第2話

 グランドの中央付近に、拓は一人佇んでいる。

 その目は教室棟をじっと見据えているのだが、どこかを注視しているわけでは

ない。校舎全体を余すことなく画角に収めるように、漠然とした視野で校舎を捉えて

いる。

 ここに至るまで、拓は学生時代の記憶を辿りながら、教室棟を隅々まで散策して

いた。

 廊下の手すりにかけられたカラカラの雑巾、使い古されて上手く閉まらない

ロッカー、黒板に書いてある謎の落書き。当時はなんとも思わなかった物たちが、今となっては貴重な青春の名残に見える。

 まるでワインのように、当時の思い出が熟成されているみたいだ。

 不思議だったのが、教室の状態である。

 どの教室も施錠されていなかったのだ。その上、どの教室にも整然と机が並べられており、廃校にも関わらず、しっかりと教室としての体裁を保たれていたのだ。掃除などされているはずがないのに、なぜか埃っぽくも、かび臭くもない。朝になって生徒たちが登校して来たとしても、何らおかしくない状態だった。

「廃校ではあるが、別のことに使われているのではないか?」

 そんな考えが頭をよぎったが、あえて深くは考えないようにした。

 どのみち、無断で建物に入ってしまった事実は変わらない。今さらどうこうしても結果は同じだと思った。ここまで来たら、もはや楽しんだ方が得だ。そんな、本来の拓の性格からでは考えられない、場当たり的な結論に帰着して、拓は校舎の散策を楽しんだ。そして、一通り校舎を見て回ったのち、最後にグランドから校舎を見てみたいと思い立ったのである。

 そして現在、拓は広くてまっさらな空間に、ぽつんと佇んでいる。

 ―――こんなもんか。

 視界いっぱいに聳える教室棟を前にして、拓は意外なほどに何の感慨も湧かずにいた。思い出の熟成が足りなかったからか、はたまた帰宅部ゆえにグランドから校舎を見る機会が、そもそも無かったからだろうか。理由は分からない。目の前のクリーム色の建物は、それ以上にもそれ以下にも見えず、ただ、そこにあるという事実だけを拓に語りかけてきた。

 それでも、拓は目の前の景色から何かを感じ取ろうと、校舎の外観をじっと観察した。最初に目覚めた教室、夜景を眺めていた屋上、散策して回った教室の数々。

今までの道程を確かめるように、つぶさに校舎を観察した。けれども結果は変わらない。無機質で冷たい建物が、目の前にあるだけだ。

 やがて、徐々に平衡感覚が狂い始めていることに、拓は気付いた。十数メートル先にある校舎がどんどんこちらに近付いて来る錯覚に陥る。地面も、左右の空間も、それに呼応するように、拓を中心にその距離を縮めて来た。あまりにも同じ物を見すぎたからだろうか。拓は目をつぶり、頭を振った。

 次に目を開けた時には、視界は正常さを取り戻していた。

「…帰ろう」

 自分に言い聞かせるように、あえて拓は言葉に出すと、グランドの土を蹴り、ゆっくりと歩き始めた。

 この辺りが潮時かと思った。

 校舎の散策は、春乃とのいざこざで荒みきった拓の心を十分に癒してくれた。遠い昔の青春の面影がどこからか郷愁を連れてきて、優しくも時に厳しく、拓の心のささくれを取り除いてくれた。最後こそ、見当外れだったが、それまでに得たものを考えると、この場所に迷い込んだ意味は十分にあったように思える。

「現実から目を背けるのはここまでだ」とばかりに、自宅に向けて拓は歩を進める。

 校舎の西側、つまりグランドから見て左手には敷地の四分の一ほどを占める体育館がひっそりと夜の底に鎮座している。その体育館と校舎の間を通り抜ければ、そのまま正門へとたどり着くことが出来るはずだ。体育館と教室棟は吹きさらしの渡り廊下で繋がっており、渡り廊下に沿うようにして腰の高さくらいの塀が伸びている。その一部分だけ、通り抜けが出来るように塀が取り払われて、アーチ状になっていた。そこから体育館と校舎の間を通り抜けられるはずだ。当然のように、そこに灯りはなく、アーチの先は黒々とした闇に満たされている。まるで、異世界に通ずるトンネルのようにも見えて、少々不気味な印象がした。

 拓は必要以上にそのことについて考えないように、隣にある教室棟を見ながら歩いた。

 教室棟一階の西端は、やや体育館側に建物が突出している。その部分は生徒用の昇降口になっており、拓のいるグランド側とその反対側に、それぞれ両開きの扉が何枚か連なっている。登校時とグランド使用時で使い分ける為である。拓の方から確認出来る昇降口の扉はきっちりと閉じられていた。その先にある下足置き場はすっぽりと闇に包まれており、中の様子を見ることは出来ない。

 ふと、昇降口の右隣にある水飲み場が拓の目に入った。

 その水飲み場はグランドの片隅にひっそりと佇んでいた。石材をそのまま削ったような無骨なフォルムには蛇口が三つほどついている。体育の授業終わりによく使用していた水飲み場だ。校舎の外観を見るよりは懐かしさを感じる場所だが、特に足を止めるほどの思い出がある場所でもない。

 気に留めず視線を外そうとする。

 しかし、そこで奇妙なことが起こった。

 水飲み場から視線が外せないのだ。いや、厳密に言えば外したくないのだ。

 最初に目にしたときは、特に何も感じなかった水飲み場。そのまま注視していると、段々と波濤のように正体不明の既視感、あるいは懐かしさが押し寄せてくる。それは屋上で落書きを発見したときと同様に、拓の心を激しく揺さぶった。

 ―――ここで何かあったのか?

 拓はそう思う。しかし、その、肝心な何かが思い出せない。

 束の間、拓は足を止めて、その正体を探ろうとじっと水飲み場を見据えた。

 ちょうどその時だった。

 視界が強い光で覆われた。

 ―――なんだこの光は?

 突如視界を奪われた動揺が、正常な思考を妨げる。心臓の鼓動がバクバクと高鳴る。額に嫌な汗が伝う。全身の筋肉は余すことなく硬直し、まさに全身で緊張を表していた。

 その発光は時間にして一秒にも満たなかったが、拓とっては何秒何十秒と異様に長く感じられた。

 やがて、まぶたの裏からでも感じた強い光は徐々に力を弱め、深呼吸の後に拓は恐る恐る目を開けた。

 ぼやけた視界がピントの合ったレンズを探すかのように瞬きの度に像を結んでいく。十回ほど瞬きを繰り返した後、ようやく元通りの視界が戻ってきた。だが、そこで拓は、戻った視界に強烈な違和感を覚えた。

 視界が妙に明るいのだ。

 朝の日差しや街灯の明かりなどの明るさの類ではない。なんというか、カメラの修正機能で明度を調整したような、そもそもの見え方の違いのようなものを感じるのだ。

 ―――これは、一体どういうことだ?

 拓は軽い混乱状態に陥っていた。妙に心惹かれる水飲み場、突如として目の前を覆った光、それに伴う視界の違和感。怒涛のような事象の数々に心の整理が全く追いつかなかった。

 それでも懸命に自らの落ち着かせようと試みるが、次に水飲み場に広がる光景を目の当たりにしたとき、その努力はもろくも崩れ去ることになる。

 水飲み場の前に誰かがいる。

 全身の毛穴が開く心地がした。誰だ。いつの間に現れたのか。矢継ぎ早に思考が脳内を流れる。混乱した精神は駄目押しとばかりに、より深みへと落ち込んでいく。もはや、呆然と目の前の事象を受入れることしか、今の拓に出来ることは残っていなかった。

 その人物はこちらに背を向け、手を洗っているのか、水飲み場の方を向いていた。背は一七〇センチに届かないくらいで、体型はほっそりとして骨ばっている。頭髪は坊主が伸びきったようないがぐり頭という出で立ちで、その後ろ姿を見ただけでも、この者がまだ幼さを残す少年ということが想像出来た。そして、その少年を更に観察してみると、拓は驚くべきことに気が付いた。

 その少年は、芦ヶ丘高校の体操服を着ているのだ。

 芦ヶ丘高校の体操服は白地のシャツに紺色のハーフパンツで構成されている。上下ともに側面に特徴的な三本線が走っており、線の色は学年ごとに赤、青、黄と分かれている。目の前の少年が着ているものは、奇しくも拓が在学時に着用していた赤の三本ラインが入っているもので、そのおかげですぐに少年の服装が芦ヶ丘高校の体操服と分かったのである。

 だが、着ている服が分かったところで、何の解決にもならない。そもそも、少年がこの場所にいる理由が全く分からないのだ。『数年前に廃校した高校の体操服』を着て、『年端もいかぬ少年』が、『人目を憚り深夜』に、わざわざこの場にいる、正当な理由などあるはずがない。その上、少年はあの奇妙な光の後に突如として目の前に現れたのだ。

 あまり考えたくはないが、生身の人間かどうかも怪しく思える。

 拓は、つい先ほどまでの、浮かれ切っていた自分をひっぱたきたい衝動にかられた。

 ―――あの時、素直に帰っていれば良かったんだ。

 思い出されるのは、教室棟三階での出来事だった。あの時、屋上に行かずに帰路についていれば良かった。現実から逃げるべきではなかったのだ。だが後悔しても遅い。避けようもない距離にまで、トラブルは近付いて来ていた。

 いっそのこと、声を掛けてみようか。そんな考えがよぎる。意外と陽気な返事が来るかもしれない。「友達と肝試しに来てるんだよ」そんな微笑ましい理由で、この少年はこの場所にいるのかもしれないのだ。

 目の前の存在を肯定的に捉えようとするが、それを邪魔するのは、視界に広がるこの奇妙な明るさだ。強烈な発光をきっかけにもたらされた明るさは、拓に非日常を予感させた。少年に話しかけたが最後、後戻り出来ない程の非日常の深みに迷い込んで、二度と戻れないかもしれない。そんな想像が膨らみ、拓は次の行動に移れずにいた。

 束の間、次に自分が取るべき行動を思案する―――数秒と経たずしてすぐに結論が出た。

 拓は少年に気付かれないように、この場を離れることにした。

 少年との距離は目測でおおよそ五メートル。幸いにもグランドを背にして、少年は動く様子がない。この距離ならば、ゆっくりと移動すれば少年に気付かれずにやり過ごせるかもしれない。すぐさま拓は行動に移った。

 グランドの砂利が音を立てないように、爪先からじんわりと足全体を接地させていくように足を踏み出す。普段とは比べ物にならないほど、一歩進むことに全力を尽くした。少年の挙動にも細心の注意を払う。少しの変化も見逃すまいと、瞬きも忘れて拓は少年の後ろ姿を観察した。緊迫した時間がその場を流れる。

 体育館までの道のりが果てしなく遠く感じた。拓は今にもポッキリと折れそうな心を、なけなしの気力でなんとか保ちつつ、一歩また一歩、僅かではあるが確実に前に進んでいった。そして、ようやくグランドの端まで辿り着くと、ほっと胸を撫で下ろした。目の前には昇降口がある。目的地はもうすぐだった。

 そうして、拓がささやかな希望を抱いた、ちょうどその時だった。

 少年の顔が、ゆっくりと、拓の方を向いた。

 拓の全身が見えない針に刺されたように総毛立った。

 フィクションではこういうとき、叫び声をあげるのが常だが、実際は叫び声はおろか、まともな発声も出来ない。ただ、息を呑み、身を岩のように固まらせて相手の出方を窺うばかりだ。これがリアルな人間の生存本能なのかもしれない。

 少年はじっとこちらを見ている。拓もその視線に応じるようにして、視線を交わらせ、二人は見つめ合った。沈黙の時間が流れる。少年は危害を加える様子も見せずに、ただ、拓の方をじっと見つめている―――そこで拓は少年の視線に違和感を覚えた。何かがおかしい。そう思い、改めて少年を観察すると、すぐにその違和感の正体に気が付いた。

 少年が見つめているのは、どうやら拓ではないようなのである。

 よくよく観察してみると、その視線は拓を飛び越え、はるか後方を見ている。まるで、拓の存在を認識していないかのように、その目は拓に焦点を定めていない。

 自分を見ていないという事実に、一時の安心感を得る拓だったが、すぐに、少年が見つめる先の存在が気にかかった。恐る恐る後方を振り返ってみる。

 すると、振り向きざまに何者かが拓の視界を横切った。

 その者は吸い込まれるように少年の元へと駆け寄っていった。どうやら少年の視線の先にいたのは、この人物らしい。少年と同様に赤ラインの入った体操服に身を包んで、体型は少年より頭一つ小柄で、体は滑らかな曲線を描いている。形の良いボブカットは思わず撫でたくなる不思議な魅力があった。その後ろ姿を見ただけでも、その人物が可憐な少女であることが容易に想像出来る。

 相対する少年少女は、何事か会話をしている。話の内容までは聞き取れなかった。少女は身振り手振り、元気いっぱいに話しかけているようだが、少年の方はどこか呆然と少女の話を聞いているように見える。

 いつのまにか、体を支配する緊張感はどこかへ消えていた。拓の中に渦巻いていた恐怖や混乱も、きれいさっぱり無くなっていた。何故か。それは二人の会話に強く興味を惹かれたからに他ならない。その興味が拓の心から一切の無駄な感情を取り去ったのである。そして、水飲み場を初めて目にした時の既視感。その根源が目の前の少年少女にあるように思えて仕方ないのである。

 気付けば、拓は二人の元へゆっくりと歩み寄っていた。目の前の二人は、近付こうとする拓の存在を全く意に介さず会話を続けている。まるで二人だけが別世界の住民のようだった。やがて、二人との距離が手に届きそうな範囲にまで縮まる。

『瀬倉くんって、野球が上手なんだね』

 出し抜けに、少女の声が聞こえた。その瞬間、二人を見る目が一転した。

 二人の顔をいま一度確認してみる。拓はあまり驚愕に腰を抜かしそうになった。

 目の前の二人は、まだ幼さの残る拓と春乃だったのだ。

 二人は会話が会話を続ける。

『別に上手いわけじゃないよ。たまたま中学校まで野球部だったから、他の人より動けるだけさ』

 少年姿の拓が言う。

『またまたご謙遜を。野球部の男子より上手に見えたよ』

 少女の春乃が続ける。

『そんなことないって。野球部の奴らはお遊び半分でやってたからね。毎日野球漬けじゃあ、手も抜きたくなるだろうよ』

『ふうん、そんなもんかね』

『ま、いいや。それよりさ、今度暇なとき野球教えてよ。あたし、前から興味あったんだ』

『え? 別にいいけど…。えっと』

『相場春乃だよ。ひどいなあ、同じクラスなのに』

『ごめんごめん、相場さんだったね。それで具体的に何を知りたいの?』

『特に決めてないんだけど…。うーん、そうだなあ…』

『あ、キャッチボールは?瀬倉くん、球投げるの速かったし』

『キャッチボールね、いいよ』

『それじゃあ、また相場さんの暇なときに声かけてよ。ぼくは大体暇だからさ』

『ありがと! じゃあ、今週の金曜日の放課後は?』

『金曜日? 随分早いね。まあ、別に予定もないから問題ないけど…』

『鉄は熱いうちに叩け、ってね。じゃあ、金曜の放課後にまた声かけるから!』

 バイバイと付け加えて、春乃は水飲み場を後にした。再び拓とすれ違い、数メートルほど先に行くと、春乃は突如として姿を消した。残された二人の拓はその消えた先をぼんやりと眺めている。

 そして、再び視界が強い光に包まれた。


 *


 拓が再び目を開けたとき、周囲は元通りの姿を取り戻していた。異様な明るさは消え去り、月の朧ろげな光に校舎が浮かび上がっている。水飲み場には既に人影はなく、拓はこの学校でまた一人きりとなった。

 周囲の状況をひとしきり確認したのち、拓は堰を切ったようにその場に座り込んだ。

 ―――今のは一体なんだったんだ?

 棚上げしていた感情や疲れが一気に自身に流れ込む感覚がした。体は借り物のように自由が効かず、心は色々な感情がないまぜになって整理がつかない。

 拓は身に起きた出来事を振り返ることにした。

 あの二人のやりとり―――あれは高校一年生のとき、春乃と初めて言葉を交わしたときの会話の内容に酷似している。いや、そのものといっても差し支えないだろう。

 高校一年の春、体育の授業では軟式野球が行われていた。そこで拓は中学までの部活の経験を活かして、投打に渡る大活躍をした。たまたまその活躍を見た春乃は、教室での拓とのギャップに驚き、授業終わりの思わず声を掛けてしまったのだと、いつだったか春乃が話していた。そして、その場の会話の流れで二人は放課後にキャッチボールをすることになり、以降、ふたりは交友を深めていったのだ。

 ―――だとすれば、あれは過去の記憶のようなものなのか?

 だれかのイタズラという線も捨てきれないが、先ほど周囲を確認した限りでは、特に不審な点は見当たらなかった。そもそもこの一連の出来事が人の手による演出とは考えられない。それほど緻密で幻想的で臨場感を感じる光景だったのだ。

 突拍子もない考えだが、あのまばゆい光をきっかけとして、過去の記憶が映像としてフラッシュバックしたのではないだろうか。何かしらの超常的な力によって―――

 そう考えると、心の中に妙にしっくりとくるものを感じた。

 拓は誰もいなくなった水飲み場に目を遣る。

 すっかり記憶から抜け落ちていたが、春乃との馴れ初めはあの放課後のキャッチボールだったのだ。

 どこか不思議な魅力を持った女性。

 それが今も昔も拓が抱く、春乃という女性の印象である。特定のグループに属すことはなく、その時々の「彼女がいたい場所」に彼女はいる。かといって、ジメジメとした学生時代の女社会の中、孤立することは決してなく。どんなグループにもどんな人物にも、彼女はすんなりと溶け込んでいった。彼女自身が世界の中心かのように、いる場所いる場所が華やいで見えたものだ。

 そんな春乃に、いきなり話しかけられた時は正直どぎまぎした。クラスでも目立たない部類の自分に、話しかけるどころか、名前も憶えていて、更には一緒にキャッチボールをしようなど―――柄にもなく喜んでしまった当時を拓は思い出した。

 今思えば、あの時点で春乃には惹かれていたのだろう。

 当時の拓は、「女子がわざわざ単独で男子に話しかけてくるなんて、どう考えてもその気があるに違いない」と結論づけていた。残念ながら当時の春乃にそこまでの想いはなかったのだが、十年近く経った今、二人は交際していて同棲もしているわけだから、思春期男子の妄想力は侮りがたいものがあるのも確かである。

 先ほどの現象をきっかけに、次々と頭に浮かんでくる当時の記憶や感情に、拓は当惑し、それと同時に嬉しいような、恥ずかしいような、何ともむずがゆい気持ちになった。今の今まで記憶の底に追いやっていた理由が分かるような気がした。しかし、拓は再びこの記憶を忘れようとは思わない。どんな形であれ、春乃との大切な思い出に違いないのだ。いつしか拓は、この一連の不思議な現象に感謝の念を抱いていた。

「…不思議なこともあるもんだな」

 おもむろに拓は言葉を漏らした。この不思議な現象を見せてくれた誰かに聞こえるように、わざとらしく、大きな独り言を発した。当然ながら返答はない。夜の底に聳える校舎に反響するだけだ。

 拓は不思議な感覚にとらわれいた。

 先の現象に思いを巡らし、遠い過去の記憶を掘り起こし先には、得も言えぬ爽快感が待っていた。

 まるで、視力が悪化した人が生まれて初めて眼鏡を掛けて、自らの視力の悪さを認識するかのように、春乃との過去を思い出した拓は、それ以前の世界が如何に霞がかったものであったのかを認識した。そして、それと同時に、新しく拓けた世界の鮮やかさに心奪われてしまったのだ。数時間前までの落ち窪んだあの感情が嘘のようだった。

 拓はこのオセロのように一転した自らの感情の変化に、何者かの意志のようなものを感じざるを得なかった。それほどまでに、拓の感情は負から正に、陰から陽に、鮮やかな転身を遂げたのである。

 そう、あの現象を契機として、だ。

 まるで姿の見えぬ誰かが、『過去を省みなさい』と、拓のことを導いているようである。

 だからこそ、拓は自らをより良い方向に導いてくれたその誰かに、ふとお礼の言葉を言いたくなったのだった。

 直接的な感謝の言葉ではなく、あくまで間接的に、「あなたのお気持ちはつたわっていますよ」と、先の言葉に拓は想いを乗せたのである。

 だが、いつにもない爽やかな心地に浸る傍ら、それと同時に心の片隅に一点の陰りがあることにもまた、拓は気が付いていた。

 先ほど目の前に現れた春乃は彼女本来の魅力に満ち溢れていた。太陽のような笑顔に透き通る声、そして凛とした佇まいは、十年経った今でも変わらない。しかし、あどけなさが残る分、過去の春乃の姿は、より純真無垢で、特別に輝いて見えた。

 そんな姿を目の当たりにしたとき、ふと頭の中に数時間前の春乃の姿が浮かび上がった。その姿は、過去の春乃と対照的に冷ややかな表情をして拓を見つめている。そして、次の瞬間には、老婆のように椅子でうなだれている映像に切り替わる。

 ここに来てようやく、拓は事の重大さを自覚した。数時間前の春乃のあの姿は、あの表情は、自分と関わりを持ったが故にもたらされた結果なのだ。もしも自分と関わりを持っていなければ―――付き合わなければ―――春乃は十年前と変わらない、純真無垢で輝きに溢れた、あの素晴らしい姿で今を生きていたのかもしれない。

 一転して、真っ白なブラウスに墨汁をこぼしてしまったかのような、どうしようもない罪悪感に、拓は苛まれた。一点の陰りは途端に広がりを見せ、いつのまにか、拓の心を黒く染めあげていた。

 ―――早く帰らなければ。

 そして、一刻も早く春乃の笑顔を取り戻さなければ。

 それが今の拓に課された最重要のタスクであり、唯一許された権利なのだ。

 拓は立ち上がり、衣服の所々についた砂を払った。大きく伸びをしたのち、当初の目的だった、正門へと通じる体育館横の通路へと歩き出した。

 遠くの方から、木々のざわめきや、車が道路を走る音が聞こえる。周囲の音が妙に騒々しく感じた。あれほどひっそりとした静寂を纏っていた校舎が、もしくは夜の世界が、来るべき夜明けに備えて慌ただしく身支度をしているようである。

 果たして今は何時頃だろうか。正確な時間を調べる術を持たない拓は、おもむろに空を見上げた。少々心もとないが、月の位置で時間を把握しようと試みる。月は頂点をすぎてやや西側に傾いているように見える。東の空に太陽の気配は感じ取れないが、案外、夜明けはすぐそこまで近づいているのかもしれない。

 先ほどの現象は、時間にしてみれば数分程度の出来事のはずだが、なぜか拓には確証が持てなかった。あの空間では、時間という概念が有耶無耶になっていた気がするのだ。極端に時間が早まっているかもしれないし、遅くなっているかもしれない。もしかしたら、そもそも時間自体が存在していないのかもしれない。拓は海外旅行で時差ボケを味わっているような気分がした。月の位置を含めた周囲の状況から判断するに、そこまで時間は経っていないように思えるが、蓋を開いてみたら数日が経過していた。なんて浦島太郎のようなオチがないように祈るばかりだ。まん丸に輝く月を眺めながら、拓はそんな想像をした。やがて再び視線を地上へと戻すと、ちょうど昇降口の前に差し掛かっていた。目的の通路はもうすぐだった。

 なんとなく、昇降口の方を見てみる。

 重々しい両開きのガラス戸は、大きく開け放たれており、その先には黒々とした闇が広がっていた。その様は異世界を彷彿とさせ、おどろおどろしく、心なしかひんやりとした冷気を吐き出しているように思えた。つい先ほどまで、そこに身を置いていたことが信じられなかった。

 ―――なんだ?

 そこでふと、違和感を覚えた。なにかがおかしい。

 いま一度昇降口をじっくり観察してみる。すると、程なくしてその違和感の正体が判明した。

 昇降口の扉が開いているのだ。

 このグランドに辿り着いた時、昇降口の扉は確かに閉じられていた。拓はその様子を、しっかりと目に焼き付けていた。疑いようがない事実だ。もし、それを疑うとなると、拓は自身の記憶を、根底から否定しなければならない。

 だが、現実として、昇降口はその扉を開いている。まるで、元からそうであるかのように、堂々と開け放っている。

 あるいは、元から扉は開いていたのかもしれない。

 先ほど目に焼き付けた光景は、単なる勘違いだった可能性もあるのだ。目の前の確固たる事実に、拓は自らの記憶に対して、段々と自信が持てなくなっていた。

 愕然と、昇降口に広がる暗闇を見遣る。

 すると、暗闇の奥の方で何かが蠢く気配がした。

 その「何か」は、ゆっくりだが確実に、こちらに近付いているようだった。拓はその緩やかな到来を、ただ待つことしか出来なかった。不思議と冷静になれたのは、先の現象を体験したことと無関係ではないだろう。

 やがて、その「何か」は暗闇と月明かりのちょうど境目にいたる。

 すらりとした二本の足が月明かりの元に現れた。その正体は人間のようだ。

 つづいて膝上から紺色のスカートが揺れ動き、ガラス細工のようにほっそりとした両手が見えた。スカートと同じ紺色をした上着の胸もとには、臙脂色のリボンが艶めいていた。ほっそりとした体の輪郭は未成熟さを湛えている。

 そこには学生服を纏った少女が佇んでいた。

 少女は、その姿のほとんどを、月明かりの元に晒しているが、首から上の部分は未だ暗闇に残されている。見えない双眸が瞬きもせず、こちらを覗いている。そんな気がして、拓はなんだか、落ち着かない気持ちになった。

 少女との間に、沈黙の時間が流れる。

 拓に恐怖はない。例えれば、森の中で鹿と邂逅した時と感覚が似ている。互いに敵意がないのは分かるが、目を離すきっかけの無い、一時の張り詰めた空気が両者の間に流れているのだ

 その空気は些細なきっかけで弾ける、酷くもろい代物だ。

 月に雲がかかり、周囲が薄っすらと暗くなる。二人を包む空気が、パチンと音を立てて弾ける感覚がした。

 少女はそれを待っていたとばかりに、スカートを翻し、校舎の中へと走り去っていく。その様子は、雌鹿のように颯爽としていて、鮮やかに、校舎という名の森へと溶け込んでいった。

 そして次の瞬間、拓は走り出していた。行先は正門ではない。少女の消えた校舎の中である。


 *


 利用者を失い、がらんどうになった下足箱の間を抜けて、拓は廊下に出た。教室棟を横一線に突き抜けるその廊下は、相変わらず十分に光を与えられず、端まで見通すことが出来ない。

 少女の行方を追う拓は、闇に消える廊下の先端よりも、随分手前にその姿を発見した。

 少女は左手に連絡通路、右手に二階へと繋がる上り階段のある、十字路に佇んでいた。背中まで伸びた黒髪が、暗闇の中で妖しく艶めいていた。

 拓はほとんど本能的に、校舎へと消えていく少女を追っていた。春乃の損なわれた感情を取り戻すべく、一刻も早い帰宅を決めたのが、つい数分前。こうもころころと信念を変える自分に、ある種の嫌悪感すら覚える。しかし、体は少女を追うことを止められなかった。

 突如現れた少女は、まるで自分を待っていたかのようにも思えた。そして、そのスカート翻す後ろ姿は、次なる不思議な現象へと誘ってくれるような、奇妙な期待感を含んでいた。もしかしたら、自身で思っている以上に、拓は先の現象ような不思議な出来事を欲しているのかもしれない。ちくはぐな自身の行動をどこか俯瞰的に捉えながら、拓はそう思った。

「ちょっと君…」

 立ち止まった少女の背に声を掛ける。返事は無い。代わりに、少女はくるりと右手に90度方向を変えて、足早に階段を登って行った。拓がついてくるのを待っていたかのようであった。

 すぐさまそのあとを追う。階段の登り口にたどり着き見上げると、少女は踊り場を無駄なく折り返して、再び拓の視界から消えていくところだった。翻ったスカートが残像のように見えた。

 わずかな苛立ちを憶えつつ、拓はなおも少女のあとを追う。階段を踏みしめると、膝の関節がきしむ音がして、思わず顔を歪める。それでも我慢して階段を登ってみるが、勢い余って踊り場の壁に激突してしまった。痛む半身を労わりながら、二階フロアを見上げると、少女は右手に折れて、教室棟の廊下へと消えていくところだった。

「待ってくれ!」

 自分でも呆れるくらい、情けない懇願の言葉が口から漏れる。その声は少女には届かない。だれもいない二階フロアに響き渡るばかりだ。

 たかだか数分にも満たない全身運動にもかかわらず、拓は息も絶え絶え、その体は今にも崩れ去りそうだった。自分はまだまだ若者の部類に入る。今の今までそう信じて疑わなかった拓だが、どうしようもなく酸素を欲している今の自分を考えると、その認識は修正せざるを得ない。いくら走り回っても疲れを知らなかった学生時代を思い返しながら、拓は深い溜息をついた。

 少女が待ってくれているのを信じながら、拓は残りの階段を踏みしめるようにゆっくりと登った。二階まで登り終えると、腰に手を当ててゆっくりと二度三度、大きな深呼吸をして、体に十分な酸素を取り込む。そして、気だるさが残る体を引きずりながら、拓は少女の後を追い、十字路を右に折れた。

 少女は、数メートル先で、拓の到着を待っていた。

 よかった、と思わず口元を緩めて、そのまま吸い寄せられるように、少女の元へと歩み寄った。しかし、二人のあいだには磁石のような作用が働いているのか、拓が近づく分、少女はその先へと進んでいった。

 また同じような鬼ごっこが始まるのか、拓の脳裏に先の苦行がよぎった、ちょうどその時だった。

 少女は隣接した教室に、すっと入っていった。


 *


 きっちりと閉められた木製の引き戸の前に、拓は立っていた。引き戸のちょうど顔の高さには正方形に切り取られたガラスがはめられているが、曇りガラスなので、中の様子を伺うことは出来なかった。

 すぐそこに追い求めた少女がいると分かっていても、拓はなかなかその引き戸を開けることが出来なかった。追いついたとて、何か目的があるわけでは無いのだ。ただ、自らの本能的な部分に身を任せたに過ぎないのだから。

 とはいえ、ここまで来ておいて、何もせずに帰るのもどうなのか。

 拓は引き戸の前でぐるぐると思考を巡らせた。そして、二度三度、波打ち際のように揺れ動く思考に身をゆだねたのち、拓が選んだのは、結局、「中に入る」という選択肢だった。

 引き戸に手をかけて体全体を巡らせるように深く呼吸をする。ひんやりとした引手の金属部が、体の一部のようにじんわりと熱を持つ。数秒。心がしじまに満たされる瞬間を感じると、拓は一気に扉を開けた。

「白」

 扉を開いた直後にその一言だけが頭に浮かんだ。

 視界が白一色に塗り尽くされている。自らが目を細めていることに気付いたとき、ようやく拓は、その白色が眩いばかりの光だと認識した。

 溢れんばかりの光の奔流が容赦なく拓の視界を奪う。目を開けるのにも苦労するが、やがて光は徐々にその荒々しいまでの力強さを弱め、それと同時に奪われた視界がにわかに輪郭を帯び始めた。

 教室は不思議な雰囲気に満たされていた。

 窓から覗いているはずの、夜の闇はすっかりと身を潜め、かわりに、穏やかな白色の陽光が教室に差し込んでいる。陽光はまるで液体かのように教室の隅から隅までを等しく満たしていた。窓際のカーテンはゆっくりとはためいており、その様子は春の暖かさを印象づけた。

『休みの日ってなにしてんの?』

 出し抜けに、何者かの声が聞こえてきた。通りの良い男の声だった。拓はその声に、妙な聞き覚えを感じた。

 声の主を探す。教室に視線を巡らせると、その声の主はすぐに見つけることができた。

 その男は教室後方の窓際に佇んでいた。かなり短く刈り取られた坊主頭に学ランという、ひと目で学生だと分かる出で立ちで、陽光に切り取られた男のシルエットは小さく華奢だった。十代のあどけなさが見て取れたが、逆光のため表情は読み取る事は出来ない。

 拓は男の動きをじっくり観察した。今置かれている状況は、先の水飲み場での一件と同様の現象だと思った。同様の現象とすれば、この先、何かしらの展開が見られるに違いない。

 その何かを見落とさないように、拓は男の一挙手一投足に細心の注意を払った。

 男は窓の縁に身を預け、随分とリラックスしているように見える。両手を広げて身振り手振りしている様は、まるで休み時間に級友と談笑しているようだ。周囲には誰もおらず、ここからでは、男が一人で喋っているように見え、少々滑稽に思えた。

 ―――休みの日ってなにしてんの?

 ふと、先ほどの男の言葉が頭によぎった。

 男は質問をしている。それは誰に対してだろうか?

 逆光で切り取られた男のシルエットから、質問相手の行方を想像してみる。体は向かって右手方向に開かれていて、顎を引いた状態で、顔はやや下方向に向けられている。そこから想像するに、どうやら、男はすぐ隣の席を見ているようだった。

 拓は誰もいない隣の席に視線を移した。すると。

 拓の視線に呼応するように、そこに光が生じた。その光は二度三度、短い明滅を繰り返し、ひときわ強い光を最後に放つと、あとには黒々とした影が現れた。

 その影が人のものであることは、容易に想像できた。一方で、光の明滅が脳裏に強く焼きついて、なかなか正確なシルエットの判別をさせてくれない。だが。

『だいたい、バイトかなぁ』

 影から言葉が紡がれた。それは小鳥がさえずるような少女の声、幾度となく聞いた懐かしい声だった。拓は、影の正体を知っている。

 急激に影はシルエットを帯び始める。朧げな輪郭が収束して、滑らかな線を描く。綺麗な丸みを持ったボブカットに、ツンと張り出した肩口、すらりと伸びた背筋―――逆光で仔細は判断できないが、疑いようもなく拓の記憶に残る相場春乃その人だった。

『へえ、バイトしてんだ。』男が続ける。『部活には入らないんだ?』

『部活はねえ、中学で燃え尽きちゃった。吹奏楽やってたんだけどさ』

 もったいないなぁ、と男が呟く。

『春乃ってどこ住みだっけ?』

『白野だよ。ここから電車で二駅先の』

『へえ、結構近場なんだ』

『俺なんか、毎日一時間自転車漕がないといけなくてさ』

 うらやましいよ、と男が笑う。

『じゃあ、バイト先も白野の付近なんだ?』

『そうだよー。駅前のコンビニなんだ』

『ああ、あそこかぁ。今度行ってみよっかな』

『冷やかしは止めてよ?』

 困ったように、春乃が笑う。

 その後も男と春乃の会話は続いた。その内容は、中学時代の話であったり、好きなアーティストだったりと、至ってとりとめのないものだった。そこに何らかの示唆のようなものは感じられない。

 拓は少しだけ意表を突かれた心地だったが、それでも懸命に、二人の学生の会話に耳を傾けた。

 趣味の話、授業の話、クラスメイトの話。会話は縦横無尽に、あちらこちらへと展開されていった。そのどれもが、拓にとっては何の意味も持たないものである。

 やがて、拓の胸中に、わずかな苛立ちが芽生えた。

 はた、とその苛立ちに、疑問を抱く。

 ―――自分はなにに対して苛立っているんだ?

 延々と続くとりとめない会話に痺れを切らし、苛立ちを覚えているのは確かだ。しかし、本当にそれだけなのか?

 いや、恐らくそうではない。

 拓は今一度、自身の心を精査してみる。一つ一つ、見逃しがないよう、丹念に。すると、苛立ちの原因はすぐに特定出来た。

 この苛立ちは、春乃に話しかけているあの男に向けられているのだ。

 拓はその正体が、男に対する嫉妬心であることを自覚した。自己の領域を犯されたかのような、えも言えない不快感が心の底に鎮座しているのだ。それはどれだけ新たな感情を注ぎ込もうとも拭いきれない頑固な汚れと化している。そのことを自覚すると、心の中に、嫌悪感という名の新たな感情が生まれるのを感じた。相反する二つの感情はやがて心の底で緩やかに混ざり合い、深淵の色を拓の心にもたらした。

 醜い独占欲である。だが、裏を返せば、春乃に対する深い愛情でもある。たとえ、どんなに遠い過去の映像でも、春乃が自分以外の異性と仲睦ましげしているのは、拓にとっては耐え難いものだった。

 ―――これは報いなのか?

 拓はそう思った。過去の出来事に対しても嫉妬心を抱くほどの、春乃への深い愛情。それにもかかわらず、拓は彼女を傷つけてしまった。この現象を見せている何者かは、愚かな拓に罰を与えたいのかもしれない。それ程までに、嫉妬心とそれに対する嫌悪感が入り混じった感情は拓の心を強く揺さぶった。拓は自身の感情に不安定さに耐えられず、目をつぶり、俯き、目頭をおさえた。

 思えばここ数年、春乃が自分以外の異性と話しているところを見た記憶がない。もちろん職場では同僚の男性と話しているだろうし、プライベートでも拓が面識のない学生時代の男女グループでたまに集まったりもしている。

 春乃という人間は、拓という一人の男性との関係性だけで構築されているわけではないのだ。

 拓としても、そんなことは重々承知していたし、春乃が自分以外の異性と話していようが、別に責めるつもりもない。他人の人間関係に口を出すことほど、野暮なことはないのだ。

 ただ、その一方で、心のどこかにしこりのようなものが存在していた。春乃の言葉の端々から見える異性との関係―――もちろん、不貞の類では無いのだが―――それを一度認識してしまうと、しこりはその存在をどんどん大きくしていく。拓の心は独占欲の病巣と化していた。

 いつからか、拓はその存在を強く意識せず日々を過ごすようになっていた。同様に、原因たる春乃の交友関係にも、積極的な関わりを持たないようにしてきた。すると、しこりが干し柿のように小さく萎んでいく感覚がして、随分と気分が楽になった。そうやって、拓は自分の感情と折り合いをつけて、春乃との交際を続けていた。しかし。

 目の前には、ある意味では拓が逃げ続けていた事象が、まざまざと展開されている。

 目を逸らすことは簡単だった。この場から去ることも出来る。だが、それでいいのだろうか?拓は自問する。

 ふいに数時間前の春乃の姿が、瞼の裏に浮かんだ。

 ―――そうだ、あの時と同じなんだ。

 あの時も、結婚という選択肢から拓は逃げてしまった。仕事やら世間体やらを勝手に自分の中で言い訳に仕立て上げ、自分のカラに閉じこもり、物事の解決から目を背けてしまったのだ。そして、今、胸に渦巻く嫉妬と嫌悪感にしても、見て見ぬ振りをして自分の内に押し留めているだけで、何の解決にもなっていない。結局、ただそう思い込んでいるだけなのだ。あの時と今、状況は違えど、根本的な原因は全く同じ、拓自身の単なる現実逃避に他ならないのだ。

 「ここで逃げては駄目だ」拓はそう思った。

 向き合わなければならない。根本が同じであれば、ここで逃げることは、今直面している問題からも逃げ出してしまうことと同義に思えた。それだけは避けなければいけない。拓は、目の前での事象と向き合うことに決めた。

 再び目を開ける。

 二人は依然として他愛ない会話続けていた。その様子を見ていると、心が垂れ込めてきた。何度も「これは幻だ」と自分に言い聞かせるが、後ろ向きな感情は、止めどなく溢れてくる。

 二人は見ようによっては、恋仲にあるようにも見えた。そして、一度そう見えてしまうと、もはや二人がそうであるようにしか見えなくなってくる。

 逃げ出したい衝動にかられる。拓はその気持ちを必死に抑える。この険しい山を越えた時、まだ見ぬ新地平が広がっていることを信じて―――

 その時、視界の隅に何者かの気配を感じた。

 気配の先に目を遣る。なんとなくだが、拓はその正体がわかる気がした。

 春乃たちとは対極の廊下側の窓際席。そこには学ラン姿の少年がちょこんと座っていた。文庫本に視線を落とすその少年は、拓の予想の通りの人物だった。

 そこには学生時代の瀬倉拓がいた。

 少年の拓は、文庫本の右ページから左ページへとテンポよく視線を滑らしている。著名な知識人のように悩まし気に本を読みふけっている様は、意外にも堂に入った所作に見えて、拓は少しだけ気恥ずかしくなった。

 この場面における、役者がようやく揃ったようだった。

 これまで、自分がどういう場面を見せられているか、イマイチ判然としていなかった拓だったが、最後の役者の登場によって、ようやくその全貌を知ることが出来た。

 この場面は、高校二年生、春の出来事なのだ。

 当時、春乃とは二年生でも同じクラスになり、拓は浮かれていた。放課後にキャッチボールをする関係は、この時もまだ続いており、春乃への恋心は本人も自覚出来るレベルにまで達していた。もはや、想いは決壊寸前で、速やかに春乃を我が物にしたい衝動にかられていた。だが、一方で、玉砕したときのことを考えると足が竦んで、あと一歩が踏み出せずにいた。いかにも壊れそうな橋を前に、渡るか渡らざるかを逡巡している冒険家のような日々を、この時の拓は過ごしていた。

 春乃と談笑している男。その正体も判明した。この男は親友の健二である。

 健二とは二年生から同じクラスになった。社交的な人柄は昔から変わらず、新しいクラスでもすぐに中心的な存在を勝ち取っていた。春乃との仲も、二人はどこか馬が合うのか、すぐにその距離を縮めていき、新学期が始まって一月と経たずして、今のように二人きりで談笑をするような関係を築いていたのだ。

 このとき、拓はウサギとカメの童話を読んでいるような心持ちになったのを覚えている。自分が一年近く費やして、ようやく築いた地位を、健二はゆうゆうと越えていく。自分が愚鈍な亀に思えて仕方がなかった。

 ただ、拓は行動こそカメであれ、心までカメなわけではない。誰よりも早く春乃との関係を進展させたいと思っている、ウサギの心を持ったカメなのだ。だからこそ、この当時の拓は溢れんばかりの嫉妬と焦りに満ちており、悩まし気な表情も、さもありなんといったところなのである。

 ふいに、少年が文庫本から視線を外した。外した視線の先には、談笑する二人の姿がある。その目は悲哀とも羨望ともとれる、なんとも複雑な色が浮かんでいる。この少年もまた、今の拓と同じ感情を抱いている。

 鏡移しで自らを見ているようだ。(実際そうなのだが)

 ただ一つ異なることがあるとすれは、少年がその感情にしっかりと向き合っている、ということだ。

 痛みを伴う現実を前にして、少年は目を逸らさない。若さゆえの無知、無鉄砲と断じるのは簡単だが、果たしてそれだけだろうか。痛みを知り、それを避けることを教えた老練さは、今の拓に一体何を与えてくれたのだろうか。

 若さは、ただ無謀なだけではない。その内に秘められた「純粋さ」こそ、若さの真価なのだ。そして、その「純粋さ」こそ、今の拓に必要なものでもあるのだ。

 いつしか、拓は過去の自分を心から応援していた。

「がんばれ、お前の想いは必ず報われる」と。

 そして、世界は再び光に包まれた。


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