キャンバスより愛を込めて

朱々(shushu)

キャンバスより愛を込めて

愛する娘よ。

8月23日、特にこの日にちに意味はないが、

12:00にルーヴル美術館の最も美しい絵の前で待ち合わせをしよう。

久しぶりに会えるのを楽しみにしているよ。 父より




 八月上旬、こんな絵葉書が来たので慌ててフランス・パリ行きのチケットを取った。宿はこの際、父の家でいいだろう。何泊するかも決めていない。

 母は陽気に「いってらっしゃ〜い。お土産よろしくねぇ」と言った。

 長い旅のフライトは、何度乗っても慣れない。早く下ろしてくれ、とさえ思ってしまう。内科の先生にもらった睡眠薬を飲み、なんとか眠りにつく。時差ボケはいつものことだ。


 シャルル・ド・ゴール空港は、とにかく広い。そこらじゅうに観光客がいて、いつも賑わっている。夏休みの日本人も多く見かけた。

 スーツケースを転がしながらタクシー乗り場へ向い、行き先を言う。

「(モンマルトルのカフェ・ドゥ・ムーランまでお願いします)」

 本当の目的地はそこではないけれど、そこが一番わかりやすいのでいつもそう伝えるのだ。

 タクシーの窓から、パリの街並みを眺める。来たのは少しひさしぶりで、たしか、一年前だったように思う。あのときは母も一緒だった。


 私の父・五十嵐いがらし千秋ちあきは画家で、それはそれは浮浪者のように転々と生活をしている。今現在はパリに拠点を置いているが、元々はいろんな国にいた。

 現役で東京藝術大学に入学したあと、学生時代から才能が開花し、父が描く油画はおもしろいほど売れた。画廊にもギャラリーにもキュレーターにも引っ張りだこで、ただ、父はそのあたりのお金の計算には無頓着だった。


 そんな頃、学芸員をしていた若かりし母と出会い一目惚れをする。一生お金の心配はさせないので、転々とする画家生活を許して欲しいとプロポーズをしたそうだ。

 今では母が父の絵の管理をおこない、保存から価格から展示から、全てを担っている。


 父の油画は世に言わせると、「生きている」らしい。

 今にも動き出しそうな絵の具が、常に動き続けている人間や感情に直結し、観る者の心を動かすという。


「(お嬢さん、着きましたよ)」

「(ありがとう)」

 タクシーを降りながらチップを渡し、カフェ・ドゥ・ムーランの前に立ちはだかる。ここは映画『アメリ』で有名な観光地なので、いつも人が多い。私も初めて来たときは、クリームブリュレをスプーンの裏側で割った。


 カフェから歩いて五分ほど経つと、オフホワイトのアパートメントが見えた。パリは建物を非常に大切にしており、築百年の建物はザラにある。

 門が閉まっているので、アパートの入り口にある金色の丸ボタンで部屋番号を押す。ブーッと低音が響き、向こうからバタバタと足音が聞こえてくる。

「(こんにちわ。どちら様だい?)」

 カメラ付きではないので、声で判断せざるおえない。

「日本から愛する娘が来たわよ? 中にいれてくれる?」

 するとガチャっと門の鍵が開いたので、アパートメントの中を進む。少し廊下になっており、到達した先は、小さな中庭になっている。

 すると、上から日本語が聞こえてきた。

萌菜もなちゃーん! パリへようこそ!」

 アパートメントの三階に住む父が窓から身を乗り出し、私の名前を呼ぶ。

 恥ずかしいからやめてほしいものだ。


「よくひとりで来れたねぇ。連絡来て、空港まで迎えに行く気満々だったよ」

 父はコーヒーを淹れるのも得意で、キッチンはいつもコーヒーの香りで満ちている。

「一応アトリエの場所は覚えてるからね。…それにしても、まーたたくさん増えたねぇ…」

 見渡すとキャンバスだらけである。大きいのから小さいものまで、父は特にサイズを限定して描くことはせず、思うがままに描く。

「いやいや、今回はレストランの玄関と壁、ホテルの各個室を頼まれたから、小さい作品がメインなんだよ。納期はずいぶん先だけどね。はい、コーヒー」

 私は父からコーヒーを受け取る。

「それにしてもさ、なにあの葉書? 夏休みだからチケットぎりぎりだったし、言っとくけどホテルとってないから、ここに泊まるからね?」

「もちろんさ〜。さすが我が娘、ちゃんと前々日に来るなんて、しっかり者の証だね」

「…単に、確実に時差ボケがあるからよ。今日も明日もぐっすりだわ」

「そうだね。お楽しみは明後日だ」

 萌菜がパリに到着したのは八月二十一日。ハガキの約束から二日前だ。昔からどの国へ行っても時差ボケになり、翌日はとても観光どころではない萌菜は、いつも一日を無駄にしてしまう。


 父の家にあるゲストルームにスーツケースを起き、シャワーを済ませる。部屋着に着替えれば、あっという間にリラックスモードになった。

「あ、萌菜ちゃん、夕飯どーする?」

 千秋はキッチンからゲストルームの萌菜へ話しかける。

「んー…サラダ、かなぁ……」

 知らぬ間に、萌菜は深い眠りについていた。




 萌菜の頭が完全に冴えたのは、翌日だった。二度寝三度寝を繰り返し、ようやく頭がスッキリしたのだ。八月二十二日の夕方である。

「おはよ〜…」

 首を回せばゴリゴリと鳴り、背伸びをしながらリビングへ顔を出す。すると父・千秋はおらず、アトリエを覗いてもいなかった。買い物かと察した萌菜は鍵を持っていないため、シャワーを浴びる。シャワーすら忘れて、時差ボケ回復に務めていた。

 シャワー終わりと同時に玄関からガチャガチャと音が聞こえ、千秋が帰ってきたのがわかる。スーパーへ行き、夕食の調達をしていたようだ。

「あ、萌菜ちゃん起きたー? 夕飯ねぇ、ラビオリだよ〜」

 両手にエコバッグを下げ、ふたり分の食事を買い込んだ。いつも千秋は大抵ひとりなので、少し嬉しそうにも感じる。

「やーぁっと目が覚めました。ご心配かけました」

 シャワーを浴び終わった萌菜が頭を下げると千秋は、ふふふと笑う。

「いつものことだからねぇ。萌菜ちゃん小さいときから、どこの国へ行ってもそうだから」

「なんでか時差ボケすごいんだよね、体質かな? まぁ寝てれば治るからいいんだけど、一日無駄にしちゃうのはなんか嫌」

 萌菜も千秋と共にキッチンに立ち、ラビオリやサラダの準備をする。千秋は赤ワイン、萌菜はぶどうジュースだ。


 四人用の机に器たちを並べ、食事の準備をする。ふたりが向かい合わせに座るのは、実にひさしぶりの出来事だ。

「明日、ルーヴル美術館行くんでしょ? 何時ごろ出る?」

「余裕を持って十時半くらいがいいかな。今回僕は模写をしないし、萌菜ちゃんとゆっくり鑑賞出来れば満足だよ」

 千秋はラビオリを食べながら、うんうんと頷く。


ーーー12:00にルーヴル美術館の最も美しい絵の前で待ち合わせをしよう。


 萌菜は、千秋にとって最も敬意があり大切な絵を知っていた。そしてその絵の名前が、自分の名前の由来になっていることも。




「さすが八月のパリ。日差しが強いわね」

 翌日、萌菜は茶色いカラーレンズのサングラスをかけながらメトロに乗る。

 タクシーでも、もしくは頑張れば徒歩でも行ける距離だが、メトロのほうが楽なのだ。ふたりはルーヴル美術館の最寄駅である「パレ・ロワイヤル=ミュゼ・デュ・ルーヴル駅」を目指した。最近はアナウンスも日本語があり、フランス語が聞けなくてもわかりやすくなっている。

「ルーヴル美術館! いつ来てもいいねぇ」

 千秋はほぼ地元民なので、だいぶラフな服装できた。全身白いツナギに、サンダル。萌菜と同じくサングラスをかけていた。

「あのピラミッドはいつ見ても綺麗ね。輝いてる」

 ガラスのピラミッド中央入り口を進み、チケットを買う。八月のバカンスのためだいぶ混んでいたが、それは承知の上だ。




「はーーー。涼しい」

 やっと中に入った頃にはその涼しさに癒され、美術館ならではの静観な空気に包まれた。

 ルーヴル美術館には世界中から観光客が集まる。様々な言語が行き交うなか、萌菜たちは日本語で話し続けた。

「どこから見る? せっかくだからミロのヴィーナス? サモトラケのニケ?」

「今日は絵画の気分なんだ」

 千秋はそう言うとさくさく歩いて行ってしまい、まるで自宅が如く進んでいった。萌菜は慌てて後ろから追いかける。

 進んだ先は、世界の名だたる西洋絵画たちが集まる部屋だった。ルーヴル美術館には像や装飾品も多くあるが、広さがあまりにもある。なので時間があまりない観光客は、観たいモノへ直行していくことが多い。

 千秋はパリに住んでもう長いので、観たいものはいつでも観ているだろう。そして萌菜も、数少ないが何度か来ているので、全部屋は観たかと思う。


 部屋をどんどん進み、千秋は『モナ・リザ』の前に辿り着いた。

 その絵の前は導線がひかれており、簡単に近寄れない。サイズもいまいち現実感がないが、「思ったよりも小さい」という感想が一般的には多いだろう。


 レオナルド・ダ・ヴィンチ作『モナ・リザ』。


 そのミステリアスな描写と、モデルの不明さ、左右非対称のなかにある親近感、謎めいた印象に、世界で一番有名な絵画だとも言われている。


 萌菜という名前は、彼女から拝借し、千秋が付けた。娘が生まれるとわかった瞬間に名付け、それ以外は考えもしなかったのだ。

「萌菜ちゃん、僕が思う、最も美しい絵の前はどうだい?」

 観光客も多く、写真撮影は自由なのでバシャバシャと撮る者もいれば、セルフィーをする者もいる。そんななか千秋は、萌菜に『モナ・リザ』の印象を尋ねた。


「…やっぱり美しい。謎めいていて、なのに魅力的で、神秘的。このミューズは誰なのか、どうしてわからないのか、気になるわ」


「そうだね、僕も同じように思うよ。どんなに模写しても追いつかないんだ。絵だから不変なはずなのに、この絵は常に進化している。謎に、取り憑かれているよ」


 時刻は十二時。本来ハガキに書いてあった待ち合わせ通りの時間になった。


「いつか萌菜ちゃんも、空いてるときに模写してみるといいよ。きっと新しい発見があるさ」

「模写? 私が?」

「そうだよ。萌菜ちゃんだって、絵、描いてるだろう?」


 その質問に、萌菜は答えられなかった。

 たしかに幼い頃から父の影響で絵画の道具は近くにあり、絵を描く環境は整っていた。それでも一度離れ、また戻り、今また、二度目の離れを体感している。

「パパ、そのことなんだけど…」

「ワーオ! アメイジング!!」

 萌菜が話そうとした瞬間、中国人か韓国人の団体客が部屋に入り、『モナ・リザ』に大興奮していた。一眼レフで連写して写真を撮る者、導線からギリギリまで手を伸ばす者。はっきり言ってマナー違反者ばかりだった。警備員は即座に対応しては注意を促す。中国語か韓国語かわからないまくしられ方に、警備員も大変そうだった。

「さっすが『モナ・リザ』、どの人類にも人気があるね」

 千秋はケラケラ笑いながら言う。萌菜は団体客に驚き、苦笑した状態だった。

「…もう少し、彼女を観ててもいいかい?」

「えぇ、もちろん」


 千秋と萌菜は本来の待ち合わせ如く、しばらくその場所にいた。近くに寄ったり、遠くから俯瞰して観てみたり。一枚の絵で、こんなにも表情がある。

 彼女は微笑んでいるのか、じっとこちらを見ているだけなのか。微笑んでいるならば、なぜそのような顔をしているのか。左右の顔の違いはなんなのか。両手の違いは本当なのか。


 『モナ・リザ』を観ているだけで、これだけの謎が浮かぶ。そして彼女の瞳から、自分の魂が覗かれている気がする。

 絵の大きさは縦約七十七センチ、横約五十三センチと言われている。導線が引かれているので近寄れないため余計に小さく感じ、その特別感は人々の興味をますます惹く。


 千秋はまじまじと『モナ・リザ』を観る。おそらくパリに拠点を置いてから何十回と観ているはずだが、それでも毎回本気の熱意で対峙している。対峙しないと、こちらの身が保たないというのが正しいのかもしれない。


 一方の萌菜は、複雑な胸中で観ていた。

 模写が許されているルーヴル美術館でいつかそれをするのは、やはり絵描きの端くれとしては夢である。ただ、私に許されるのだろうか?

 高校三年生のこんな時期に何も決まっていない自分が、何かを決めるのが怖い自分が、のこのこと八月のパリまでやってきて、いま、ルーヴル美術館にいる。

 そんな事実、普通の同学年からは怒られそうだ。

「そろそろ次の作品に行こうか。ダ・ヴィンチの作品はたくさんあるからね」

「えぇ…」


 結局はその日は一日中ルーヴル美術館に滞在して、絵画鑑賞を楽しんだ。

 千秋はときどきひとりごとで「これはどんな技術だろう」「これは誰のオマージュだろう」と呟いていたが、萌菜はそれどころではなかった。

 名画を観るたび、心が軋む。

 自分の未来、将来。したいこと、やりたいこと。興味のあること。進みたい道。

 その何もかもに答えが出ないのだ。

 名画たちがあつまる画家たちの集会で、皆から問われている気がした。


ーーーねぇモナ、あなたは何者になりたいの?


「私は………」

 空想上でも答えられないまま、萌菜はその日眠りについた。






 翌日、萌菜はリフレッシュをしたくひとり出かけることにした。

「サクレ・クール寺院に行ってきてもいい?」

「あぁもちろん、ここからも近いしね。僕は今日一日アトリエにいるつもりだから、好きなだけ行っておいで。もし出かけることになったらメール入れるよ」

「ありがとう」

 萌菜は着替えて出かける準備をする。


 サクレ・クール寺院とは、モンマルトルの丘のてっぺんにある教会である。千秋のアトリエはモンマルトルの丘から近く、住所としてはパリ十八区になる。


 モンマルトルは十九世紀頃から芸術家の街と呼ばれており、かつてピカソもアトリエを持っていた。火事にあってしまったその跡地には現在、ショーウィンドウに当時の歴史が展示されている。写真が並び、看板も残されており、【アトリエ・洗濯船(バトー・ラヴォワール)】は、観光客にも有名な場所だ。絵を描く者、ピカソを敬愛する者にとっては聖地のひとつだろう。


 モンマルトルはその他にも絵のテーマになっている景色も多く、当時の貧乏画家たちが絵を描き続けた。今では著名なジャン・コクトーやアンリ・マティスも活動をしていた。

 画家以外にも詩人や小説家たちが夜な夜な集まり、モンマルトルはまさに芸術家たちの街だったという。彼らは皆で集まり、バーで夜毎飲み明かしていた、という噂も残る。


 「ひまわり」で有名なファン・ゴッホが弟テオと暮らしていたアパートもあり、その証拠として今は、【ここに彼らが住んでいた】という看板が掲げられている。

 画家の名残は特に多く、名画の舞台がモンマルトルになっていることも多い。


 萌菜は歩いてサクレ・クール寺院を目指す。サクレ・クール寺院はモンマルトルの丘にそびえる教会のため、その丘からはパリ市内を見渡せる。丘には芝生や階段が多くあり、そこに座って観光客たちは景色を眺めたりするのだ。


 萌菜は軽く息切れをしながら丘を登る。到着したあとの爽快感と達成感は何事にも代えがたく、夏の爽やかな風が流れる。吹かれる風に髪の毛が乱れながらも、萌菜は丘からパリを見下ろす。ここにはたくさんの人間がいて、それはフランス人だけでなく、たくさんの移民やワーキングホリデーで入国している人々、多国籍の留学生がいる。

 美術の都・パリ、傾倒している者も多いだろう。


 そんな景色を見ながら、自分は、なんて贅沢な生まれなんだと改めて感じる。

 父は有名画家、母はそんな父を支える学芸員。現在父はパリに拠点を持ち、このようにパリに来れば泊まる場所にも困らない。父がまた違う国に行ってもそうだ。


 両親の中は良好で、ほぼ毎日電話している。小さい時からどんな子どもよりも、絵を描く道具は揃っていた。絵を観る機会はたくさんあった。関係者と知り合うこともあった。父に愛され母に愛され、真っ直ぐに生きてきたと自負している。


 けれど、そんな自分がこわい。

 反抗期もなく、自分のしたいことばかりを貫いて生きてきた。

 本当にこれで、いいのだろうか。


 萌菜は周辺の空いている階段を探し、腰を下ろす。カバンの中からスケッチブックと鉛筆セットを出し、デッサンを始めた。

 憧れの街、パリ。私が普段暮らしている、日本。

 選択肢があるようでない自分に辟易した。

「(やぁお嬢さん、君は絵が上手いんだね)」

 すると、ひとりのおじいさんが萌菜に声をかけてきた。

「(あら、ありがとう。でも、まだまだだわ)」

「(パリは奥深いからね。いつか君の個展が開催されることを祈っているよ)」

 そう言いウインクをしたおじいさんは、萌菜の元から離れた。


 この街の人間は、絵を描く人間に寛容さがある。ルーヴル美術館もそうだが、基本どの美術館も模写が勉強の一環として可能だ。萌菜のようなスケッチをする人間は、あらゆるところにいる。

 萌菜はそのままスケッチを続け、パリの街並みを描いた。

 この、多様性のある街を。




「ただいまぁ」

「萌菜ちゃんおかえり。サクレ・クール寺院はどうだった?」

「…あ。寺院に行くの忘れてた。モンマルトルの丘でぼーっとしちゃった」

「ははは、まぁそういうこともあるよね」

 千秋はキッチンに立っており、今日はスパゲッティを茹でていた。簡単なサラダも作り、飲み物はミキサーで作った野菜ジュースだ。

「さぁ出来上がり! 萌菜ちゃんちょうどいいタイミングに帰ってきたねぇ〜」

 千秋は両手で二皿取り上げ、テーブルの上に置く。萌菜はサラダや飲み物たちを並べた。

「いただきまーす」

「いただきます」


 夏のフランスは陽が長く、夜七時になっても明るい。外の風は生ぬるいが千秋のアパートには元来エアコンがついていなく、扇風機でなんとか凌いでいる。パリの安いホテルだと、そもそもエアコンの設置がない場所もあるくらいだ。

 ふたりはフォークでくるくると巻きながら、バジルスパゲティを食べる。千秋は部屋でバジルを育てており、それはそれは大量に出来る。バジルペーストが常備されているのだ。サラダの付け合わせにあるフランスパンにもバジルペーストが乗っており、さながらバジルパーティである。


「無事に帰ってきてから言うのもちょっと変だけど、モンマルトルでは何もなかった?」

「うん。ひとりでいたせいか、何人かに写真を頼まれたくらい」

「ははっ、たしかに。僕もよく頼まれるよ」

 千秋はスパゲティをすすりながら、萌菜の様子に笑う。

 そんな千秋に、萌菜は聞いてみたいことがあった。


「ねぇパパ。…パパはどうして、絵を描こうと思ったの?」


「?」


 口のなかをもごもごとさせながら、千秋はじっと萌菜を見つめる。なぜ今更、そんなことを聞くんだろう、という顔をしながら。


「…んー。今思うと僕は、絵を描くことしか知らなかったからかなぁ。ずっとおじいちゃんに育ててもらってて、時間はいくらでもあったし、外で遊ぶ気にもならなかったしね。絵が上手いとか下手とか関係なかったなぁ。ただただ好きだった、楽しかった。大学に進もうと思ったのも、高校のときに友達から「お前絵上手いから美大行けば?」って、何の気なしに言われたから興味を持ったくらいだしね」


「そうだったの?」


「美術の授業があるなら美大かなって。美大ならどこでもよかったんだよ、正直」


 そう言いつつ東京藝術大学に現役入学してしまうのは天才の証では…と、思わず萌菜は思ってしまう。

 千秋はなかなか家にいないため、こうしてふたりで話すことも珍しい。もちろん仲が悪いわけではない。萌菜は父親として、画家として、千秋を尊敬している。


「萌菜ちゃんはどうするの?」

「え?」

「萌菜ちゃんも、描いてるんでしょう? もしよかったら見せてくれないかな? まぁ僕の意見やアドバイスじゃ参考にならないかもしれないけど」


 萌菜は瞬間的に戸惑った。

 最近描いた絵といえば、今日スケッチしたパリの街並みである。そのほかスケッチブックには、人物デッサンがいくつかだ。

 見せたい。見せたくない。でもやっぱり、見てほしい。


 その後、千秋も萌菜も食事を済ませ、洗い物はキッチンへまとめて置いた。そこから、萌菜の絵を観る会が始まった。

「これ…今日モンマルトルで描いたパリのスケッチ。これが私の最新作」

「………」

 千秋は、萌菜の絵をじっと見つめ黙っている。隅から隅まで、それこそ、舐めるように。

 まるで、全裸を見られているような気分だ。絵とは本来そういうものなんだと、思い知らされる。

「…すごいね萌菜ちゃん。僕は風景画が苦手だから、このパリは本当にすごいよ」

「…え?」


 たしかに千秋が評価されているのは抽象画が多く、ダイナミックな作品が多い。それに比べれば萌菜の絵は見たものをそのまま描き、物事を繊細に描かれているという感じだ。

 千秋は本気で惚れ惚れとしていた。


 我が娘ながら、細かい描写が素晴らしい。パリの街並みが鮮明であり、人々も細かく描かれている。鉛筆一本でここまで描けるなんて、思いもしなかった。


「ほんとうに言ってる? パパ、私が娘だからって、お世辞じゃなくて?」

「本当だよ。確かに僕とは画風が違うからそう見えるのかもしれないけど、それでもすごいよ。鉛筆一本でここまで描けるなんて。いつのまにこんなに成長したんだい?」

 萌菜は疑いの眼差しを向けながら千秋を見る。世界的に評価されている人物、実の父親だが、こんなに褒められるなんておかしい。

「高校三年生の子にしてはよく描けてるって意味だよ。僕たまに学生の絵を批評してくれと頼まれるんだけど、よっぽど萌菜ちゃんのが上手いよ。どこで習ったの?」

「…美術部の先生や、先輩にちょっとだけ。あとは、自分が見えたものを描いてる」

「へぇ! 立派な才能だ!」

「でも! それだけなの…」

 萌菜は下を向き、これまで言われた言葉を思い出す。


「私の絵には個性が無い。パパみたいな独創性はもちろん、ゴッホ、ゴーギャン、ピカソ、マティス、ルソー、メアリー・カサット、ベルト・モリゾ、誰が観てもこの人が描いたっていうものが、無いのよ」


「………」


 千秋は萌菜の主張に、思わず黙ってしまう。


 随分と自分の絵を大物たちと並べるんだなぁ。だが我が娘ながら、同級生の子たちより描けているのは本音だ。パースも、影の陰影もよく出来ている。モンマルトルの丘でひとり、座ってスラスラと描いたようには見えないのだ。

「だからダメなの。私には、」

「でも萌菜ちゃん、それを学びに大学に行きたいんじゃないの?」


 え? 萌菜は思わず、頭の中にクエスチョンマークを出した。


 今の自分にはまだ、実力が足りない。だから絵の勉強をする資格がない。父のようにはなれない。だから別の道を選ぶしかない。

 そう、思っていたのだ。


「大学ってのは、学ぶ場所なんだよ。萌菜ちゃん」


 千秋からの言葉に、瞳に涙の鼓膜が出来た。

 私にも、目指していい場所があるのだろうか。


「パパ」

「ん? なんだい?」

 萌菜はスクッと立ち上がり、仁王立ちになって千秋の前に立つ。


「じゃあもし私が、来年一年なぁんにもしないで、絵だけ描くニートのままでもいいの?」

「いいよぉ。ニートは自分と向き合う時間だから、何か新しい発見があるかもね」

 千秋は、萌菜の描いたパリを改めて眺めている。


「じゃあじゃあ、大学受験したいからって、でも何度受けても受からなくて、何浪って繰り返してもいいの?!」

「いいよぉ。僕のときだって、仲の良い友だち、何歳も年上の人いたしねぇ」

 自分の学生時代を思い出しながら、千秋は言う。


「じゃあじゃあじゃあ、やっぱり日本の大学行きたくないから、パリの美術学校行きたいって言い出してもいいの?!」

「おぉー。それもいい考えだねぇ。もっと言葉も覚えるし、いろんな新しい友達も出来るよ。ここから通えばいいしね」

 千秋はケラケラと笑いながら答える。


「………」


 萌菜はそれ以上、何も言葉を告げられなかった。

 きっとこの父は、私が何を言っても、何をすると言っても肯定するだろう。

 こんな愛情が、あっていいのだろうか。

「………たい」

「ん?」


「絵が描きたい」

 萌菜は宣言する。

 何者になりたいかなんて、もうずっと、自分の心が指していたのだ。


「私も、絵が描きたい。堂々と【絵を描いている自分】になりたい」


「…僕が言うのもなんだけど、大変なこと、いっぱいあるよ?」

 千秋は机で腕を組みながら、萌菜を見つめる。

「五十嵐千秋の娘だって言われるかもしれない。親の七光りだって言われるかもしれない。それなのに対して上手くないなって言われるかもしれない。それでも! 私は絵を描いているときが一番幸せで、落ち着く。自分の、人生にしたい!」


 萌菜の決意は、千秋が思う以上に固かった。

 十八歳の女の子が、進路に迷う娘が出したひとつの答えである。

「萌菜ちゃんは恵まれてるからね、僕はいくらでもバックアップするよ。きっとそれは志津子ちゃんも同じ考えだ」

 思わぬ決意表明に肩から力が入り、息が絶え絶えになる。


「どんな人生だっていい、ってのが正直親なんだ。でも、萌菜ちゃんが本気で絵の道に進みたいなら、これから進むなら、一緒になんでもやっていこう」

 千秋は優しく微笑み、萌菜と対面する。

 その優しさに萌菜は涙が止まらなくなり、両手拳にも力が入る。


「…うっ、うっ、…わーーーん」


 本当はずっと、わかっていたんだと思う。

 絵の道に進みたいこと。父と同じ世界に行きたいこと。こわくてこわくて、ずっと言えなかった本音がやっと爆発したのだ。


「萌菜ちゃん。自分と向き合うことが、絵を描くことの一歩だよ」

 千秋は立ち上がり、萌菜の頭を撫でる。

 久しぶりの父娘の再会に、千秋は父親らしいことを言えたのか不安ではあったが、絵描きの先輩としては伝えられた気がした。









 その年の冬、萌菜は東京藝術大学を受験したが不合格だった。

 それ以外の大学は、受験すらしなかった。


 一浪目は予備校の補講を受けたり、千秋のいるパリに行ったりしていた。閑散期にルーヴル美術館でレオナルド・ダ・ヴィンチの模写をしたときは、さすがに腕が震えた。

 受験勉強とは別に、自分の画風も探してスケッチをしている。描いても描いても、答えが見つからない。なのに、楽しくて堪らない。

 そんな様子を母・志津子も見ながら、「さすが親子そっくりね」と笑った。


 そして、二回目の冬が来た。

 千秋は一時帰国し、志津子も料理を山のように準備していた。


「じゃあ、行ってきます!」


 受験に向かう萌菜の顔は、精悍とした画家そのものだった。

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