(二)長良川の氾濫

「御屋形さま。差し出がましきことではございますが、そろそろご正室をめとられては如何かと」

「うむ、儂もそう思うてはおるのだが」

「公家の娘が宜しゅうございましょうな」

公家の娘と聞いて頼芸の顔がほころぶ。

「しかし、一つ気掛かりなことが・・・」

勘九郎が口籠る。

「何じゃ、申してみよ」

「申し上げ難きことながら、深芳野さまのことにござる」

「深芳野が如何した」

「側室とは言え、御方様のおられるところに大事な姫御を嫁がせましょうや」

頼芸の眉間に皺が寄る。


「離縁せねばならぬと申すか」

勘九郎が無言で頷く。

「あれはもう、十年近くも儂に連れ添ってくれておるでな」

既に深芳野への未練はないものの、むごい仕打ちはしたくない。

「御屋形さまはこの先もずっと深芳野さまと添い遂げられると仰せか。跡継ぎのことも考えねばなりますまい」

「それは儂も分かっておる。しかし、稲葉の実家に戻すというのもなぁ・・・」

深芳野の父・稲葉通則は三年前の合戦で殉死していた。

「・・・・・・」

無言の時が流れた。


突然、勘九郎が平伏する。

「御屋形さま。誠に僭越ではございますが、深芳野さまを倅の新九郎に下賜しては

頂けませぬか」

突然の申し出に頼芸が目を丸くする。

「それでは新九郎に相済まぬ・・・」

「皆まで申されますな。ご寵愛の深芳野さまを頂戴できるとあらば、新九郎には名誉なことにございまする。我ら父子は御屋形さまあってのもの、御屋形さまの為とあらば新九郎に『否』はございませぬ」

「おぉ、おぉ、何と忠義な・・・」

平伏する勘九郎の手を取って、頼芸の目から大粒の涙が溢れ出す。


二日後のこと、新九郎は福光御構に入り頼芸に拝謁した。頼芸の傍らには深芳野が

侍っている。

「新九郎、此度の働きは見事であった。褒美を取らそうと思うが、望みがあれば何

なりと申すが良い」

「望みでございますか、・・・・・。いや、しかしこれは・・・」

新九郎の歯切れが悪い。

「遠慮はいらぬ。何でも構わぬから申せ」

「それでは思い切って申し上げまする。不躾ぶしつけながら、深芳野さまを頂戴できぬもの

かと」

新九郎が大仰に平伏する。

「深芳野を、とな」

しばし頼芸が瞑目する。

「何でも叶えてやると申したからには・・・。深芳野、良いな」

深芳野は黙って俯いている。

「有り難き幸せに存じまする」

すべては父・勘九郎の段取りであった。


新九郎は胸を撫で下ろして深芳野を西村の邸に迎えた。

翌一五二九年、男子(後の義龍)が生まれる。

「少し早産ではございましたが、母子共に元気にしております」

「さすがは新九郎じゃ。やることが早いのぅ」

報告を受けた頼芸は少し悔しそうでもあった。

この後、守護であった兄・頼武が亡くなり、頼芸は晴れて美濃太守となる。

しかし、頼芸との間に亀裂が生じた長井長弘が頼芸の弟を担いで謀叛を企てた。

西村父子はこれを鎮圧、頼芸の絶大な信頼を得て小守護代・長井の家督を継承する。二人は長井新左衛門、長井新九郎と名を改めた。


ようやく美濃にも平穏な時が訪れていた。

一五三二年、頼芸は新しく建てた枝広の館に居を移す。

頼芸は新左衛門の働きで、公家の娘・香子かおるこを正室に迎えた。まだ青い蕾を開花させるべく、頼芸は朝な夕な香子に熱を上げている。

ここが頃合いとばかり、新左衛門が頼芸に伺いを立てる。

「御屋形さま、新九郎に嫁を娶らせたく」

深芳野のことを思うと頼芸は少し複雑な気持ちになったが、側室として下賜した以上今さら口を差し挟む余地など無い。

「ほぅ、何処の娘じゃ」

「東美濃は明智家の当主・光継殿の娘御でござる」

「おぉ、それは良縁じゃ。これで美濃もますます一枚岩となろう」

新九郎の正室は「小見の方」と呼ばれた。


天文四年(一五三五)七月、美濃に豪雨が続いた。

四日目の夜、ついに長良川が氾濫した。ゴウゴウ、ドドドドッ、地響きのような音と共に枝広の館が揺れる。

「何事じゃ、敵襲か」

眼を覚ました頼芸が事態を悟る暇もなく、大量の泥水が館に流れ込んできた。頼芸はとっさに柱にしがみ付くが、香子が流されてしまう。

「香子、香子ォ~」

瞬く間に、その姿が見えなくなった。

「御屋形さま、ご無事でございましたか」

濁流の中、新九郎が部屋に飛び込んできた。

「新九郎ォ~、香子が・・・」

頼芸がべそを掻いている。


新九郎は締めていた帯を解いて通し柱に結わえると、

「御屋形さま、この帯をお離しになられませぬように。また洪水が襲ってこぬとも

限りませぬ故」

「何処へ行くのじゃ」

「御方様を探してまいります」

「そうか、頼んだぞ」

新九郎はふんどし一つになって館の中を見て回るが、何処もかしこも建物の残骸や襖などが泥の中に埋まっている。

   ・・・・・ この分では、鉄砲水にさらわれてしまったのであろう

頼芸の元に戻ると、赤く腫れ上がった目ですがるように新九郎を見つめてくる。

新九郎は力なく首を横に振った。

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