醜悪な天使

 ……ああ、やっぱり死んでしまいたい。

 僕は気づくと果物ナイフを手にしていた。あれ、これ、前にも無かったっけ? 喉を掻っ切った理由。ホントに、名前を間違えられたから、だけだったのだろうか?

 もう、思いだせない。生きのこっていたはずのニューロンは全部切りはなした。でもパターンは一応スキャンしたから、完全な再現でなくても、なんとなくこんなことがあった気がする。いや、勘違いかもしれない。十四歳の僕が、そんな加虐趣味を自覚するなにごとかと直面するだろうか?

 とりあえず、果物ナイフは棚に戻せた。記憶の方に意識が行って、少し落ちついたのかもしれない。端末の前に戻る。端末にチャットが来ている。クリスだろう。今は、見たくない。そう……まだ僕は……正気でいたいから……。


 唐突に、思いだした。思いだしてしまったと思った。あるいはそれも、思いだしたと錯覚したリノの妄想だったかもしれない。あの日、あの未明。僕はナノ速を見た。名前の件には、もちろん腹が立った。蒼天の誰かの仕業だ。なにもかもぶち壊してやりたいと思った。責任者を一人一人……いろんなやり方で苦しめて……殺したい、と。その次はカミナを。カミナは死なないから、やり甲斐がない。そこにクリスが来る。僕はクリスを琥珀宮に引きずりこんで、全身全霊の愛を込めて、クリスが息絶えるまで、犯しつぶす、そんな妄想をして。

 初めての自慰をしたんだ。


(なぁんだ……)

 僕は自嘲した。

 なんにも、生まれかわれてなんかなかった。

 僕は結局、あの時のリノのままで。

 ただ、環境が変わって、幸せな夢を見ていただけだった。

 クリスは僕にとって劇毒だった。あいつが僕の部屋に来なければ、ただの高慢で天才なクソガキのまま、リノ・カミナリノとして全てを実力で蹴散らしていただろう。誹謗中傷なんて些細なことだ。そんなことで死を選ぶくらいなら、そんなに僕が繊細なら、どれほど気も楽だっただろう。

 そうか、だからクリスは僕のことを硝子細工のように扱ったんだな。残念だけど、そんなことで死ぬほど傷つくのはお前くらいのものだよ、優しいクリス。僕の光の英雄。お前が僕を見つけ、幸福な光の中に誘いだし、闇に隠れていた僕の醜い本性を暴きだした。お前が僕を死に追いやったんだ。お前のおかげで、死ねなかったけどな。

 でも、と僕は思いなおす。少しは成長したんだと思う。僕はもうクリスのものだから、勝手に死を選ぶことはできない。それを思いだせただけでも進歩でしょ。僕は端末をベッドに置いてゴロンと寝ころんだ。いつの間にか火照りは消えていた。自分の情けなさに萎えてしまったようだ。なにげなくチャットを開く。

 クリスの情けないチャットが連投されていた。

 僕は自分の頬が緩むのを感じた。

「……格好つかないね、僕ら」

 ドアの外にいるクリスに声を届ける。

「……」

 何か返事があったようだが、聞こえない。僕は溜息をついて、ドアを開けた。

「全然、聞こえないんだけど」

「……格好良い必要あるか? って……言ったんだ」

 クリスは部屋に這入ると、そのまま床に転がった。

「布団で寝ろ」

「寒い……もう動けない」

 トニトルスは雲の上の街。なんの防寒もしていない夜は死ぬほど冷えこむ。ボディメンテモジュールの体温維持機能など焼け石に水だ。この場合は、雪雲に水か。僕はふたたび溜息をついて、テストがてら自分にインストールしていた試作段階のブーストモジュールを起動した。ひょいとクリスを抱えあげ、ベッドに下ろす。

「へっ? はっ? なに今の」

「さっきお前に力負けしたから今まで作ってた」

「えっ? この数時間で?」

「うん。腹立ったからめちゃくちゃ頑張った」

「天才かな? 天才だったわ……知ってた……」

 クリスがうわ言のように呟く。

「そうだよ、僕はお前なんかに抱ける男じゃないんだ。分かったか? 犬は犬らしくいい子にしてろ」

 闇は闇らしく。光は光らしく。混じってはいけない。僕はクリスを突きはなす言葉を紡ぐと同時に、自分を戒める。

「え、押したおされる展開じゃないのか……」

「お前ホント脳天気な奴だよな。僕の趣味じゃないって言っただろ。ていうかお前に男としてのプライドとか無いの?」

「俺はリノから愛されるならどんな愛され方でもいい」

「……馬鹿だなぁ」

 クリスがベッドに横になったまま、おいでと両手を拡げる。

 僕はもう迷わない。

 クリスの腹の上にどすんと腰掛けた。クリスが呻く。

「うぇっ……そうじゃないでしょ……」

「知らないよ。寒かったんでしょ? 腹暖めてやるからさっさと寝ろ」

「意地悪ですねリノちゃんは……」

 クリスはそう言いながら目を閉じた。すぐにいつもの規則正しい寝息が聞こえてくる。僕はそっとクリスの腹から降りて彼の隣に寝ころび、手を握り、唇にキスをした。今の僕なら、こういう我慢の仕方もできる。僕は自分に満足して、彼の隣で眠りについた。


 夢を見た。

 僕は夢の中で、クリスを血だらけにしていた。

 右目は潰れて血を流し、怒りに満ちた左目が僕を睨む。医療モジュールですぐに治らないということは、その右目の奥は空洞になっているに違いなかった。

 クリスは僕を組みしいて硬い床に抑えこんでいた。この冷たい床は、カミナと母様が住まう金剛宮の大理石か。

 ああ、と僕は理解した。これから僕は、ここでクリスに断罪されるのだ。

 頬が勝手に壊れた笑みを浮かべる。胸が高鳴る。グロい成人向け映画で散布されるような、血と汚物とさまざまな体液の臭いが漂う。察するに、僕は既に誰かを……誰か達を蹂躙した後なのだろう。僕を絞めるクリスの腕に籠められた力が、本気さを物語っていた。

「……クリス」

「もう喋るな。俺の正気が保てなくなる」

「クリス。僕はね」

「やめろ……」

「僕は、生まれた時からこういう奴なのさ。

 僕は、悪だ。お前に愛されて、救いだされて、求められても、光の中では生きられない悪だ。こんな事態になるまでお前を騙していて、ごめん」

「嘘だ……リノ、お前は今、憎しみを発散させて少しおかしくなっているだけだ。俺のリノは……」

「お前の思う可愛らしい天使のリノちゃんは、ずっと昔から、ただの幻想だ。これが、僕だ。お前の腕の中で血まみれになって悦んでいるバケモノが、僕なんだよ、クリス」

 クリスの顔が歪み、それから僕の唇に唇を重ね、中を乱暴に荒らしてきた。普通の人間なら舌を奪われ、それで何も言えなくなるのだろう。でも僕は声で話しているわけじゃないから、止まらなかった。

「お前を傷つけたくなかった。だからずっと本性を隠してたんだ。でもこれは夢だから……許して……いや、このまま殺してくれ。ごめんね、クリス」

「……!」

 クリスの右手が僕の頬を、そして首筋を這う。片手でこの首を絞められるほど、お前の手は大きくて。

 お前は僕の言うことならなんでも聞くよな?

 お前が今僕を殺らなければ、僕がお前を殺すんだぞ。

 それが分かっていて僕に罪を重ねさせるお前じゃないよな?

 けれどクリスの手は、そのまま僕の腹を滑っていった。

 そうか。お前はこんな状況でも僕が欲しいのか。

 救いようがないな、こんな夢を見る僕は。

 僕の欲望を叶えるためでしかない妄想の快感と歓びと虚しさと怒りが全身を襲う中、僕は悪夢を終わらせるため、目の前の喉笛に勢いよく喰らいついた。

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