獣の本能

 目覚めたリノは獣のようだった。

 喉の傷は医療モジュールが働かず、自然治癒に任せているためまだ塞がっていないが、それが不快らしくすぐに傷を掻きむしろうとするので、俺はつきっきりでリノの看病をした。言葉遣い以外は上品で儚げでさえあったリノが快不快をはっきり示し、腹が減った分だけ貪り食べるのを見ていると、生きていてくれて良かったと思うと同時に後ろめたい気持ちにもなる。こんな姿で生き長らえることを、こいつは望んだだろうか。

 リノは喋らなかった。モルガンによれば、発声器官が損傷しているとのことだった。本人が話したいと思えば医療モジュールが治してくれるだろうと彼は楽観視していたけれど、リノは俺が話しかけてもムスッとした顔でこちらを睨んでくるばかりだ。話すという行為を理解できているのかすら怪しい。

 ただ、俺という存在には興味があるようで、傍に俺がいないと拗ねるし、俺が何か作業をしていると邪魔をするし、俺が諦めてリノに向きあうとひとしきり俺の顔で遊んで、満足したように眠るのだった。俺はようやく金色の仔猫が眠ったかと、リノの額にキスをして、拡張現実上に存在する自分の端末を開いて学校の課題をモルガンの店でこなす。二週間ほど、そういう日が続いた。


 その日、急にリノは立ちあがった。脳内に埋めこまれた脳細胞補完モジュールが機能しはじめたのだろうか。俺は呆気にとられて、うろうろする彼を眺めていた。色んなものを手に取っては首を傾げながら見て回る。危ないものは……っと! 俺はリノが果物ナイフに手を延ばしたので思わず取りあげた。死にたいという気持ちすらもう残っていないかもしれなかったが、危険なことには変わりない。

 リノが不服そうにこちらを見る。俺は仕方なく、その刃物の先で自分の指を突いて見せた。視界に警告が出たので、痛みを遮断する選択をする。ぷつりと血が出る。痛くないはずでも、見ているだけで痛い気がしてくる。リノは興味深く俺の指を取りあげて、あっという間に傷が塞がるのを眺めていたかと思うと、ぱくりとくわえやがった。血が舐めとられる。ざらざらとした舌の感触が指先を這い、何ともいえず背筋がぞわりとした。

「……俺の血、うまいか?」

 リノは指をくわえたまま俺の顔を見る。無の表情だ。そりゃそうだろう、他人の血なんて飲めたもんじゃない。

「今の見ただろ、あれは危ないものだから、お前は触るな」

 そう教えてやると、リノは言っているそばから果物ナイフに手を延ばし、無造作に俺の手の甲に突き刺した。

「ってぇ!? 何しやがんだこの……っ」

 すぐに痛みを遮断するが、それでも刺さった瞬間は痛かった。果物ナイフを手刀ではたき落とす。リノはちらりと果物ナイフを見やり、それから俺の手の甲を舐めようとした。獣に血の味を覚えさせてしまったか。俺は慌てて手を引っこめて、リノを睨んだ。

「ダメだ。リノ、血は食いもんじゃない。人の体を傷つけるのもダメだ。ほら、お前に怪我させられたから、俺は怒ってるぞ。分かるか? 俺は、お前に、怒ってるんだ。」

 人形のように可愛らしいリノの真っすぐな黒い瞳が俺の表情を読みとろうとする。ここでほだされてはいけないと、俺はつとめて怖い顔をしてみせた。やがてリノはそのインプットをリノなりに整理したらしく、悲しそうな顔になると、キョロキョロと辺りを見回し、モルガンがいつもふかしている煙草を俺に差しだした。俺は思わずきょとんとリノの顔を見てしまったけれど、リノは真剣なようだ。胸に押しつけられて、俺はこいつの意図を理解したと同時に、久々に声を上げて笑った。

「ああ、もしかしてこれ、食いもんだと思ってる? はは、俺は煙草はまだやらないよ。そうか……俺が怒ったから、機嫌取ってくれたのか。リノ様にそんなことさせたなんて、お前が正気に戻ったら俺は何されるか分かんないな!」

 リノは少しずつだが、人間らしさを取り戻してきている。俺は嬉しくなって、小さい金色の獣を抱きしめた。リノはあまり理解できていないようだったものの、抱きしめられるのは気にいったらしく、嬉しそうに目を細め、鼻をフンと鳴らした。


 そこからは本当に回復が早かった。

 リノは何かにつけ意思表示をしたがったので、俺はリノに手持ち鐘を持たせてみた。リノはカランと鐘を鳴らすと俺が反応してリノに寄ってくるのを楽しんでいた。赤子のようでちょっと面白かった。でも、そのうち「ご飯」「早くしろ」「あっち行け」「こっちに来い」「眠い」など全てを鐘の音で解決しようとし、俺が察せないと不機嫌になるので大変になった。

「リノちゃん、そろそろ喉治して喋ろうとか思わない?」

 俺がそう尋ねても、返ってくるのは鐘の音ひとつ。今は仕方ないか、と俺は諦めた。もう少し会話できないことの不便さが身に沁みればきっと、またあの可愛らしい声が聞けるだろう。


 リノは拡張現実上の俺の端末に興味を示し、しばらくパチパチと打鍵していたかと思うと、急に指を早めた。体が何かを覚えていたのだろうか。俺は画面を自分の視界に共有した。何の数列だ、これは……と、眺めて思いあたる。円周率だ。なんでこんな記憶を生きのびさせて、人間らしさの記憶を失わせたのか。俺は運命を恨んだが、当のリノは一心不乱に打ちこんでいる。楽しめているなら良いか、と俺は放置することにした。課題なら、こいつが寝た後にやればいいし。

 リノが寝た後に端末を開いた俺は、後回しにしていた数学の課題が全部リノによって勝手に終えられていたのを見て目を剥いた。


 リノは自分の体にも興味を持ったようだった。鏡を見て、俺を見る。俺は短い茶髪だし、十六歳にしては大柄だし、長い金髪で華奢きゃしゃで薄幸そうな美少女と言えなくもない十四歳のリノとは全く見た目が違う。別の生き物だと思われても仕方ないくらいだ。少なくとも叔父と甥の関係だとは、血が繋がっているとはとうてい思えない。

 リノが鏡から離れ、俺にずいと近よる。不思議そうに見あげてくるので何だろうと俯くと、ぐいと顎を押しあげられた。喉を、確認しているのか。

「俺には傷はないぞ。リノの傷はリノが付けたんだ。覚えてないか?」

 いや、不用意に思いださせるようなことを言うべきではなかったか。口にしてからしまったと思ったが、もう遅い。リノはしばらく自分の喉に手を当てて考えこんでいた。そして興味を失ったのか、自分の端末を開いて作業を始めた。

 俺はこっそり安堵した。今リノが触っているのは、俺の端末を弄らせないように、モルガンが用意した彼のお下がりだ。本来のリノのものを琥珀宮から持ってこさせることもできるけれど、今はまだその時ではない。そこには、リノ・ライノと認められずに死を選んだ、それまでのこいつの全てが詰まっているだろう。そんなもの、今のこいつには劇薬に違いないのだから。

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