ある夭逝した天才の記憶

千艸(ちぐさ)

死にかけの金色の獣

死にかけの金色の獣

 信じられなかった。

 大馬鹿者だと思った。

 ただ、彼は本気だった。

 本気で死のうとしていた。

 それは俺も十分理解できた。


「……っの馬鹿野郎!」

 俺はリノを抱えてその部屋を飛びだした。

 幸い、こいつは未成年で、個人意思の尊重の適用外だ。自殺しようとしても、医療モジュールは無慈悲にこいつを蘇生してしまうだろう。だが、命が助かるだけだ。ほかの重篤な障害が残る可能性は大いにある。まずこいつの意思を変えなくてはならない。生きたい、治療したいと思わせなくては。

「おい、死ぬなよ、リノ……!」

 俺は声をかけ続ける。医療室? 研究室? いや、ダメだ。この宮殿のどこにも、リノの居場所なんかない。まずここから、雷様から逃げなければ、リノの目を覚ますことなんかできない。

 ゴンドラじゃ遅すぎる。免許は持っていないが、親父のボードを借りよう。幸い親父殿は俺に甘く、練習にでも使えと例外処理をしてくれている。ぶっつけ本番でハイウェイを飛ばすことになるとは思っていなかったけれど、ドライバーツールは今ダウンロードしている。恐らく大丈夫だろう。

 目指すは、リノの母親の実家。雷様のことを毛嫌いしている、あのへそ曲がりなおっさんの店だ。

 俺はリノを後部座席のシートに横たわらせ、その小さな額に右手を当てた。……冷たい。血を失いすぎているのだろうか、俺にはよく分からない。ただ、死にはしないはずだ。それを信じて、俺はボードを起動した。


「モルガンの叔父貴おじき! 聞こえるか!?」

 俺はボードを駆りながら目的地の主に通話を試みた。

『…んだぁ? クリスのンかよ。こんな朝っぱらから何の用だ。店閉めたとこだぞこっちは』

 不機嫌そうなおっさんの声。普段なら萎縮してしまうところだが、今はとても有難かった。

「悪い、緊急なんだ。リノが喉って死のうとした」

『あぁ!? ……! ……、そんでお前はどうした』

 途中ガラスの割れる音がした。モルガンが何か手近な物に当たったのだろうか。俺はちょっと驚いたがハンドルさばきに影響は無かった。なかなかやるじゃん、俺。

「俺が見つけて、とりあえず琥珀宮こはくきゅうから連れだした。叔父貴のとこで治してもらうのが一番だと思って今ボードでそっちに向かってる。あと三分で着く」

『ってお前ハイウェイ使ってんのか、後で叱られるぞ……まあ、いい。ナイス判断だ。あんなクソッタレ共の治療受けたら俺のおいっ子の心の方が死んじまわぁ。地下の駐輪場から入れ、もろもろ準備して待機しておく』

「あんがと、頼むぜマジで」

 失血と循環の停滞。脳に酸素も回っていないはずだ。まさに死んでいないだけ。俺は……リノ、お前の笑顔をもう一度見られるのだろうか?

 いや、余計なことは考えるな。今は無事にモルガンの店に辿りつかなければ。今日の空中都市トニトルスは一段と雲が深い、ハイウェイの誘導灯まで霞んでいる。怖かった。だが、そんな弱音を飲みこんで、俺はボードのスピードを上げた。


 ボードが駐輪場にものすごい速さで突っこみ緊急停止する。間一髪、何にもぶつかることなく静止することができた。

「馬鹿野郎、俺が怪我したらどうすんだ! ……ほら、こっちに運べ」

 駐輪場の側で待機していたモルガンが俺を叱り、それからリノを一瞥いちべつして店の中に入っていく。俺はリノを抱えた。血で固まっていない金色の細い髪がさらさらと流れる。軽い。十四歳の体か、これが。

 俺はモルガンの指示のままにリノを手術台の上に載せた。やはりリノ自身の固い意志により、傷口は埋まっていない。仕方ないから手縫いでやるか、とモルガンは外装医療器具を腕に取りつけた。血管や気道を縫いあわせている、ようだったが、俺はちょっと直視できなくてリノの手を握りうつむいていた。

 手術自体は五分もかからず終了した。俺はリノの手をずっと握っていたので、モルガンに温かい茶を出されて初めて、自分の手が冷たく震えていることに気づいた。

「……何があったよ」

 モルガンが俺の隣に腰かけ椅子を持ってきて座り、茶を啜りはじめた。

「……今朝のナノマシン速報。見た?」

「まだ見てねぇな」

「リノの開発した色覚補正モジュールがすっぱ抜かれてた。蒼天で公開しようとしてたやつだ。開発者の名前が登録したものと違ってた。リノ・ライノじゃなくて、リノ・カミナリノだった」

「……あー……」

 それは、まあ、こうもなるか、とモルガンは納得したようだった。


 カミナリノはリノの家名だ。そして、この科学技術大国トニトルスの神〈雷様〉の直系であるという特別な意味を持つ。リノはその神に対抗しようとしていた。神と同じ土俵で、神を上回るナノマシン技師になるのだと。その最初の一歩が、あの色覚補正モジュールだった。論文は敢えてライノという偽の家名で提出した。十四歳の天才に、父親の名前は不要だった。

 それが、どうだ。誰の思惑が働いたのか、表に出てきた時にはリノ・ライノの名前は消されていた。

 誤植だと思ったか?

 ふざけるな!

 案の定、速報の野次馬どもはさっそく、親の七光だの実質親の仕事だのと言いたい放題だ。リノの才能を知ろうともせず、その名前ばかりに注目が集まる。俺はその記事を見た瞬間、自分の宮を飛び出して琥珀宮に向かって走りだしていた。これをリノが見たら、見てしまったら。

 扉を開けた。リノが、短剣を自身の首に当てたところだった。

「リノ!!」

 俺は慌てて名前を呼んだ。リノはこちらを見たが、その時にはもう腕を動かしきった後だった。


「……こいつが意識を取りもどすかは正直分からん。取りもどしたところで、死に取りつかれたままだろう。俺とお前で交代で見張りするぞ、いいな?」

 モルガンが空になった自分のコップを灰皿にしながら、俺に確認してくる。

「大丈夫だ。むしろ、もし俺がそん時寝てたら起こしてくれ。

 俺がこいつを助けようと思ったんだ。文句は……俺が聞かなきゃな」

「文句を言えるくらい機能が残っていればいいけどな……」

 モルガンはリノの脳細胞をスキャンしていた。かんばしくない、というのが正直な感想らしい。かなりのニューロンが壊死していて、未分化ニューロンが足りない。前に遊びでリノ自身がスキャンしたリノの脳細胞マップを元に専用のモジュールを入れてみるが──モルガンに、そこから先の言葉は無かった。

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