献身の茶色の獣

「……だんまりですか? まーいーや、アイス食べよー!」

 クリスが諦めてカップを取りだす。どうぞ、と手渡されたので感謝のリアクションで返事した。喋ってやんないもんね。

 スプーンは付いてない。指のスクープモジュールで浮かせて食べるもののようだ。不器用な奴には向いてない食べ方なんだけど、クリスはぱくぱく食べ進めている。こいつ、見かけによらず手先が器用なのか!

 負けてられない。僕はサクッと空気のナイフをアイスに差しこみ、一口掬いとった。帯電の加減を見計らって、口元で反発させる。

 よし、ちょっと唇掠めただけでちゃんと食べられた……。

「おいし……」

 安心して、思わず素直な感想が出た。しまったと思ったが、もう遅い。クリスが嬉しそうに僕を見てきた。

「ねー! おいしーねー。一人で食べるよりわけあいっこした方が良いね、やっぱり!」

「……味は分かったから、一人で食べたいなら残り食べていいよ」

「話聞いてた!? あ、もしかしてスクープ難しい?」

「別に。疲れただけ」

「味変気にならない?」

「面倒くさいが勝った」

「仕方ないなぁ……」

 クリスが僕のカップを取りあげ、ひょいとスクープで僕の口元にアイスを持ってきた。

「リノちゃん、あーんして」

 子供扱いしやがって。でも、おいしいアイスを放棄するのは正直惜しい。あ、と口を開けると見事にアイスがロスなく舌に着弾した。悔しいけど、僕より上手だ。僕は諦めてされるがままに餌付けされた。

「も一個の方にパッチ使う?」

「うん……」

 僕が頷くと、クリスは二つのアイスにパッチシートを被せた。みるみる溶けて染みてゆく。先にクリスが食べて、んー?と首をひねる。

「何の果物だろ、これ?」

 そして僕にも。

「……ブドウじゃない?」

「あー確かにー! 面白いなー、全然味が違う」

「感覚が騙されてるだけだけどね……、」

 おっと、また技術の話をしそうになった。クリスがじっと僕を見てくる。僕は黙って口を開けた。

「……ねえ、リノちゃん」

「ちょーだい」

「ほい。……あのね、俺、大丈夫だから。ちゃんとリノちゃんの研究の話聞きたいし、役に立つかは分かんないけど、なるべく理解できるように頑張るから、さ」

「無理でしょ」

「かも知んないけど……」

 クリスが一瞬情けない顔になり、それから真面目な顔つきに戻る。


「……俺はリノが目指すものの邪魔をしたくない。でも、一緒にいたい。だからそうやって口を閉じるの、やめてくれ。俺にも分けてよ、お前の世界」


 なんだ、急に。

 僕の心臓が変に跳ねあがる。

 アイスの食べすぎ?

 いや、これは。

 何?

「……分かった、もう知らない。好きにしろ」

「おう、大好きだよ」

「違うって……」


 その言葉は、孤高の僕を破壊した決定的なプロポーズだったと今でも思っている。



 ……僕には不思議だった。こんなに昔のことはきちんと思いだせるのに、ある日を境に記憶が曖昧になるのだ。そして再び記憶が繋がりはじめるのは、僕が自分を見失ったところからだ。僕は何かの事故にでも巻きこまれたのだろうか?


 繋がりはじめた記憶の中の僕は当初、脳細胞の活動のさせかたすら忘れてしまったように呆けていた。クリスに髪を梳かれ、体を拭かれ、食べ物を口に運ばれ、下の世話までしてもらっていた。

 クリスが僕のことをリノと呼ぶので、少しずつ少しずつ、頭が働きだした。言葉の意味がまだよく分からない頃には、クリスの血を食べ物だと勘違いして彼を傷つけた。今では申しわけないと思っているが、またそのうち舐めてみたいな、と悪い考えがよぎることもある。あの時は僕がおかしかったから許してくれたけど、今ならどうだろうか。少し寂しそうに笑って、また抱きしめてくれるだろうか。


 僕がだんだんと快方に向かい、頭が以前の冴えを取りもどしてくると、クリスは辛そうな顔をすることが増えた。たいていクリス自身も気づいていないような一瞬だが、例えば僕があいつの端末を奪って動かし方を思いだしていた時や、喉の傷の話をした時なんかは、はっきりとそう見て取れた。僕には、クリスが以前の僕に戻っていくのを嫌がっているように思えた。何か、思いだしてはマズい事件でも、あったのだろうか。

 決定的だと感じたのは、僕が久しぶりのナノ技に興味を持った時、昔のやつから読めとアドバイスしてきたことだった。その頃にはもう完全に、一年前くらいまでの記憶は取りもどしていたし、その記憶がモルガンの店で脳細胞をスキャンしたところでとぎれているのも知っていた。恐らくその後、そこまでロールバックせざるを得ないほどの何かが、僕の身に起きた。そして僕が再び以前の僕に戻れば、きっとまた同じことが起こると、クリスは思いこんでいる。つまりそれは、僕自身がしでかしたということだ。ナノ技の最近の号に何かのヒントがあるに違いない。そう思った僕は、クリスの寝ている間に、最新号から遡ることにした。


 答えはすぐに見つかった。僕が研究していた色覚補正モジュールの特集が組まれていたのだ。

 開発者は、リノ・カミナリノ。

 ははん、なるほどね。僕は思わず鼻で笑った。そう、これは確かに、琥珀宮で鬱屈していた僕には耐えがたい暴力だっただろう。

 ……くだらない。


 もう、今の僕は、琥珀宮のリノ・カミナリノじゃない。モルガンの店の上の作業部屋に命の恩人と二人で暮らす、生まれかわったリノ・ライノだ。

 間違いない、琥珀宮で僕は自殺を試みた。この喉の傷はそれだ。カミナが止めにこないように、ひと思いに掻っ切ったのだろう。そこにきっと、クリスが先に来た。そして僕をここまで連れだしてくれた。蒼天の医療機関はどこよりも充実しているのに、わざわざこんなスラムのような所まで、恐らく復活した時の僕の気持ちを考えて、モルガンの腕と、僕らの悪運を信じて。

 それってもはや愛じゃんね、と僕は満面の笑みを浮かべた。隣で寝ているクリスに抱きつきたかった。でも、この大馬鹿者は、僕が生まれかわったことに気づいていない。素直にご褒美をくれてやるのは癪だった。

 そうだ、まだ知らないフリをしよう。喉の傷を治すのはやはりナシだ、これはクリスが僕を救ってくれた証。死ぬまで残しておきたい。ただ、鐘だけだと不便だから会話モジュールを作ろう。発話したいと思考するだけで相手の聴覚拡張モジュール(体内イヤホンなど)に届くやつがいい。

 お前が僕のことを好きなのは知っている。僕だって、お前のことが大好きだ。でも僕はその気持ちに真っすぐ応えてやることはできない。だからせめて、お前には幸せな嘘をつき続けてやりたいんだ。

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