隠棲者の物語
田辺すみ
隠棲者の物語
Oは倦んでいる。
無謬であるがために。
天の高みから、大海の底から、人々の間に交じり、木々の奥に潜み、
我々を見ているのだ。
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その世の全てに長けたヒトがいるとすれば、Oである。Oはその知識と技能を以って、あらゆるヒトを導くことができた。高速演算機、長距離通信機、あらゆる種類の製造機、交通を改善し、人文・自然科学研究を飛躍させ、政治機構を効率化し、貧困の撲滅、紛争の和解に努めた。ヒトビトはOを賞賛し、Oに従った。Oは最高の権力と権威、富を手にしたが、Oの目指すものは異なった。
Oは美しい世界のおとずれを願っていたのである。
ヒトの争いは醜い、その直接的な原因は富の不均衡と異文化間の不寛容である。Oは再生可能資源の開発と流通を促進し、貧困層のヒトビトに職を創造し、教育制度を改革した。その世のあらゆるヒトビトが、より善い教育を受け、技術を得て産業に貢献し、共栄を謳歌できるようになった。
環境破壊は醜い、再生可能資源開発と持続的な産業発展、動物愛護、里山保存、自然と融和した生活様式がさまざまに編み出された。
医療は進歩し、不治の病など無くなった。Oはそれどころか、不老長寿の技術を確立した。螺旋構造が劣化せずに、完璧に複製されていく方法だ。ヒトは死の恐怖から解き放たれた。戦争も飢餓も困窮も病気も社会関係の軋轢も、もはやヒトを脅かすものにはなり得なくなった。
世界と、世界におけるヒトは、美しく完善なものとなった。
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しかしやがて、Oは気がついた。この頃にはヒトは全て不老となっていたが、人口が増えない。戦争や貧困が存在した時代にも増え続けていた人口が、緩やかに減り続けていく。つまり子供が生まれないのだ。その世が完善で美しいものならば、何故ヒトは増えないのか。
Oの側にはいつの頃からか、Iという人間がいた。二人は親しい間柄であるように見えたが、その関係に名前を付けることは許されなかった。誰かを特別と位置付けることは、他者への差別に繋がるためである。そのIまでも床に臥したと聞いて、Oはとうとう駆けつけた。
子供は生まれないでしょう、我々は我々の本質を知っている。あなたの導きがなければ、互いに争い、弱者から奪うものです。我々は罪深く、世界に不要なのです。
Iの浅くなった息で語られた言葉に、Oは理解した。善くあることを教え続けたがために、ヒトは自らを善くないものと認識し、消滅を選んだということだ。Oは完善であるはずの世界を見渡し、愕然とした。
美しさは、醜いものが在って初めて美しいと認識されるのだ
ヒトが存在しなければ、美しさという概念すら存在しないのだ
ヒトを取り戻さなくてはならない。保存された遺伝子情報から再生する技術はある。Oならばできる。記録の辿れる限り、かつて生きたヒトビトを呼び寄せよう。だかそれだけではまた繰り返す。Oを残して、全て去っていく。たがために、やり直すのであれば、Oは最早ヒトに干渉することはできない。ヒトが争うままに、奪うままに、愚かなままにしてやらなくてはならない。己れに絶望したOに、Iは微笑んだ。
ならばやっと言えます。それがどんなに独善的であるかも知っておりますし、恥じておりました。あなたに見放されることが怖かった。けれども、もういいでしょう、私の時間は終わります。失われる前にくらい、告げさせて下さい。––愛しています
∞
しかして、神は倦んでいる。
無謬であるがために。
彼は万能であるが、何もできない。
天の高みから、大海の底から、人々の間に交じり、木々の奥に潜み、
我々を見ているだけだ。
我々から生ずる美しさに、我々の語る愛に、
己れの孤独を哀れむ隠棲者と成り果てて。
隠棲者の物語 田辺すみ @stanabe
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