変わらぬ二人

「僕、リノ・ライノでまたモジュール公開始めるよ」

 翌朝、リノはベッドの上でクリスの腕の中にがっしり抱きしめられたまま、なにげなく彼にそう打ちあけた。クリスが変な気を起こさないように、世間話を続ける必要があったのだ。

 しかしその内容は世間話として扱うには重すぎた。クリスは躊躇いがちに尋ねた。

「……またカミナの手柄にされるかもしれないぞ」

「そうかな? 王様はリノ・ライノの名乗りを許可してくれたんでしょ。それに、モルガン工房所属のリノってことにするし。次は大丈夫かもしれないよ」

「……そうかもしれないけど。一応今日バックアップ取っとく?」

「ああ、バックアップはもう必要ない。僕、全置換したから」

 リノがさらりと発したその言葉に、クリスはしばらく絶句していた。全置換とはつまり、生身の脳細胞を全て放棄したということだ。

「……いつの間に……」

「発話するたびに生体スキャンしてたら遅すぎるからね。モジュールベースで考えるようにしたんだ」

「ってことは、会話モジュール入れた時?」

「そうだよ。だから本当はお前には泣いて喜んでもらいたかった。なのに最初の反応が『うるさい』だもんなぁ」

「いやマジでそこはごめんってば」

「もう良いけどね。……もし次自殺したら、僕はもう蘇生できない。脳は不慮の事故なんかでは死なないようになったけど、僕の意思でいつでも消去できるようにもなった。だからあんまり、僕に変な気を起こさせないようにすることだね」

「……脅しか? このままお前を襲ったら廃人になってやるぞってこと?」

「良く分かってんじゃん。僕の合意無しで事を運ぼうと思うなよ」

「そっかぁ……抱いていい?」

「今の流れで良い要素あったか!? ダメに決まってんだろ」

「じゃあせめてこのまま一緒に寝てて……」

「まあそんくらいなら、良いけど」

「ありがとう」

 リノはクリスが黙ってしまったので、寝たのかな、と思った。背後から抱かれているから分からない。彼の鼻息が自分の首筋に当たりつづける。危険な予感がしたため、その部分の感覚を遮断した。

「……リノ。なんで急にモジュール公開するって言いだしたの?」

「起きてたのか。……昨日、思ったんだ。僕はもう大丈夫だって。名前間違われたくらいで死ぬような奴じゃないって。それならお前が望むとおり、僕の名前を世間に出していくのも、悪くないと思ってね。お前が喜んでくれるなら、僕は世に出るよ」

「もちろん、嬉しい。俺が嬉しいとお前は幸せか?」

「もちろん、幸せだよ。僕の幸せはお前が喜んでくれることだ」

 ま、それだけじゃないけど。お前を泣かせる時も同じくらい幸せだけど。そこは僕らのために伏せておかないとね。

「リノ……愛してる」

「知ってるよ」

「それはそれとしてリノちゃん貯金はするから」

「まあ、期待しないで話だけ聞いとくよ」

「俺そんなに金遣い荒いかなぁ」

「ちょくちょく女につぎこんでない? ツケで飲むことも多いだろ」

「確かに今はすっからかんだけど……。これからは頑張るからさ」

「はいはい。日帰りで行ける外国もあるしね」

「……モルガン工房のリノの方が稼ぎそうだよなぁ」

「そこは甲斐性見せろよ……」

「ふふっ……」

 首筋の感覚を遮断しているリノは、クリスがした口づけに気づかなかった。


 やがて遅い朝食を調達しに、クリスは地下階のバーに降りていった。店主のモルガンはもう就寝中だろうから、クリスが作る必要がある。リノはベッドで留守番だ。料理……多分リノにもできないことはないけれど、リノはクリスに作ってもらうのが好きだったし、クリスもリノに作ってやるのが好きだった。

 クリスの匂いの残る布団にくるまって、昨夜の夢を反芻する。毎晩のようにあんな夢を見るものだから、罪悪感は、最近ではもう全く感じない。うっかりおかしな寝言を言うリスクはないから、平気な顔して冒涜の限りを尽くせる。

 僕が好きなものは血、悲鳴、痛みに歪む顔、縛られ鬱血する肌、火傷、この手の中にある命……。

 そんなもの、僕を大事にしているクリスから搾取できるわけがない。

 今はいい時代だ。成人認定された僕は、適切な対価さえ支払えば、拡張現実の中でさまざまな体験をインストールできる。本物のクリスに手を出さずに欲求不満を解消できる。

 仮想空間で愛しい人を模した素体に体を預けながら、けれど今朝ははっきりと、物足りなさを感じていた。

 昨夜バーで無理矢理に奪われた唇の感触が、忘れられない。

 欲しいと願えば手に入ってしまう幸せを我慢することは、とても苦しい。

 苦しいけれど、僕にはできてしまう。

 あのまま押したおされて抱かれてしまえば良かった。勢い余ってクリスを傷つけて、それで嫌われてしまえば良かった。でも僕はそこまで愚かにはなれなかった。クリスとずっと一緒にいたいから、僕はクリスを拒否しつづけるしかないんだ。

 その反動があの陰鬱な夢見なのだとしたら、僕はせいぜいアレを独りで楽しむのがいいんだろう。

 もういっそ、クリスになれたらいいのに。

 あいつの中の綺麗なリノちゃんとしてだけ生きられたらいいのに。

 僕が僕のまま、あいつの理想通りに生きられる見込みは絶望的だ。この胸は血を見るとドキドキするし、頭はモジュールになっても酷い夢や妄想を突きつけてくる。

 どうして僕はこうなんだろう……。どうしてあの善良な両親からこんな僕が生まれたんだろう。神様だというなら助けてほしかった。だけど〈雷様〉は僕の事情なんかきっと知らない。僕だって開示する気もない。僕は僕を殺して生きていくしかない。

 でもそうしたら、僕はこのままクリスを苦しめつづけることになる。

 早く、本当にクリスにふさわしい相手が現れればいいと思う。王様になるあいつの隣で、僕がどんな振る舞いをしても、あいつの心の支えになってやれる人が、いてくれれば、僕は……。

「リノー、朝飯できたぞ」

「……遅いし」

「そう? 待たせてごめんな」

「違う……ああもう。早く食べよ」

 僕がイラついていても積極的に食事を摂ろうとしているのが嬉しいんだろう、クリスはニコニコしてテーブルに盆を置いた。どうやらクロックムッシュだ。ホント、凝り性だよな。


「ほい、ナイフとフォーク」

「別に、手で良いよ」

「熱いぞー?」

「スクープ使うから平気」

「汁には気をつけろよー」

 僕が十指でパンを浮かせてちまちま齧っているのを、クリスが四つ切りにしただけの大きな一片を口に放りこみながら満足そうに見てくる。上品で好ましいと思われているかもしれないが、僕が小口で食べるのは、クリスに歯を見せたくないからだ。噛み裂く牙を持っていると思われたくないからだ。

「……外国に行ったらさぁ、スクープも使えないのかな?」

「割と電力消費するから、もったいなくて使えないかもね」

「そうかー、外は大変だなー」

「別に僕は行かなくてもいいよ、お前だけで行くのは嫌だけど」

「やっぱ俺がいないと淋しくて死んじゃう?」

「んなわけない。妬ましいだけ」

「大丈夫だよ、大好きなリノを置いてくわけないだろー!」

 否定したのに、伝わってる気がしない。僕が会話モジュールで何を言っても、クリスは僕の心を見透かしてくるようだった。

 良いんだな?

 お前がそう言うなら、僕は本当にずっと一緒にいるぞ。

 僕が狂ってもお前が狂っても、解放してやらないぞ。

 このままずっと、変わらぬ二人で。

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