いつかの記憶

@shiroari310

第1話


 目が覚めたとき、自分がどこかの机にうずくまって寝ていることに、瀬倉拓(せくらたく)はすぐに気づいた。

 頬に固い机の面が押し当てられている。腕は顔を覆うように緩く組まれており、篭った吐息で顔を火照る。対照的に椅子から投げ出された足先はキンと冷え切っていて、ほのかな痛みを感じた。

 ひどく懐かしい気分がした。

 随分前にも同じような体勢で眠りについていた気がする。

 まどろみの中、拓は思考した。大きく深呼吸をすると、机からは微かに木材やインクの匂いがした。その香りは拓の頭の中で一粒の石に変わり、記憶の湖に音を立てて沈んでいった。湖面には波紋が浮かび、湖底に沈殿していた泥は舞い上がった。

 遠くから何の音が聞こえる。静かに息を潜めて耳を澄ますと、その音はいくつもの音の集合体のようだった。拓はピントを合わせるように一つ一つの音を注意深く聞き分けた。リズミカルに何か硬質なものを叩くような音、何かを擦り合わせるような滑らかな音―――

 ふと、どこからか冷たい風が吹き込み、拓は大きく身震いをした。夢と現実の均衡を保っていた天秤が、大きく現実の方向へ傾き、拓は完全なる覚醒を迎えた。


 弾かれたように体を起こすと、拓は忙しなく首を左右に振り、周囲の様子を伺った。起き抜けでなかなか焦点が合わない。僅かな苛立ちを覚えながら乱暴に瞼を擦り、視界を正常な状態に戻そうとする。

 景色は依然ぼやけたままだが、光の具合だけはなんとか把握出来た。周囲は薄暗闇に包まれている。左端から微かな光を感じたが、それが陽光なのか月光なのか、はたまた人工的光なのか、判別がつかなかった。足元の地面の感触や周囲の空気感から察するに、室内にはいるらしい。

半ばやけくそのように何度か間隔の長い瞬きを繰り返すと、ようやく視界が像を結び始めた。

 想像した通りそこは室内だった。

 目の前数メートル先には一面に壁が聳えている。その壁は大部分を長方形の板のようなもので占められていた。「これは黒板か」と拓はすぐにその正体に気づいた。すると、その気付きに呼応するように、周囲の風景が次々に目に入った。

 等間隔で配置された机と椅子の数々。それらより少しだけ背の高い机が黒板のすぐ前に一つだけポツンとある。左手の窓から煌々と月明かりが流れ込み、室内を物悲しく照らしている。

―――ここは…教室か?

 拓は周囲を見渡しながらそう思った。いまいち状況が読み込めなかった。なぜ自分はこんなところにいるのか、ここはどこなのか、今はいつなのか。寝ぼけた頭でどれだけ考えようとも、その答えは出てこない。目を閉じこめかみに指を当てて、集中して記憶を探ろうとする。すると。

ふいに胃の中が暴れる心地がした。

それは急激な吐き気で、拓は思わず天を仰いで右手を口に当てた。口のまで戻ってきた内容物の臭気が鼻腔を通り、色々な物が混じりあった不快な臭いがした。ぎりぎりのところでそれを飲み下し、息を整え、腹を撫でた。すると、ショック療法なのか、朧ろげな記憶が急激に定まっていく気配がした。

 拓はゆっくりと、順序立てて、自らの記憶を振り返ってみることにした。


*


 昨夜、自宅から徒歩十分ほど、数件の居酒屋が軒を連ねる古びた雑居ビルの前で、拓は友人の高良健二(たからけんじ)の到着を待っていた。

 このちょうど一時間前、「これから飲みに行かないか」と健二に電話をかけた。突然の誘いに加え、その日が金曜の夜ということもあり、ダメ元で電話をした拓だったが、意外にも健二はこれを二つ返事で了承し、行きつけの居酒屋があるこの雑居ビルで落ち合うことになった。

 健二は孤独を嫌っている。

拓とは高校からの付き合いだが、当時を思い返しても彼が一人でいる所をあまり見たことがなかった。その性分は社会人になった今でも変わっていないようで、仕事終わりには決まって、同僚を誘って夜の街に繰り出しているらしい。

 そんな彼が、金曜の夜に何の予定も入れていないとは、「珍しいこともあるもんだ」と拓は少しだけ意外に思った。

 程なくして、雑居ビル沿いの歩道から、健二がスマートフォンを弄りながら歩いてきた。

「おい、こっちこっち!」

 拓は健二が気付くように、大きく手を振りながら声をかけると、それに気付いた健二はスマートフォンから目を離し、小走りで拓のもとへと駆け寄ってきた。

「悪い悪い、待った?」

 健二が笑みを浮かべながら言う。「俺も今来たところ」とだけ拓は返事をし、二人は挨拶もそこそこに雑居ビルへと入っていった。今にも止まりそうな古いエレベータで三階まであがり、左に折れて通路を進む。一軒目、二軒目と店を通りすぎ、三軒目の店ののれんをくぐった。

 店内は金曜日の夜だというのに、まばらにしか客がいなかった。

 カウンターの向こうで、禿げ頭のオヤジが真剣な眼差しで、焼き鳥と対峙している。

「オヤジ、二人ね」

 健二がピースサインで人数を伝える。それを見た禿げ頭はこちらを一瞥すると、「どこでもいいよ」とぶっきらぼうに返事をして、焼き鳥に目を戻した。

 二人は座敷の四人掛けテーブルに座った。直後に、店の奥から女将さんが、二人分の突き出しとおしぼりを持ってきた。

「おばちゃん、生二つね」健二がすかさず注文をする。「あと串の十本盛りとたこわさも!」

 はいよ、と女将さんが短い返事をすると、間髪入れずに「串十本一丁!」と威勢のいい注文を禿げ頭に伝えた。そのまま店の奥へと消えていき、すぐに並々注がれた二杯のビールジョッキを持ってきた。

 二人は無言のままをジョッキを合わし、勢いよく黄金色の液体をあおった。

「それで?なにがあったのよ」

 健二がニヤつき顔で問いかけてきた。

「別に。何もないよ。お前と飲みたかっただけさ」

 二口目を含みながら、拓はぶっきらぼうに答えた。

「まぁた、お前は心にも無いことを…」

 かーっと声を上げ、健二はわざとらしく額をぺしりと叩いた。手にしたジョッキはすでに空きつつある。

「いいか?」

 健二が突き出しの枝豆をつまみながら言う。

「おまえが俺を飲みに誘う事なんて滅多にないんだよ。しかも誘うときはたいてい何か悩み事があるときだ」

「なぁ、どうせ酔ったら全部話しちまうんだ」健二はジョッキの残りを一気に飲み干した。「早いとこ吐いちまいな」

 テーブルに乗り出しながら、健二が言った。

 実際のところ、拓はある悩みを抱えてこの場にいた。それもつい一時間前の出来たほやほやの悩みを、だ。だが、その悩みをこの場で健二に打ち明けるつもりはなかった。仮に打ち明けたとして、拓の想像を超えた答えが健二から返ってくるとは考えられないのだ。

「ただ自分の恥を晒すだけなんてまっぴらごめんだ」と、ちびちびビールを飲みながら拓は思った。

今日この場に健二を呼んだのは、胸の中で泥のように溜まっている憂鬱感を忘れたかっただけに過ぎない。仲の良い友人と馬鹿話をしていれば、少しは気が紛れるだろうと考えたのだ。そういう意味では、酒を飲みたかっただけという拓の発言は決して嘘ではなかった。

「さらに言うとだな」健二が続ける。

「その悩みは春乃ちゃんに関わることとみた」

 拓の箸が止まる。健二の一言がブスリと核心を貫いた。

―――なぜ、わかるんだ。

相場春乃(あいばはるの)―――半年前から同棲を始めている拓の恋人だ。二人は高校 で出会い、付き合い、今年で交際期間は十年目になる。無論、高校の同級生である健二との面識もある。

 拓は内心で深いため息をついた。「付き合いが長いのも考えものだな」と思った。

「お前って隠し事下手だよなぁ。ほれ、話してみ」

 拓の動揺を感じ取った健二は、自分の中で確信めいたものを得たようで、自信満々な様子で拓を問いただす。こうなればもはや、健二に言い訳は通じないだろう。

 拓は観念して一時間前の出来事を話すことにした。

 どうせ大したことでもないし、と心の中で宛先不明の言い訳をした。居酒屋の喧騒の中、拓は静かに話し出す。

「いいか、誰にも言うなよ」

どうせ、犬も食わない話だ。


*


 健二との飲み会はその後、日付が変わるまで続いた。

 やはりと言うか、打ち明けた悩みに対する回答は至って凡庸で、拓の想像の範疇を超えることはなかった。しかし、歯に衣着せぬ健二の言動は少しだけ胸を軽くさせ、酒のペースを一層早めさせた。

 一軒目ではビールを二、三杯飲んだ後にキープしていた焼酎ボトルに切り替えた。成人男性二人がかなりのハイペースで飲んでいたこともあり、あっという間にボトルは空になった。すぐに同じ銘柄を注文し、そのボトルの残りが半分ほどになったところで閉店の時間になった。

その時点で解散をしていれば良かったと、今となっては思うのだが、その時の拓は春乃との一件のせいで、そのまま家に帰る気持ちに到底なれなかった。結局、健二に誘われるがままに、同じビルのスナックで飲みなおすことになった。

そこから先の記憶は、曖昧だ。

 断片的な記憶で、拓はスナックのママにしきりに話しかけていた。それが何の話題なのかは分からないが、多分、春乃との一件をママ相談したのだろう。

 健二とはこの店を最後に別れたはずだ。店に入った時点で日付が変わる間近だったので、もう近辺で営業している店はほとんどない。家の方向が正反対の健二とは、ここで解散したに違いない。

 そして、現在、拓はどこかの教室に一人居座っている。

「最悪だ…」

 拓は誰も居ない教室で、天井を見上げ独り呟いた。その言葉は目覚めたら見知らぬ場所にいた理不尽に対しする愚痴でもあり、記憶を無くすまで酒を飲んだ自分自身への非難でもあった。目線は天井に貼られたパネルの一点をみつめている。

 実を言うと、拓が記憶を無くすまで酒を飲んだのは、これで二回目なのである。

 一回目は大学時代にまで話が遡る。随分前の話になるので、拓自身も曖昧にしか覚えていないが、記憶を無くした結果、どういう結末を迎えたかは、鮮明に覚えている。彼は警察に保護されて留置場に入れられたのだ。不運なことに、財布も携帯電話も何処かに落としてしまっており、身分を証明することも助けを呼ぶことも出来ず、留置所から出るまでに相当な時間を要した。あげく身元引受のために両親を呼び寄せるという、とんでもない親不孝を拓はしでかしたのだ。

 それ以来、飲みすぎには注意をしていたのだが―――

 ふと「不法侵入」という言葉が頭をよぎる。

 酔っていたとはいえ、夜の学校に忍び込んでいるのが誰かにバレようものならば、それこそ留置場行きだ。職場に連絡がいき、家族にも連絡がいき、恐らく春乃にも連絡がいくだろう。ことの重大さを認識すると、背中に嫌なものが伝う感じがした。

「ここで呆けている場合じゃない」そう思い、勢いよく席を立つ。すると急にぐらりと天地がひっくり返るような感覚に襲われて、拓は思わず机に手を付いた。

 まだ酔いが醒めていないらしい。

 拓は目をつぶり、揺れる感覚に身をゆだねるように、何度も深呼吸をした。しばらくして目を開けると、心なしか、さっきよりは気分が良くなっている気がした。そして今度はゆっくりと身を起こした。

 まずは今の状況を確認しなければいけない。



 ダークグレーのスーツは拓の仕事着の中でもお気に入りの部類に入るものだ。毎週、少なくとも三日は着用している。長年愛用したゆえに生地はよれよれだ。

 そんなスーツを拓は身に着けている。

 内ポケットに膨らみを感じる。中身を取り出してみると、折り畳み財布とスマートフォンが出てきた。財布を確認すると、カード類も現金もきちんと入っていたので、拓はほっと胸を撫で下ろした。

 一方で、スマートフォンの方は、スイッチを押しても何の反応もなかった。画面は暗闇を映すばかりだ。タイミングが悪いことに充電が切れているらしい。

 ともあれ、貴重品を落としていない事実にひとまず拓は安心した。最悪の事態は避けられたようだ。

 所持品の確認が一通り済むと、拓は窓の方向に歩いて行った。窓からの景色を見れば、今いる場所のことが、何か分かるかもしれない。

 窓の縁に手をかけ、外の景色を確認する。眼下には月明かりに照らされたグランドがあり、光を反射して青白く色づいているように見える。そこから視線を徐々に上げると、グランドの向こうには黒々とした木々が生い茂っており、更にその先には薄らと街明かりが見えた。位置関係としては、こちらがやや高所にあるらしく、街明かりは、やけに小さい。

 拓はこの景色に既視感を覚えた。

 いま自分か見ている景色に、何故だか強い懐かしさを感じる。その根拠を探すように左右の景色に目を遣った。

 グラウンドの右奥には背の高い野球のバックネットが見える。そのまま手前に視線を移動すると、砲丸投げで使うであろう小さなサークルが建物の近くにあった。その傍らには、何本もの石灰のラインが引かれている。短距離走のレーンだろうか。

 ぐるりと首を回し、今度は左側を見る。今いる建物の一階からグランドを縁取るように渡り廊下が伸びている。その先は、背の低い、豆腐のような飾り気のない建物に繋がっていた。

 あの建物はなんだろう―――一瞬だけ拓は考えたが、その思考はあくまで形式的なもので、すでに自分の中で確信めいた答えがあることには気づいていた。

 そう、あの建物は食堂のはずだ。

 その瞬間、拓は弾かれるように教室の中へ振り返り、何かを求めて視線を忙しなく視線を動かした。やがて、黒板の横の掲示スペースと思わしき場所に何かが貼られているのを見つけると、机をかきわけ、一目散に駆け寄った。

 壁に貼られているのはA4サイズの一枚の紙だった。陽に照らされたせいか、薄茶色の染みが浮かんでいる。月明かりを頼りに、目を凝らし、拓は右上書かれてあるタイトルと思わしき文字を読み取ってみる。

『学校だより 丘陵』

 拓の中の朧げな予感が、確信に変わった。

その掲示物にあるタイトルは紛れもなく、拓の母校である芦ヶ丘(あしがおか)高校のものだった。


*


―――卒業した母校に忍びこんでいたとは…

 もはや自身を非難する気すら失せた。それどころか自らに備わっていた帰巣本能のようなものを褒めてやりたい気分にさえなった。

 今いる場所が数年前に卒業した母校の芦ヶ丘高校だと知り、急に全身の力が抜けた。忍び込んだ場所がよく見知った場所だったという安堵がそうさせたのだろうが、それだけではない。

 芦ヶ丘高校は少し前に廃校になったと聞いている。

 他校への吸収合併が理由とのことだが、詳細は知らないし、さほど興味もない。重要なのは、廃校になっているという事実だ。おそらく、この校舎には電気も水道も既に通っていないし、セキュリティの類も失われている。つまり、誰かに発見されるというリスクが限りなく低いのだ。その事実が拓の心に幾ばくかの余裕を与えた。

 とはいえ、長居は無用だ。

 いくら廃校になっているとは言え、恐らく自治体あたりが、この場所を管理をしているだろうから不法侵入には変わらないはずだ。

こういった廃墟の類は浮浪者や非行少年たちの溜り場になりやすいという話も聞く。不要なトラブルを避けるためにも、早いところ立ち去るべきだ。

 出入り口の引き戸を開けて外に出る。

 教室のこもったような空気と入れ替わるように、ひんやりと澄んだ外の空気が流れ込んできた。

 教室を出ると、そこには左右に延びる廊下があった。その両端は闇に包まれて、奧の方までは見ることが出来ない。廊下を挟んで反対側の窓からは名も知らぬ木々が静かに揺らめいている。窓の形に切り取られた月明かりは等間隔に廊下を照らしている。

 どこか物悲しい風景だった。不思議と怖さは感じなかった。

 拓は母校の建物の構造を、いま一度思い出してみた。

 芦ヶ丘高校の校舎は三階建ての二つの棟で構成されている。教室棟と職員棟だ。前者には一年から三年まで全学年の教室があり、生徒は一日の大半をこの棟で過ごしていた。グラウンドに沿う格好で建てられているため、現在拓がいるのはこの教室棟とみて間違いないだろう。後者には職員室や事務室、図書館などが入っていた。正門に面しており、登校の際には、まずこの職員棟が生徒の目に入ることになる。

二つの校舎は中庭を挟んで並行して建てられている。二棟の両端は各階、連絡通路でつながっており、上空から見ると片仮名の「ロ」に見えるようになっている。外に出るなら正門からがいいだろう。

 拓は頭の中で正門までのルートを素早く描いた。窓からの景色の見え方から察するに、今いる場所は教室棟の真ん中付近で、おそらく三階にいるのだろう。その予想が正しければ、ここから連絡通路を渡って職員棟に行き、一階まで降りると正面玄関がある。そこからだったら正門の目の前まで出られるはずだ。

―――よくもまあ、こんな場所まで来れたもんだ。

 拓は酒に酔った自身の行動力の高さに心底呆れた。

 現在地から正門までは記憶にある限り、結構な距離である。道筋も入り組んでいるし、決して気楽に来られる場所ではない。それを泥酔した状態で、しかも灯りもない真っ暗闇で来るなんて、まさに奇跡のように思える。―――いや、あるいは泥酔した状態だから成し得た所業なのかもしれない。そもそも深夜の廃校なんて、通常の理性が少しでも残っていれば、侵入するという考えすら湧かないだろう。アルコールで理性を吹き飛ばした状態だったからこそ、今、拓はこの非日常に足を踏み入れているのかもしれない。決して褒められたことではないのだが。

 ぼんやりと自らの愚行を省みながら、拓は職員棟へと歩き出す。廊下を左右どちらに進んだとしても、教室棟には移動できるので、なんとなくの感覚で、ひとまず右へと進んだ。

 相変わらず廊下の先には暗闇が佇んで、奥の方まで見通すことができない。だが、どれだけ先に進もうとも、その暗闇は拓を飲み込むことは決してなかった。歩けば歩くほど暗闇を後退する。しばらく歩いて、ふと来た道を振り返ると、そこは暗闇に飲み込まれていた。まるで自分を中心にスポットライトが当たっているようだった。そう思うと少しだけ愉快な気分になった。

 しかし、静かだ。

 一つとして物音がしない。聴こえるのは自分から発せられる息遣いや足音だけだ。それらを除けば辺りは静寂に包まれている。時を刻むことを止めたこの場所においては、自分のような時を刻む者はすべからく異物になるのかもしれない。そんなことを考える拓の心の中は不思議なほど落ち着いていた。

 夜の校舎、暗闇、静寂。ホラーのテンプレートで構成されたような状況に身を置いてなお、拓は微塵の恐怖も感じなかった。年を重ねて恐怖への耐性がついたのか、はたまた酔いで感覚が麻痺しているのか、明確な理由は拓自身にも分からない。だが、窓から差し込む月光。陽光と見紛うほど煌々としたこの光が理由の一端を担っていることだけは、何故か確信が持てた。

 あれやこれやと考えていると、暗闇の中から急に白い壁が顔を出して拓は足を止めた。どうやら校舎の端に着いたらしい。探るようにゆっくり歩いたつもりだったが、想像以上に足早に歩いていたようだ。

 左手には職員棟までの連絡通路が伸びていて、その反対には教室棟の上下階に行く階段がある。

 拓は迷わず左に体を向け、連絡通路へと進んだ。

 一歩、二歩。距離にして一メートルも進んでない地点で、ふと違和感を覚えて拓は歩みを止めた。何かがおかしかった。

 体が妙に重いのだ。

 別に少し無理をすれば歩けない重さではないのだが、なんだか理に反した行いをしているような気分がして、歩き出せない。

 どうしたものかと、その場に立ち尽くす。

 やがて、その感覚が単なる体の重さではないことに、拓は気がついた。

重さと言うよりも、引っ張られているような感覚なのだ。それは決して強い力ではないが、前に進もうという気概をじわじわと削ぎ落すようなものだった。「後ろ髪を引かれる」という言葉を現実で表現するならば、今の感覚がまさにぴったりだ。

 これは超常的な現象なのだろうか?

 はたまた、廃校に蔓延る悪霊たちの仕業なのだろうか?

いや、恐らくそうではない。拓には妙な確信があった。「この現象の原因は自分自身にある」という確信が。

 拓は連絡通路のその先、職員棟をじっと見た。

 このまま進めば、五分と経たずに正門までたどり着ける。更に三十分後には自宅にも帰りつけるはずだ。

 だが、心のどこかでそのまま帰宅することを拒む自分がいる。「もっとここにいたい」と強く思う自分がいる。

 そのことに気が付き、拓は困惑する。

―――おれは一体何を考えているんだ。

 脳裏に数時間前の記憶がちらつく。一人の女性が、じっとこちらを見ている。固く口を閉ざし、その目には涙が滲んでいる。

 女性は春乃だった。

 拓は春乃と相対しているが、何も言葉が出せない。かける言葉が見つからない。二人の間に鉄よりも重く冷たい沈黙が流れる。

 やがて、沈黙に耐えられなくなった拓は、春乃を背に走り去る。春乃の姿はどんどん小さくなってゆく―――拓はこの感覚の正体を理解した。

春乃に対する後悔の念と自身の情けない現実逃避。この二つの要素が、どうしようもなく、拓の家路を邪魔してしまうのだ。

 拓は連絡通路に背を向けて歩き出していた。足取りは嘘のように軽い。

―――今はまだ、春乃の待つ家には帰りたくない


*


 屋上に一陣の風が走った。春先の夜風は時折、骨身に沁みるような冷たさを孕んでいる。拓はジャケットの前ボタンを閉め、体を丸めて、急ごしらえの防寒対策をとった。それだけでも幾分、寒さはましになった。

 拓は三階の階段を昇った先、屋上にいた。

 理由は、特にない。気の向くまま歩いていると、いつの間にか屋上への階段を昇っていたのだ。昔はよく屋上で健二や春乃と昼食をとっていた。もしかしたら、その時の習慣が拓を屋上へと向かわせたのかもしれない。

 屋上への出入り口はなぜか施錠がされていなかった。「なんて杜撰な管理なんだ!」と呆れた拓だったが、今まさに自分は屋上に侵入しようとしていることを思い出し、逆にその杜撰な管理に感謝しながら、屋上へと侵入した。

 数年ぶりに入った屋上は広々として開放感に満ちていた。落下防止のフェンスが張り巡らされているのが少しだけ閉塞的に感じられたが、そんな閉塞感も透き通った夜風がいつの間にやらどこかへと連れて行った。

フェンスに手をかけて、遠くの景色をぼうっと眺める。教室よりも少しだけ視点が高いので、より遠くの景色まで見渡せた。先ほどは微かにしか見えなかった街明かりも、ここからでは星空をそのままひっくり返したように、広く、彼方まで続いている。

 視界の端に雑木林に向けて延びる緩やかな下り坂が見えた。芦ヶ丘高校の敷地に沿うようなあの坂道は、あの街へと続く道であり、この学校に通う生徒の通学路の一つであった。

 高台にある芦ヶ丘高校には、どの方角から通学しようとも、坂道からは逃れられない。大多数が自転車ないしは徒歩通学である生徒たちにとって、その事実は世代を越えて引き継がれる悩みの種であった。かくいう拓も、かつてはその被害者の一人であった。延々と続く坂道に、幾度となく涙を飲んだし、通学の度に、遠く霞がかった校舎を見ては絶望したものだ

 ただ、悪いことばかりでもない。

 下校時に一気に坂道を下るのは爽快であったし、校舎は高台にあるため大変風通しが良く過ごしやすい。そしてなにより、屋上から見下ろすこの景色だ。登校時の上り坂というデメリットを差し置いても、この学校には生徒を通わせる素敵な魅力があった。

 拓はくるりと夜景を背にして、もと来た道を辿り階段室へと向かう。平坦な屋上に一部分だけ突出した直方体のその建物に、拓は入ろうとはせず、出入り口の横に取り付けられた梯子に手をかけて一息で登った。そして平坦な屋根の上に立つと、再び夜景を見た。

 数メートル視線が変わっただけなのに、見える景色は先ほどのものと大きく異なっていた。ここからなら世界の果てが見えてもおかしくないと拓は思った。

 この場所が、この学校で一番―――ひいては、この近辺で一番高い場所になる。

 手を組み、大きく伸びをする。「あー!」と意味もなく大きな声を出す。爽快な気分だ。夜気を含んでツンとした風が、この場所からでは格別に心地よく感じた。

 ここは在学時代、特別な場所だった。

 屋上には一般生徒の出入りが許されていたが、この階段室の屋根だけは少しだけ勝手が違った。学校側から禁止されているわけではない。生徒間での暗黙の了解のようなものが存在したのだ。昼休みも放課後も、休み時間は常に一握りの三年生徒にこの場所は陣取られていて、仲間内で弁当を食べていたり、談笑をしていたりする。つまり年功序列の特等席というわけだ。仮にこの場所が空いていたとして、一、二年の生徒がそこに立ち入ろうとしようものなら、情報は瞬く間に学校を駆け巡り、立ち入った生徒は上級生からの折檻を食らうはめになるのだ。そういった理由で階段室の屋根には下級生は誰一人として近付かなかった。

そんな場所に、拓が初めて立ち入ったのは、二年生の春だった。

「誰もいないときにこっそり登ろう」そう言いだしたのは健二だった。善良な一生徒だった当時の拓は、その提案をすぐさま却下したのだが、健二曰く「伝統や文化に縛られては、まともな大人になれない。ルールを破ってこそ、人は成長するんだ」とのことで、「じゃあ皆がいる時に、一人で堂々と弁当でも食べればいいじゃないか」と拓が言ってみると、「ルールは破っても罰は受けたくない!」と豪胆なのか臆病なのか分からない持論を彼は展開した。更には「一人じゃ怖いから、お前もついてこい」と言い出す始末で、結局拓は健二に謎の勢いに押し切られ、屋上に赴くことになったのだった。

 そうして忍び込んだ夕暮れ時の屋上の光景を、拓は今でも忘れていない。

 数メートル上の景色は、まるで別世界だった。

 視界を遮るものは何一つ無く、ともすれば、地平が丸みを帯びて見えそうだった。

沈みゆく太陽はその命を燃やし尽くすように煌々と輝いていて、遠くの山に隠れてもなお、圧倒的な存在感を放っていた。それでも着々と近づく夜の気配に、家々は明かりを灯して備えている。昼と夜が同居するその数分間はまるで世界の終わりのように思えて、拓はなんとなく寂しい気持ちになった。それと同時に世界の変革に立ち会っているような、不思議な高揚感も抱いていた。

 次の季節を感じさせる薫風に身を包まれながら、拓と健二は屋根の上から見える景色をいつまで眺めていた。


 屋根の一角に腰をおろし、拓はきょろきょろと床にむけて視線を動かした。

―――たしかこの辺りに書いたはずだが。

数秒ののち、目当てのものが見つかり、拓は思わず「あっ」と声を上げた。

『2009年6月11日 T&K』

あの日の記念にと二人で書いた落書きだ。油性ペンで書いたとはいえ、さすがに消えていると思っていたが―――事実、床のところどころに同じような落書きがあるが、そのほとんどが擦れて判別が出来なかった。その中で、なぜか二人の落書きだけが、コーティング処理が施されたように当時の姿を残している。

 健二は、なにか特別なペンでこの落書きを書いたのだろうか?

 数年越しの奇跡を目の前にして、束の間、その要因を探ろうとする。掠れた油性文字をそっと撫でると、風雨にさらされたからか、表面がカサついていた。だが、インク自体はしっかりと染み込んいるので、ちょっとやそっとじゃ消えそうには無かった。やがて、拓は考えることをやめた。素直に目の前にある事実のみを噛みしめることにした。

 落書きに手を当てたまま、再び景色に視線を戻す。よく見ると、記憶の中の景色と今の景色は微妙に違っていた。新しい建物や新しい道路が散見される。細かく一つ一つの区画を見てみると、意外な程に街は様変わりをしていた。全体像はあまり変わらずに、ディティールだけが変わっていく様はどこか人の体と似ている。だが、どれだけ年数が経ち、その姿を変えようと、この景色からもたらされる印象は、以前のものと全く変わらなかった。まるで手に触れた落書きから当時の記憶が溢れ出しているかのようである。拓はそこはかとない寂しさと高揚感を抱き、長い間、街の景色を眺めていた。

 

 屋上を後にした拓は自分が抱く感情に少しの戸惑いを覚えていた。

 落書きという当時の思い出を偶然にも発見し、それをきっかけに当時の感覚を追体験した。その体験は拓に、いつにもない充足感に与えた。社会人になって、いや高校を卒業して、こんなにも心満たされたことがあっただろうか。それほどまでにあの落書きとそれがもたらす当時の感覚は拓の心を豊かにさせた。

 いつの間にか元の場所まで戻っていた。 

 目の前には月明かりを浴びて、てらてらと光る連絡通路がある。拓は再び選択肢を迫られた。このまま自宅に帰るか、帰らざるか、その二択を―――だが、先ほどこれでもかと逡巡した選択肢を、拓は拍子抜けするくらいあっさりと選んだ。

 「まだ春乃の元には帰らない」と。

 拓はまだ浸っていたかった。心の中で爛々と光る充足感と、その影で月のように寄り添う一抹の寂しさに。楽しいような苦しいような複雑なこの感情に―――この感情はこの場限りのものだ。一度、この敷地を出てしまえば、心の中から煙となって消えてゆくだろう。そんな予感がした。だからこそ大事にしないといけないと思った。一分でも一秒でも、この感情を味わうことが、この先の人生において重要な要素になるような気がした。

「もう少し、もう少しだけ」

 誰に言うわけでもない言い訳を呟いた。もちろん返事はない。言葉はひっそりとした夜の校舎に溶け込んでいく。

 拓は再び、帰路に背を向けた。その表情はやけにすっきりしている。


*


どれだけ仕事をこなしても、次の瞬間には更なる仕事が舞い込んでくる。営業マンとして成果が残せるものならばまだいい。だが、その仕事のほとんどは上司や先輩社員からの雑務の押し付けで、拓にとってはただの面倒事にすぎなかった。そしてそれ

は、時として本来の営業業務に支障が出るほどの物量となり拓を苦しめた。そのくせ、営業ノルマには一切の温情がなく、数字を残さなければ上司からの激しい叱責が待っていた。

「お前たちが押し付けた、くだらない雑用のせいだよ」そう何度言いかけたことだろうか。

 結局言わなかったのは、言ってしまえば上司たちの反感を買い、もっと面倒なことになるのが目に見えていたからだ。「機械のように淡々とこなす」そう心に決めていた。あの時までは。

 拓の勤める会社は、このご時世において、コンプライアンスという言葉を欠片たりとも理解していない、時代錯誤・旧態依然とした地方の零細企業である。先輩上司の命令は絶対であり、ちょっとでも逆らおうものなら、必ず物か怒号かのどちらかが飛んできた。この会社の新人は、上司の機嫌を窺う能力と飛んできた物を避ける能力を真っ先に身に着ける必要があり、当然ながら新人の定着率は悪かった。そんな会社に勤めて、拓は早くも五年目を迎えている。

 最初の頃こそ、毎日辞めることを考えていた拓だったが、仕事に追われているうちに二年もの月日が経ってしまい、すっかり辞め時を失ってしまった。それからの日々は、上司への反骨精神と春乃との将来をモチベーションにして日々を過ごしてきた。 

 そのかいあって、三年目を終えるころには仕事にも慣れ、随分と自身の営業活動に割ける時間も増えてきていた。

 そんな状況が一変したのが半年前である。拓と同じ部署で同じく雑務を担っていた一歳下の後輩が当然会社を辞めたのだ。拓にとってはまさに青天の霹靂と言うべき出来事であった。これまで、たった二人だけの同じ部署の若手社員として、苦楽を共にしてきた自負はあった。こんな会社なので辞めることは仕方ないとしても、自分になんの相談も無しに辞めるだなんて―――拓は動揺と失望を隠しきれなかった。その一方、他の同僚たちの反応は驚くほど淡泊で冷たいものだった。「あいつは根性なしだ」「使えないやつが消えて清々した」と、数年間、時間を共にした同僚への言葉とは思えないほど、口々に後輩のことを罵った。拓は久々に会社を辞めたい気分になった。

 後輩に押し付けられていた雑務は当然のように拓に割り振られた。仕事量は単純に二倍になり、拓は再び、他人の雑務に苦しめられるはめになった。そんな日々が半年間続き、ついに、我慢が限界を迎えた拓は、上司に直訴することを決心したのだった。


 それは朝のミーティング、各々の社員が業務の進捗を報告する場であった。淡々と報告は進み、ミーティングが終わりを迎え、皆が会議室を立ち去ろうとしたとき、拓は全員に聞こえる声で上司に言った。「私への業務量を減らしてくれないか、自分たちの仕事は自分たちでやってくれないか」と。

 一瞬、その場が静寂に包まれた。

 上司も呆気にとられた顔をしていたが、言葉の意味を理解すると、呆れ顔で言い放った。

「若手は雑用することも仕事だ。何を馬鹿なことを言っているんだ」

すかさず、拓は反論した。

「頼まれる仕事が多すぎて、私の営業活動に支障が出ます。もう一度、考え直して下さい」

 次の瞬間、バンッと何かが机に叩きつけられる音がした。上司を見ると、手にした資料を机に叩きつけていた。その顔は怒りで赤黒く変色している。

「営業成果が上がらないのを他人のせいにするのか?」

 そこからは、公開説教の時間だった。

 遠慮のない上司の怒声が会議室に響き渡る。拓はそれを直立不動で聞き、他の社員は、ただ迷惑そうにその光景を見つめていた。

 結局、朝一番に始まったミーティングは、当初の予定を大幅に越え、正午近くまで続いた。上司が会議室を去って、ようやく説教の時間が終わる頃には、拓の心身は既にボロボロだった。それ以降の記憶は曖昧で、気が付けば退勤時刻になっていた。残業をする気にもなれなかった拓は、帰り支度をし、足早にオフィスを後にした。同僚と上司の視線が痛かった。今日が週末であることに安堵したが、週明けの仕事のことを考えると憂鬱な気分にもなった。


 家路につく足取りは鉛のように重かった。

 ひとえに自宅で拓の帰りを待っている春乃に合わせる顔が無いからだ。いつもならどれだけ仕事で嫌な事があっても、春乃と話せば気持ちが切り替えられた。春乃の底抜けに明るい性格と笑顔が、拓の後ろ向きな感情を綺麗に拭い去ってくれる。この女性と幸せになる為に明日からも仕事を頑張ろう。そう思うのだが、今日ばかりは違う。不毛で生産性のない仕事はこれからも拓に押し付けられる。なけなしの勇気を振り絞った上司への直談判は空振りに終わったのだ。また週明けからいつもの一週間が始まる―――絶望感が首をもたげた。

『こんな仕事をしているようじゃ、結婚なんていつまで経っても出来ないな』

言われた覚えのない上司の言葉が脳内で再生される。

 確かにその通りだった。今の仕事が春乃との未来に繋がっているとは到底思えない。早く営業で成果を残して、一人前にならないと、いつまでたっても春乃を幸せにしてあげられない―――考えれば考えるほど、自宅への足取りが重くなるのを拓は感じた。今はとにかく春乃に会いたくない。そう思っていても確実に体は自宅へと近付いていった。


 二階建てのアパートの階段を、ゆっくり踏みしめるように登る。

とうとう自宅に帰りついてしまった。

 二階の廊下に辿り着くと、つきあたりから二番目の部屋からガチャリと鍵を開ける音がした。

 拓と春乃の部屋である。

 春乃は階段を登る音で、どの部屋の住人が帰って来たかを判断が出来るのだそうだ。鍵を開けたのも、いち早く同居人の帰宅を察知したからなのだろう。

「ただいま」

「おかえり!」

 春乃が弾むような軽快な声で拓を迎える。一方の拓は低く沈んだ声で、二人の声のトーンはまるで正反対だった。

 夕飯の支度をしている春乃を尻目に拓はダイニングチェアにジャケットを掛け、ネクタイを緩めながらリビングのソファに腰を下ろした。春乃がキッチンで何かを煮込む音だけが部屋に響く。なんとなく気まずくなった拓はテレビをつけようとリモコンを探していると、ふとテーブルに置かれた二通の手紙が目に入った。

「それね、依子からの結婚式の招待状」

 春乃が声をかけてきた。ダイニングキッチンからこちらを見ていたらしい。

「ああ、そういえば連絡が来てたね。どうせ住んでる所も一緒なんだから招待状も一通でいいのに」

 だよね。と春乃の笑い声が返ってくる。拓は浮かない表情を浮かべた。よりにもよって今一番遠ざけたい話題の種が目の前に転がっていたからだ。今日ばかりはこの手の話はしたくない。もしも、自分たちの将来の話に飛び火しようものならば、上手く答えられる自信が今の拓にはなかった。話の中心から遠ざけるように手紙をテーブルの端に追いやり、話題を変えようと春乃に話しかけた。

「いい匂いだね。今日のご飯なに?」

「今日はね、なんと拓の大好きなロールキャベツです!」

 春乃が得意げな顔で拓の方を見る。

「お、マジで? 通りでいい匂いだと思った」

「まぁ、先週はあたしの好きなもの作っちゃったからね」

「ああ、ガパオライスだっけ? 初めて食べたけど、意外と美味しかったよ」

「そう? じゃあまた今度作るね」

 再び、調理の音だけが部屋を満たした。拓がようやくリモコンを見つけてテレビをつけると、ちょうど野球のナイター中継が始まっていた。

「はい、ビール。ご飯はもうちょっと待ってね」

 いつの間にか、春乃が傍らに立っていて、冷蔵庫から取り出した二つのビール缶のうち、一方を拓に手渡してきた。

「うん、ありがとう」

 受け取り、缶を開けると、プシュッという乾いた音が二つ、重なるように鳴った。見ると、春乃も同じタイミングで缶を開けていた。

「じゃあ、一週間お疲れさまでした!」

 春乃が乾杯の音頭をとると、二人は缶の下の部分を軽く小突き合い、ビールをあおる。口に流し込んだビールは少しの摩擦も感じさせることなく、するりと胃の中へと吸い込まれていく。労働の疲れも一緒に流れ落とすような格別な喉越しだ。口に残る麦の香りの余韻を楽しむ。まさにこの瞬間こそ、至福の時間だと感じた。

 隣に座る春乃も同じくこの至福のひと時を楽しんでいるようだったが、それもそこそこにビール缶をテーブルに置き、拓の方に体を向けた。

「ね、この日さ、拓の予定って大丈夫だったよね」

 さっそくとばかりに、先ほど端に追いやった招待状を手繰り寄せて、拓に手渡してきた。

 手紙には三ヶ月後の三連休の中日が記されている。

 拓は頭の中で予定帳を開いてみた。確かにその日は何の予定も立てられていない。  開催場所も近場のチャペルが記載されていたので、出席する分には問題なかった。だが、拓はうーんと悩まし気に唸って、こう言った。

「悪い。おれは欠席にしとく。春乃の送り迎えはちゃんとするからさ。」

「えー、信じらんない! また欠席なの?」

春乃が大げさに声で非難をする。

「恵美の結婚式の時もそうだったじゃない。一人で参加するの、ものすごく寂しいんだからね!」

「だから謝ってるだろ?代わりに祝儀代はおれが出すからさ。分業だよ。分業。金はおれで出席は春乃ってことにしよう」

「分業って…。間違っても他じゃ言わないでよね。感じ悪いよ?」

 ふくれっ面で春乃が立ち上がる。料理の煮込み具合を確かめるのか、キッチンに向かっている。拓は視線をテレビに戻し、ナイター中継を見た。贔屓にしている地元球団が劣勢で、応援についつい熱が入る。

 二人の同棲は始まってから一年が経つ。この一年で拓が友人の結婚式の招待を断るのはこれで二度目になる。そして、その両方が高校時代の友人で、春乃との共通の友人でもあった。

「あのさ、拓?」

 キッチンから春乃の声がする。その姿は物影に隠れてリビングからは見えない。

「仕事が忙しいのは理解してるけどさ、こういうイベント事にはちゃんと参加しておいた方がいいよ。不参加だとあたし達の時に招待し辛くなるじゃない」

「ああ」と拓は曖昧に返事をした。そして、また始まったかと辟易した。

 ここ一年、ことある毎に春乃は自身の結婚に対する意欲をちらつかせてくる。今のように「あたし達の時」と結婚を匂わせる発言をする時もあれば、式場のテレビコマーシャルを、拓に見せつけるように熱心に見入っていることもある。中でも拓がうんざりしたのは、ある日、帰宅後にリビングーテーブルを見ると、結婚情報誌が開けっ広げに置かれていたときだ。そのときばかりは、拓は恋人の神経を疑った。

 もちろん、拓としても春乃との結婚については、前向きに考えている。そうでなければ同棲などしていない。だが、今のタイミングでは無いとも思っているのも確かだ。仕事が軌道に乗り、拓自身が春乃を養っていける確信が持てれば、いずれプロポーズをするつもりでいるのだが、ここ最近の仕事の事情を考えれば、当分先になりそうだとも感じていた。

「なに?その気のない返事。自覚あるの?」

 拓の返事に春乃が非難の声を上げる。

 春乃はこの手の話をする時、「結婚」という具体的な単語を使いたがらない。その代わりに「自覚」や「やる気」、「私たちの時」などの言葉を好んで使いたがる。拓 はそれらの言葉を聞く度に「胸に手を当てて考えてみろ」と、諭されているような居心地の悪さを感じていた。

普段はこの辺りで拓の方が折れて謝るか、更に曖昧に返事をしてお茶を濁すのだが、この時はなぜか反論したい気分に駆られていた。

 仕事のストレスを誰かに向けたいと、魔が差したのかもしれない。ともかく拓は、本来の意思とは関係なく、気付いた時には反論の言葉を言い放っていた。

「自覚ってなんだよ。意味分からねぇ」

 その言葉は、器いっぱいに注がれた水が、少しのきっかけでこぼれ落ちるかのように、自然と口から放たれた。小さいが、妙に通る声だった。

「…言いたい事があるなら、はっきり言いなよ」

春乃が料理の手を止めて、こちらを見る。

張りつめた空気が部屋を流れた。沈黙が部屋を満たし、ナイター中継の実況者の声がどこか遠くから聞こえてくるように感じられた。陽が傾き、夕陽が部屋の一部をあかね色に染める。窓の外から見える電線には大きなカラスが一羽だけ留まっていた。

「自覚とかやる気とか、毎回毎回、言い方が回りくどいんだよ」拓の意識とは別の部分で言葉が紡がれる。「春乃こそ、言いたい事があるならはっきり言えばいいじゃないか」

 いつもならば、喉元で止まるはずの言葉が、今日は嫌に滑りが良く、口から零れ出す。春乃は思わぬ反論に少しの間だけ呆けていたが、すぐに自分が口撃されていることに気付き、眉間に皺を寄せた。

「回りくどいってなによ」

「あんたがちゃんと話を聞かないからじゃない」

「言っとくけど、あたしだって相当我慢してるんだからね。自分だけ被害者みたいなこと言わないで」

「そういう話じゃないだろ」

「じゃあ、どういう話よ。言ってみなさいよ」

 矢継ぎ早に言葉が飛び交う。直後、再び部屋に沈黙が流れた。

 春乃はじっと拓を見据えている。拓の視線はテレビのナイター中継に注がれていたが、その内容は全くと言っていいほど、頭に入ってこなかった。

 拓の心中は、すでに面倒臭さが苛立ちに勝っていた。自分から持ち出した口論とはいえ、これ以上の議論は不毛だと思った。

「とにかく!」拓の言葉が沈黙を破った。

「結婚する見通しも立ってない状況で、色々と言ってくるのは止めてくれ」

 はっきりとした口調で、拓は言った。

「おれが言いたいのはそれだけ。以上。メシまだ?」

 場を仕切り直すようにビールを一口含んでテレビのチャンネルをバラエティ番組に変えた。画面では、馬鹿そうなタレントが、面白くもない身の上話を延々と続けている。

 春乃は黙ったままだった。聞き耳をたててみるが、料理を再開した音は聞こえなかった。

 やがてコマーシャルに入り、流石に春乃の様子が気になった拓は、ちらりと視線を台所に向けると、いつのまにか、春乃は台所からダイニングに移動していた。

 その顔は紅潮し、その目は拓のことをじっと睨めつけている。そのあまりの形相に、拓はわずかに体を仰け反らせた。

「なによ、その見通しって」

 怒りが塗り込められた外見とは裏腹に、驚くほど冷たさを孕んだ一言だった。

「だから…、おれの仕事もまだ安定してないから…」

 しどろもどろに拓は言う。

「はっきり言いなさいよ!」

「おれの仕事もまだ安定してないから!」弾かれるように拓が言う。「今はまだ結婚を考えるタイミングじゃないと思うんだ。第一、まだ同棲を始めて一年経ったばかりだろう?先の事を考えるのは早いんじゃないか?」

 苦し紛れの言い訳だ。拓は情けない気持ちになった。自分から喧嘩をふっかけておいて、なんという体たらくだろうか。

 いつの間にか夕日は陰り、外は限りなく夜に近づいていた。依然としてカラスは電線に留まっている。テレビでは売り出し中の芸人がエピソードトークを繰り広げていた。

「はあ…」

 春乃が力なくダイニングチェアに座る。前のめりの体制からは表情が読み取れない。拓はテレビの電源を切り、その姿をじっと見つめる。台所の換気扇の音だけが妙に室内に響き渡って聴こえた。

「あたしがどんな気持ちで友達の結婚式に行っているか分かる?」

 春乃がぼそりと呟く。

「すごく惨めな気持ちになるのよ。友人が結婚するんだからもちろん嬉しいわよ? でも、心のどこかで嫉妬している自分がいる。友人の幸せを心から祝うことが出来ない自分がいるの。そんな自分がとんでもなく最低な人間に思えて、惨めで仕方がないのよ」

「そんなことない。春乃が惨めなもんか」

「あんたになにが分かるっていうの?」遮るように春乃が言う。「嫌なことはあたしに押し付けて、逃げてばっかりのあんたなんかに」

 拓はなにも言い返せなかった。

春乃に面倒事を押し付けている自覚はあった。それに対する負い目も持ち合わせていた。だが、心のどこかでは、「やってくれて当たり前」だとも思っていた。

 拓は甘えていたのだ。恋人の機微を察して、適切なフォローをしてくれる春乃の思いやりに。知らず知らずの内に、どっぷりと依存していたのだ。

 重たい空気が部屋に流れる。

「ねえ」春乃がぽつりと呟く。「拓はあたしと結婚する気あるの?」

まっすぐな言葉だった。けれども、悲しさを孕んだ一言でもあった。

 望んでいた回りくどさのない一言のはずなのに、拓の心は重く垂れこめた。言わせてしまったという自責の念で、視界が狭くなる。

「ある」と言えば、あるいはこの場を収めることは出来るのかもしれない。だが、拓にはその一言がどうしても口に出せなかった。

『そんな簡単なことも出来ないのか』

 上司の言葉が頭に響く。

『お前は社会人失格だよ』

 その言葉は今しがた言われたみたいに、鮮明に脳内で再生される。

『自分の失敗を他人のせいにするな』

 喉の奥がぎゅっと締まる心地がした。息をするのも辛かった。拓はただじっと、春乃を見つめることしか出来なかった。

―――俺なんかが家庭を持ってもいいのだろうか。

 ふいに、拓は自問する。

『ろくに仕事も出来ないお前じゃ無理だよ』

 すぐに脳内で上司が答える。その言葉は上司から言われた憶えのない言葉だ。

―――俺は春乃を幸せにすることが出来るのだろうか。

『根性なしのお前じゃ一生かかっても出来ねえよ』

 上司の声を借りた自己批判が頭に響く。次第に動悸が激しくなり、嫌な汗が背中を伝った。拓は目を瞑り、浅く息を吐いた。そして、ゆっくりと目を開けてもう一度春乃の姿を見る。

 いつの間にか彼女は瞳に涙を浮かべ、体は微かに震えていた。その姿は今にも溢れ出しそうな感情を必死に押し殺しているようで、ひどく悲しげに見えた。

 春乃を安心させてあげなければ。そう思う拓だったがしかし、肝心な言葉が出てこない。自分のものではないみたいに、口が、舌が、喉が、言うことを聞いてくれない。

『結婚したいに決まってるじゃないか』

ただその一言を言うだけなのに―――

 日は沈み、宵闇とそれに伴う静寂が部屋を包み込む。二人は明かりをつけようともせずに、ただじっと薄暗闇の中、互いの顔を見つめ合う。そこには張り詰めた空気が漂っていた。

 一分、二分、どれほど時間が経っただろうか。拓は自分が徐々に時間感覚を失っているのに気付いた。ひょっとして、この時間は永遠に続くのか。そんな考えが頭によぎったとき、緊迫した空気に押し出されるように拓の口から言葉が滑り落ちた。

「ごめん」

 そして次に気付いたとき、拓は部屋の外へと逃げ出していた。

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