二を中心として緩やかに回転している。

 思いのほか深酒をしてしまったらしい。

 健二は火照る頭を揺り動かしながらそう思った。

 元来、健二は滅多なことでは深酒するような人間ではない。用法用量を守り、酒を嗜むことはしても、酒に溺れることは決してなかった。それがどうだろう。どうしようもなく酒の海に浸かりきっている今の自分はなんとも情けなく、健二はもう一度深い溜息をついた。

 だが、実を言うと、こんなにも深酒をしてしまったのは、これで二度目なのである。そして、そのどちらの場面にも友人である瀬倉拓の姿があった。健二にとって、深酒と拓は切っても切れぬ関係性にあるらしい。

 一度目は拓の二十歳の誕生祝いのときだった。そのひと月前にはすでに二十歳を迎えていた健二であったが、どうせなら同じタイミングで酒を解禁しようと、律儀にも一滴も酒を飲まずに健二はその日を待っていた。

 正直なところ、麦酒も焼酎も日本酒も、てんで良さが分からなかったが、大衆居酒屋の雑多な雰囲気や立ち込める煙草の紫煙や、肉が焼ける音などの様々な要素が、健二の気持ちを高揚させ、どんどんと酒を煽らせた。

 その中でもとりわけ健二を高揚させたのが、拓の悩みの告白だった。

 拓の悩みの数々は健二にとって、実に理解のし難いものであった。「交通事故の映像を見て車の運転が怖くなった」というものだったり、「マヤの予言によると来年の夏には世界が終焉を迎えるみたいだ」というものであったりと、お前が考えても仕方がないだろう、と思わずツッコミたくなるようなとりとめもない悩みを、拓は酒に酔うと際限なく語り出す。

 最初の頃は、寡黙な友人の変わりように辟易していた健二だったが、そのあまりにもくだらない悩みの数々が次第に面白く感じられ、いつしかその悩み話を肴に酒をあおってしまい、ついつい深酒をしてしまった。そうして気がつけば、健二はどこかの路地裏のゴミ捨て場で寝ているところを浮浪者にたたき起こされ、拓はというと警察に保護されて留置所にぶち込まれていたというのだから、笑えない話である。

 以降は互いに牽制し合い、健全なる酒飲みとして生きてきた。

 そう、昨日までは。

 昨日の拓の話は、二十歳の誕生日祝いのときに匹敵するバカバカしさがあり、久しぶりに酒を運ぶ手が進んでしまった。気がついた時には一軒目の居酒屋が閉店の時間になり、更にまた気がつくと二軒目のスナックも閉店の時間になった。そこでようやく解散と相成り、雑居ビルを後にした。

 その後健二は、朦朧とする意識の中、何故かタクシーも呼ばずにフラフラと夜道を歩き、一時間以上かけて、つい先ほど自宅に帰り着いたのであった。時刻は既に夜明け近くなっていて、酒も随分と抜けつつある。

―――あいつは無事に帰り着いたかな。

 ふと、雑居ビルの出口で別れた拓の安否が気になった。拓もかなり酔いが回っていたはずだ。断片的な記憶を辿ると、よろよろと、健二とは反対方向に歩いていく拓の背中が浮かび上がった。

 健二はスマートフォンの画面を見た。さきほど拓に送ったメッセージにはまだ返信がない。スマホの充電が切れているか、すでに寝ているかのどちらかと思うが、どうにも二十歳の時の醜態が頭によぎり、健二は落ち着かなかった。

 春乃に連絡をとろうかとも考えた。しかし、先の飲み会の議題が議題だけに、なんとなく春乃に連絡をとるのが憚られた。

「まあ、大丈夫か…」

 健二は依然としてぐるぐると回る夜空に向けてポツリとこぼした。

 拓の今回の悩みというのは、恋人の春乃との今後のことだった。

 健二からしてみれば、十年近く交際が続いておいて、何を今さら悩むことがあるのか、というものだが、拓にとっては難しい議題らしい。

 要は仕事が思うように出来なくて、彼女を支えていく自信が持てないのだ。本人なりの努力が実を結ばず、次第に結婚について消極的な考えを持つようになったようなのだ。

 そして昨夜、そのことについて春乃に追及された結果、なにも言い返せず逃げ出してきたというのが、ことの顛末だという。

 嘘でもいいから「結婚しよう」といえば済む話なのだが、それが出来ないのが瀬倉拓という男なのだ。愚直で生真面目、押しに弱いように見えて意外と頑固なあの男にとって、その手の意思表示は、相当な覚悟と根拠がなければならないのだろう。春乃とて、そのことは承知しているはずである。あえて追及しているところを見ると、二人の関係は健二が知らない内に随分とこんがらがってしまっているみたいだ。

 一度、自分が間に入って話をしてみようか。そう健二は思う。

 「いや、やめよう」すぐに心の中で撤回をした。

 そもそも、痴話喧嘩の仲裁のような、おせっかいなおばさんみたいな真似をする柄でもない。

 なにより、この手の話は不用意に首を突っ込んではいけないのだ。時に思わぬ被害に受けるハメになりかねない。健二にとって、友情は確かに大切なものである。しかし、仮に友と自分とを天秤にかけるような場面があったとすれば、健二は間違いなくその天秤を自らの方に傾けるだろう。

 健二はは自分自身を第一と考えている。くだらない自己犠牲など、ただ消費されて捨てられるだけだと思っているのだ。

 その一方で、ふと、他人に対して無償の親切を施したくなる時が、健二にはある。それは一過性の発作のようなもので、時間が経てばその気持ちも治まる。したがって、健二はただの一度も、その気持ちを行動に移せずにいる。

 時折、拓という人間が、とても羨ましく思える。自分以外の物事に本気で悩み、思いやりを持てるあの友人に、健二は自らの理想を垣間見ることがある。拓の悩み話に嬉々として耳を傾ける背景には、拓という人間に対する羨望の気持ちが隠れているのである。

 いつのまにか夜空の回転は徐々に緩やかになってきた。それは健二の体からアルコールが抜けている証でもあった。

 意識がはっきりするにつれ、急に夜風が肌寒く感じられた。

健二は室内に戻って寝ることにした。「さむさむ」と口ずさみながらベランダを後にするとき、空の端が少しだけ白んでいることに気がついた。もう夜が明けようとしている。

 自室のベットにくるまりながら、健二はもう一度、拓のことを思った。

―――春乃とはちゃんと仲直りが出来るだろうか。

 すぐに、出来るだろうな、と健二は思った。拓は確かに型にはまった真面目人間には違いないが、追い込まれると思いもよらぬ行動を取ることがある。今回の拓は、近年稀にみる追い込まれようだった。よく振った炭酸ジュースのような緊張感を孕んでいた。

 もしかしたら、近いうちに良い報告があるかもしれない。そう、まどろみの中で思った。

 やがて健二は眠りについた。その顔には、うっすらと笑みが浮かんでいる。


*


 光が収まると、教室はすっかり元の姿を取り戻していた。

 春の昼下がりのような暖かな雰囲気は消え去り、シンと静まり返った寂しげな教室がそこにあった。一人佇む拓は周囲に誰もいないことを確認すると、教室を後にした。

 引き戸を閉める音が、幕切れを知らせる拍子木のように思えた。

 はた、とあの女子学生の行方が気になった。確かに入っていったはずの教室に彼女の姿はなかった。どこにいったのだろうか?拓がキョロキョロと周囲を探る。

 すると、思いのほか簡単に彼女は見つかった。

 彼女は西側の連絡通路を、美術作品でも見ているかのように、ゆったりと歩いていた。

 その様子を、拓は廊下の窓越しに眺めていた。すかさず後を追う。現在地から彼女の場所までは結構な距離があるが、拓に焦りはなかった。彼女はちゃんと待ってくれている気がするのだ。

 彼女を見かけた地点に差し掛かると、すでに彼女は数メートル先の職員棟の角を、右に折れるところだった。一定の間隔を空けて付かず離れずのさまは、近所の野良猫と歩いているようある。

 連絡通路は月に照らされ、水面のように艶めいている。

 拓は立ち止まって、連絡通路の窓を覗く。眼下には木々に覆いつくされた中庭がある。実際には手が加えられなくなって数年くらいだろうが、小さな密林と化し、少しのスペースも与えられていない様子を見ると、そこには独自の生態系が育まれ、半裸の原住民たちが小さなコロニーを築き上げられていてもおかしくはないように思える。夜風に波打つ木々を見下ろしながら、そんな拓は妄想した。そして、そんな妄想をする自分がふいに可笑しく感じられた。

 この学校に迷い込んでからというものの、何かがおかしい。今まで、こんな風に妄想をしては、一人で笑うことがあっただろうか。少なくとも社会人になってからはないはずだ。そもそも、最近は感情を発露すること自体が減っている。辛いことの多い社会では、いちいち感情を露わにしては、心がもたないのだ。心を出来るだけ低く、平坦に。拓はそうしてストレス社会に順応してきた。

 ここに来てからは、その真逆だ。心は激しく乱高下している。喜びを感じたかと思うと、次の瞬間には悲しみを感じ、更にその先には楽しさが待ち受けているのだ。心がめちゃくちゃに撹拌をされているようだった。

 そして今、心は再び平坦に戻っている。しかし、その表層に浮き出ているものは、これまでと同じものではない。全く別の、全く新鮮な感情なのだ。

 窓際の手すりにに指を滑らしながら、職員棟へと向かう。

 拓には、彼女が次に向かう先に検討がついていた。後を追う足取りがゆっくりなのには、そういった理由も含まれている。

 連絡通路を抜けると、ふっと周囲が暗くなった。職員棟には月明かりが差し込んでいないのだ。拓は目を凝らしながら、慎重に少女の後を追った。


 彼女が消えていった角を右に折れると、彼女はやはり数メートル前で拓の到着を待っていた。不思議に思ったのが、職員棟の廊下は明かりが差し込まない分、教室棟の廊下よりも先が見通しづらいのだが、なぜだか彼女だけは暗闇の中で、はっきりと浮かびあがっているのだ。まるで、彼女自身が光を発しているかのように、彼女は拓の行く末の道しるべとなっている。

 拓の予想が正しければ、最終到着地点はこの廊下のつきあたりになる。

二人は示し合わせたかのように、等間隔で先へと進んだ。明かりが乏しい廊下は、古いトンネルの中を思わせる。

 目的地の道すがら、拓はこれまでに自身に起きた不思議な現象を振り返ってみることにした。

 最初の現象は、グラウンドの片隅にある水飲み場だった。

 あの場所で拓と春乃は出会ったのだ。仮にあの場所で出会わなくとも、それから先、どこかのタイミングで二人は出会っていただろう。だが、あの出会い方をしなければ、放課後にキャッチボールをすることはなく、春乃とはただのクラスメイトのまま卒業を迎えただろう。そういう意味では、あの出会いは、運命的なものだったのかもしれない。

 その次の現象は、少女を追った先で入った教室で起こった。あそこでは二年生の春の映像が流し出された。当時、拓はちっとも進展しない春乃との関係に焦りを感じていた。そして、その気持ちに拍車をかけるように、突然、恋の競争相手が現れた。拓は大いに焦り、嫉妬した。自分よりも遅くに知り合っておきながら、自分と同等以上の位置にやすやすと登りつめた相手に、脅威を抱かずにいられなかった。拓は悩んだ。散々悩みぬいた。そして、ある時、一つの結論に辿り着くのだった。

 その答えがこの先にある。

 彼女が歩みを止めた。

 同調して足を止めた拓は、彼女が動く気配がないのを感じると、ゆっくり近づいてみることにした。

 二人の距離はどんどんと近付いていく。やがて、暗闇から一面の白い壁が浮かびあがった。その中央部分には重々しい鉄扉が取り付けられている。

 どうやら彼女は目的地にたどり着いたらしい。

二人の距離は、もはや互いが触れ合えるところまで縮まっていた。拓は立ち止まり、壁と向き合う彼女の背をじっと見つめた。その背中は折れそうなほど華奢で、幻のように儚げだったが、そこにあるだけで何かを語りかけてきそうな、不思議な存在感を持っていた。

 拓が彼女のその存在感に圧倒されたかのように、その場でなにも出来ずにいると、ふいに彼女がくるりと身を翻し、その全貌が明らかになった。

 切り揃えた前髪の下には、黒々とした大きな目が覗いている。その他のパーツは目ほどは主張していないが、すっきりと整っており、あるべきところにきちんと収まっている。決して美人ではないが、思わず魅入ってしまう容姿だ。

 束の間、二人は見つめ合う。

 彼女が柔らかな笑みを零した。春の芽吹きを思わせる穏やかな笑みだ。

そして、彼女が口を開く。

「瀬倉拓さん、よい恋愛を」

気がつけば、拓は鉄扉を開けており、その先からは眩いばかりの光が溢れ出していた。


*


 暖かな風が優しく吹き付ける。

 澄みきった青空には微かに夕暮れの色が混じっていて不思議なグラデーションを帯びている。

 拓は直感した。これはあの時の情景だと。鉄扉を開けた先は非常用階段に繋がっていた。折り返しの階段は一階から三階まで繋がっており、拓は三階の踊り場に立っていた。

 この階段を降りた、二階の踊り場に春乃が待っている。

 夏の予感を感じさせる6月の夕暮れどき、拓は春乃を呼び出し、その想いを伝えることを決めたのだ。

 拓は衣服に違和感を覚えた。見ると、いつのまにか学生服に身を包んでいた。袖から覗く両手は、いつもよりも小さく、ほっそりとしている。

 拓は高校時代の姿に立ち戻っていた。

 その時、少女の声が蘇った。

『瀬倉拓さん、よい告白を』

―――そうか、そういうことなのか。

 拓は思わず、ふっと笑みを零した。

―――直接自分の口から言え、ということなのか。

 思えば、これまでの現象はあくまで、傍観者としての立ち位置だった。

 なぜだろうか?それは恐らくだが、拓に当時の気持ちを思い出させるという意図があったのだ。事実、拓は当時の青臭くも、まっすぐな春乃への気持ちを思い出し、今の自分の過ちを自覚することが出来た。原点に帰ることで、未来への糸口を見つけることが出来たのだ。そして、今の拓に残された唯一のやるべき事。それは、自らが実際に行動に移すことである。過ちを認め、春乃と誠心誠意、この先について話し合うことなのだ。

 これから始まる行為は、それを自覚させるための儀式のように拓は感じた。

「受けて立とうじゃないか」拓は呟いた。

 軽くなった体で、階段を降りる。鉄製のステップは降りる度にカンカンと小気味のいい音を鳴らした。遠くで野球部の掛け声と金属音が鳴る。吹奏楽部のサックスの音がする。不思議と騒々しくはなかった。当たり前の日常の音だった。

 二階と三階の間にある踊り場を折り返すと、二階の扉の前でぼんやりと外の風景を眺めている女生徒がいた。

 春乃だった。

 拓がゆっくりとその背中に近付くと、気配に気がついたのか、春乃がこちらを向いて冗談めかしく言った。

『人を呼び出しといて遅れてくるなんて、いい根性してんね』

 春乃はいたずらっぽく笑って見せた。

その瞬間、心臓がドクドクと激しく脈打った。答えは決まっているはずなのに、いざ春乃を目の前にすると、どうしようもなく緊張してしまう自分に、拓は困惑した。

「ああ…、ごめんごめん…」

 絞り出すように、言葉を出した。

『はは、謝ってやんの』春乃が笑う。『あたしもさっき来たばっかりだから、今のは冗談』

 つかのま、二人の間を沈黙が満たす。

拓は二の句が継げずにいた。自分は当時、春乃にどんな言葉を投げかけたのか、記憶を掘り起こしてみても、当時の情景が蘇るばかりで、無声映画のようにそこには台詞が生じない。

『それで何の用?』春乃が怪訝そうな顔をする。『こんな所に呼び出してさ』

 言葉が出ない。背中に嫌なものが伝った。

 このままでは何も出来ないまま終わってしまう。これでは昨夜の二の舞になってしまう。脳裏に昨夜の光景が浮かび上がる。春乃は拓の言葉を、目を赤くはらして待っている。その期待に拓は応えなかった。応えられなかった。また同じことを繰り返すのか?拓は自分に問いかけた。

 断じて否だ。

 その時、口が勝手に動き出した。


「きっ、君のことが好きだなんだ!」


「どうしようもなく!」


 春乃がポカンとした顔をしている。拓は続ける。

「誰のものにもなって欲しくないんだ」

「俺だけを見てほしい!」

あまりにも無様で、独占欲にまみれ、短絡的な言葉だった。だが―――

「だから!」

「俺と…、付き合ってくれ!」

 それは一切の飾りがない、むき出しの心の叫びだった。

 波が引くように、周囲から日常の音が消え去った。この時この場所だけが、世界から切り離されていた。

 切り離された世界で、二人は見つめ合う。

 拓は、矢継ぎ早に言葉を紡いだせいで、肩で息をしている。その様子を見る春乃の目は、まるで街中で野生動物でも見つけたような、驚きの色が宿っている。

 永遠にも似た時間が二人の間を流れた。

初夏の風が春乃の柔らかな髪を優しく撫でつけ、陽光はその黒髪を明るく染め上げている。その姿は遠い日の記憶のように、儚げだ。

 ふと、春乃の目に意思が戻った。

それと呼応するように、周囲が音を取り戻した。運動部の声援、金属音、吹奏楽器の甲高い音、生徒の話し声。

 二人の世界が元の世界と溶け合う。

 春乃は考え込むように俯いている。その表情を、拓は見ることが出来ない。

いたずらに時間が過ぎる。痺れを切らして、拓が声をかけようとした。その時。

『ふふっ』春乃が声を漏らした。そして―――

『あはは!なにその告白!』

 盛大な笑い声を上げた。

 拓は呆然とその様子を見た。何が起こったのか、状況が飲み込めなかった。やがて、春乃はひとしきり笑い終えると、拓を見て言った。

『びっくりするくらい自分勝手な告白だね』困ったように笑った。

『でも…』


『すごく響いたよ』


花のように、儚げで愛おしい笑顔で、春乃は言った。

―――ああ、そうか。

 拓は、その笑顔見ながら思った。

―――おれは、この笑顔に惚れたんだ。


 瀬倉拓は非常階段のステップに腰を下ろしていた。その表情は長編映画を見終えた直後のように晴れやかで適度な疲労感を湛えている。

 春乃と交際を始めて間もないころ、告白を受け入れた理由を、春乃に尋ねたことを思い出した。

 そのとき春乃は少しだけ考えたあとに、こう言った。

『理由はどうあれ、拓の本音を聞かせてくれたのが嬉しかったからかな』

 拓は告白に至るまでに、一生分かと思うくらい悩んだ。悩んで悩んで悩みぬいた結果、拓がたどり着いた結論は、全ての懸念事項を棚上げして、今の自分の率直な想いを伝えることだった。見ようによっては開き直りとも取れるかもしれない。だが、それが拓の考えた最良の選択で、実際にその選択は、きっちりと春乃の心に届いたのだ。

 昨夜の出来事も同じことではないだろうか?拓はそう思う。

 あの時の拓は、目の前に山積する懸念事項に囚われて、自分の本心を春乃に伝えることが出来なかった。春乃が本当に聞きたかったのは、その本心だったのではないだろうか?口先だけの結婚の意思表示ではなく、この場所で告白したときのように、無様でも拓の偽らざる言葉をぶつけるべきだったのではないだろうか。

東の空に目を遣ると、わずかに白んでいた。もうすぐそこまで朝がやって来ている。

拓は立ち上がった。その顔は何かの決意に満ちている。

「さ、家に帰るか!」

拓は勢いよく階段を駆け降りた。彼にはまだやるべきことが残っている。


*


 一週間分の疲れが溜まっているはずなのに、相場春乃はなかなか寝付けずにいた。

カーテンの隙間から見える景色はいつの間にか僅かに白んでおり、新しい一日の訪れを知らせてくる。

 結局、彼は帰って来なかった。

 おそらく健二の家にでもいるのだろう。携帯が繋がらなかった事は気掛かりだが、彼に限って大事はないはずだ。

 春乃は寝返りを打ち、再び眠りに着こうとする。一人で横たわるセミダブルベットは実際の面積よりもかなり広く感じられた。

 昨夜は久しぶりに大喧嘩をしてしまった。小さないざこざこそ、過去に何度もあったが、こうも大規模なものは、そうそうない。

 最近の拓は、いつに増して塞ぎ込みがちだ。元々、多くを語らない性格の持ち主だが、それを踏まえても普通の状態ではない。

 原因は明白だ。どうやら職場環境がかなり悪いらしいのだ。

 愚痴の一つや二つ、零してくれても構わないのだけど、彼の性格がそれを許してくれないみたいだ。

 仕方がないから、愚痴を聞く代わりに、最近は彼の身の回りの雑事を、それとなくフォローするようにしている。私の職場は、拓のそれほど厳しい所ではないので、日々の生活にある程度の余裕はある。彼が仕事以外のことに気を遣わぬように、家事や人付き合いは、私が率先して行うようにしてきた。

 適材適所、足りない部分を補い生きていくことが、家族になることなのだと信じていた。

 昨日の一件も、付き合いの悪い彼を非難しようなど、そんなつもりは毛頭なかった。ただ、一年間の共同生活の中でじわじわと溜まってきた不満が、知らず知らずのうちに口から出てきたにすぎない。

 思えばあの時、素直に謝っていれば良かった。それが出来なかった私は、拓からの非難に、ついかっとなって反論をしてしまったのだ。

 それが開始の合図だった。

 次の瞬間には、川が決壊してしまうように、互いの口から不満の言葉が溢れ出した。自分の意思とは別の部分で言葉が吐き出される。拓も同じようだった。そして、口論が熱を帯びる中、出し抜けに拓が放った一言で、私は平常心を見失うことになる。

『結婚する見通しも立ってない状況で、色々と言ってくるのは止めてくれ』

 その一言に、体の奧の方がにわかに沸騰する心地がした。

 だとすれば、この一年間の同棲は一体何だったのか。

 自分たちの結婚はそんなに遠いものなのか。

 私がいつ結婚について色々といったのか。

 疑問が頭の中に次々と浮かび上がり、思考する余裕を奪っていった。それでも必死に頭の中を整理して、平静を保とうとする。暖房もつけていないのに、やけに体が火照っていた。その火照りの正体が怒りだということは、後になって知った。

口から何らかの言葉が吐き出された。その事実を、私は客観的に観測する。私の意思とは別の何かが、私を勝手に操作している。

唇と舌が、言葉を紡ぐために滑らかな挙動をしている。私は紡がれる言葉が、鼓膜を揺らす瞬間をじっと待つ。

 そこから先の記憶は、あまり、無い。

 何度か言い争いをしたかと思うと、いつのまにか拓は家を飛び出していた。一人になった私の心には重く垂れこめる虚しさだけが残った。私の口から放たれたはずの言葉は記憶から抜け落ち、ただ、ひどく冷たい感触だけが耳から伝わってきた。

 程度の差こそあれ、拓との喧嘩はいつも同じような感じになる。どちらかの失言が一方の逆鱗に触れ、そこから口論に発展し、どちらかのフェードアウトで終結する。後々になって確認してみると、原因たる発言も当人の言葉足らずや聞き手の勘違いがほとんどなので、なんともくだらない話だ。

 この一件にしても、発言を聞いた瞬間こそ、取り乱してしまったが、よくよく考えてみれば、あの拓があんな台詞を、額面通りの意味で言えるわけがないのだ。

 昔っから、うだうだと一人で考え込んでは、突拍子のない行動や発言をする彼のことだ。今回のことも、彼なりの考えがあってのものだろう。

 ちゃんと考えれば分かることなのに、私はすぐにかっとなって―――

「本当に、私たちって成長しないなぁ」

 一人呟いてベッドから起き上がる。眠るのはもう諦めた。窓の外では、小鳥のさえずりが間断なく朝の静寂に響き渡っている。

 春乃は気だるさの残る体を引きずり、台所に向かう。電気ポットで湯を沸かしている間に、マグカップにインスタントコーヒーの粉を入れる。フライパンに火をかけると、冷蔵庫からベーコンと卵を取り出し朝食の準備をする。

「あっ…」春乃が調理の手を止める

 いつもの流れで、二人分の朝食を準備しそうになっていた。

―――あいつ、いつ帰ってくるのかな?

 出しすぎた食材を片付けながら、春乃は拓のことを想った。

 拓が帰ってきたら、まずはちゃんと謝ろう。そのあとに、きちんとこの先のことを話し合ってみよう。それは結婚のことなんかではなくて、もっと根本的な私たちの関係についての話。きっと、彼は今、何か大きなものに押し潰されようとしている。そして、一人で必死に抗っている。今までは、そういった問題は全て彼が一人で対処していた。それを彼が望んでいるように思えたし、私としても積極的には立ち入ろうとしなかった。

 だが、このままではいられない。

 これから先、ずっと未来まで、私は彼と一緒に生きるのだ。あらゆる物事を共有することになるだろう。時間、お金、住居、食事、悲哀、歓喜。そして、直面する問題―――拓の問題は私の問題でもあるのだ。だから、今のままではいられない。

 焼きあがった目玉焼きとコーヒーをリビングテーブルに置き、カーテンをさっと開ける。せき止めていた朝の光が一斉に部屋に降り注ぎ、春乃は目を細めた。

 いい天気である。

 彼が帰ってきたら、まずは二人で二度寝をしよう。昼過ぎに起きて少し遅めの昼食をとりに行こう。彼が行きたがっていたインドカレー屋さんがいい。きっと喜ぶはずだ。そして、家に帰って一息ついたら、これからのことを話し合ってみよう。

 真面目で責任感が強いけど、寡黙で言葉足らずで不器用。そんな彼を精一杯支えて、愛していくのだ。

 そうすれば、いつかきっと彼は応えてくれる。

 そう、十年前のあの時のように―――

 外からは聞きなれた足音がこちらに近づいてくる。

 彼は何を言ってくるかな。

 

 近づく足音を聞きながら、春乃は静かに微笑んだ。


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いつかの記憶 @shiroari310

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