Daybreak ~ふることふみ異聞~

六花

一.Nightmare

1-1

 ただ死ぬことだけを強く願った。

 なのに。


「……おい、起きろ」

 そんな声が上から降ってきて、少女はうっすらと瞼を持ち上げた。

 ぼんやりした視界に認めたのは、自分の倍ともう少し齢を重ねた青年の凛然とした面立ち。

 最期の夢現ゆめうつつに見るのがこれなら十三年弱の人生割りと捨てたもんじゃなかったのかもなあ、と朧ろな意識で思う。

 しかし、所詮は儚きもの。

「起きろと言っているだろうが」

「いたッ」

 容赦のない響きとほぼ同時に額で痛みが弾ける。その痛覚に完全に覚醒した。

「何すんのっ」

「すぐに起きんからだ」

 額を爪弾いた加害者は被害者の抗議に構わず傲然と言い放つ。身を起こした少女は、目の前に片膝をついた青年を噛みつく勢いで睨み据えた。

 そして、その出で立ちに息を呑む。

 額に細布を巻き、髪は髷を結わず肩に流したまま。纏うものも一枚布に穴を開けただけの簡素な貫頭衣ではなく、左前でえりを重ね胸部と腹部を紐で留めた袖のあるきぬに、同じ筒袖のような袴を穿いている。裸足ではなく、腰帯のほかに管玉くだたま棗玉なつめだま等の装飾具も身につけていた。何より、刺青の類いが一切見られない。

 文化を異にする者なのだと、一目で知れた。

 けれどそれより。

「ここ……、どこ」

 見た感じ、夜の山中。奥深く生い茂る木々に、右手にはぽっかりと暗い洞窟。何故見えるかといえばそれは二人の間に仄青い鬼火がひとつ浮かんでいたからだが、少女はそれを不思議とは思わなかった。人と神が共存する世、この青年は後者に属する者なのだろう。

 山間やまあいの里で生まれ育った少女にとって、山など庭のようなもの。けれど本能的な違和感がある。根本から何かが違う……気がする。

 しかし青年は茫然とした台詞には応じず、逆に問うてきた。

「……こんなところで何をしている」

「訊きたいのはこっちだってば」

 そうとしか返せない。自分は何故、このような(多分)見知らぬ場所にいるのか。

 いな、それ以前に。

「……なんであたし生きてるの」

 開いた両の掌を見下ろす。先程額に感じた痛みも、喉を滑り出る声も。こうして世界を知覚していることこそまさに生きている証。

(だって、あたしは――――)

 半ば無意識にこぼれた少女の呟きに、青年は浅く息を吐く。そして今一度、問うた。

「もう一度訊く。の人間が、の入口で何をしている」

「――――」

 少女は大きな双眸を更に大きく瞠る。浴びせられた台詞が咄嗟に理解できなかった。

「な……に、それ、」

 強張った唇でようよう紡いだ言葉に、それだけの衝撃を与えた張本人はこともなげに返してくる。

「言ったままだ。おまえはこのに下ってきた」

「…………」

 今度こそ完全に絶句した。言葉を失った。

 刺青を施したまだまだ幼い顔を眺めながら、青年がある意味感心したように呟く。

まれな小娘だ。……名は」

「……

 思考が真っ白に染まっていたので、高圧的な響きの問いにもつい素直に応じてしまう。

 しかし、続いた台詞にはこめかみが引きつった。

「夏の雑草か」

(ざ、雑草!)

 確かに、確かにこの名の由来はそのとおりなのだが、言いかたというものがあるだろう。せめて「夏の水辺の花」程度にしておいてほしかった。

 その失礼極まりない感想に、こちらも思いきり悪態をついてやろうと固く心に誓って少女改めせりは訊き返す。

「そ、そういうあなたは、なんて名前なの」

「――――建速タケハヤ

 タケハヤ。

 どこかで聞いたことあるような、と思った瞬間、せりの表情から刺々しさが消えた。

 次いで唇からこぼれたのは、滝のような言葉。

「――――って、いい歳して死んだ母親恋しがって泣き喚いて、姉君の領国で調子乗って暴れ回ったら追放されて、向かった国で蛇神退治する代わりに娘寄越せって足許つけこんで小狡い手使って倒した、あの?」

「………………………………微に入り細を穿って悪意に充ち満ちた解説どおぉもありがとうよ」

 口端に辛うじて笑みを貼りつけながらも、青年の眉間は際限なく険しい。……当然だ。

 だが一瞬呆けた時点で、失礼には毒舌を以て返礼とする決意も吹き飛んでいた。だから今の凄まじい台詞は、前からせりが持っていたの者への私見である。

 そう、前から彼を知っていた。あの名を持つ者を、知っていた。

 昔語りによく聞いた伝承に出てくる神の御名みな

 荒く猛き魂を有し、疫神、武神、暴風神など様々な神性を持つ者。

 そして。

(……――――!)

 記憶のひとつが閃く。

 その隙を突くように、唐突にタケハヤはせりの腕を掴んで立ち上がった。そうすると、彼の背の高さがよく判る。せりの背丈はその肩にも届かない。

「ちょっ」

「もののついでだ。行くぞ」

「い、行くって、どこに」

「決まっているだろう。地上うえに帰してやる」

「なっ」

 目を剥いたせりの反応に構わず、タケハヤは洞窟へと足を向ける。

「ここは黄泉平坂よもつひらさか現世うつしよ隠世かくりよの境だ。ここを行けば現世に着く」

 神が足を向けた途端、闇満ちていた洞内にぽつぽつと火が灯る。しかしそれに照らされてなお果ては見えない。

 現世と隠世――――即ち、生者の住まう地と死者の向かう地。せりに馴染みの深い言葉で言うのならば、葦原あしはら黄泉よみ或いは堅洲かたす。そうして、目の前に果てなく続くくすしき道が、隣り合わせでありながら絶望的に異なるふたつの世をつないでいる。

 ――――そう、ここはまさに生と死の狭間。

 タケハヤが歩を進め、それに引かれるままに足を踏み出した瞬間、せりの痩せた身体に意思が走った。

「――――やだ! 戻んない!!」

 渾身の力で男神の手を振りほどく。驚いたように、見上げる位置にある首が反応した。

 次の瞬間。

 振り返った神の横面を、鋭くくうを切った掌が、思いきり、張った。

「…………」

 張ったほうは、射抜くほどの視線で相手を見据える。張られたほうは喉の奥で唸ったあと、当然、声を荒げて怒鳴りつけてきた。

「おまえ……、いきなり何をする!」

「殴ったんだよ、さあ殴ったよ!」

 それこそ雷鳴の如き怒声に、怯むことなくせりは声を張り上げて返す。

「さあ、殺しなさい!」

 怒号にも等しい叫びに、凛々りりとした眉がひそめられる。意図を呑み込めていないそのおもを、刺青を彫った面が毅然と睨み据える。

 それこそが、真の狙い。閃いた記憶。

「堅洲の神の横面ひっぱたいたんだよ!? さっさと殺せばいいでしょ!」

 ――――黄泉に眠る母神を恋うた男神は、かの国の統神すべがみとしての顔も持つ荒神あらがみ

 そんな神の怒りに触れれば、報復としての死は必至。そう解っているからこそ、せりは暴挙に出た。

 今度こそ、死ぬために。

「ほら、早く!」

「……どうしてそこまで死に急ぐ」

 自ら「殺せ」と喚く姿に怒りが削がれたか、平静を取り戻した声が低く問う。静かで冷めていて、だからこそ闇を裂くほどに鋭い視線に、せりは思わずたじろいだ。けれど目は逸らさず、挑むように見返す。気圧けおされたら負けだ。負けるのは嫌いだ。

「――――あたしの山里さとは攻め滅ぼされた! もう帰る場所なんかない!!」

 叫んで、その記憶が鮮やかに甦る。

 燻った煙の匂い、夥しい血の匂い。完膚なきまでに破壊された家々に無惨に転がる屍。夜闇にかがよう炎の熱。交錯する喚声、悲鳴。

 くにと呼べるほどの規模もない小さな集落は、一夜にして灰燼と帰した。

 大人もこどもも容赦なく殺された。荒らされる倉や辱めを受ける女も見た。生きたまま捕らえられたところで、どういう扱いを受けるかなど聞かなくとも判る。

 だからせりは、死にもの狂いで逃げた。戦渦の中を無我夢中で逃げ惑った。親兄弟とも離れ離れになってしまい、他人を顧みていられる余裕はなく、一人山の中を走り続けた。

 山間にひっそりと営まれていた里のどこに襲撃を受ける謂れがあったのかは知らない。ただ、今までの何もかもが喪われてしまったことだけが解った。

 胸を満たしたのは、狂気にも近い絶望。

 時代はまさに、邑が邑を潰し吸収していく、戦禍の絶えない乱世。

 動乱の現実が牙を剥き、穏やかに暮らしていた日々こそが仮寝の幻であったかのよう。

 こんな時代に、安息の地など何処にもない。

 駆け続けるうちに行き当たったのは、夜闇よりも暗く深い崖のふち

 天を焦がさんばかりに赤々と踊る炎を振り返る。それほど遠くもないところで怒声が上がった。

 ためらいは僅かに一瞬。

 そして、果てなしの闇にこの身を躍らせた。

「……崖から身投げしたんだよ? なのにどうして生きてるの? どうして生きたまま黄泉に降りてこれたっていうの!?」

 語気が荒くなる。けれど聞き手は思わぬ反応を示した。

「……それだな」

「え?」

「山は異世ことよ。死者が眠り、人ならぬ存在ものが息づく地。おまえが身投げした峡谷は隠世へと通じていたということだ」

生者ならぬ者、現世ならざる世。……絶望的に異なる、けれども隣り合うもの。

「だがそう滅多にあるものでもない。……運がいいんだか悪いんだか」

「………………」

 驚愕の事実と最後の感想になんと返せばいいか判らず、せりは押し黙る。その沈黙に声が降る。

「……で。だからそんなに死にたいわけか」

「…………」

 遂に俯く。けれど意地でも涙だけは見せない。代わりに爪が刺さるほど強く拳を握る。

 項垂れたその姿に、いったい何を感じたものか。

「――――わかった」

 脈絡なく隠世の神がそう呟く。跳ね起きるように戦災孤児の少女は頭を上げた。その顔を一瞥し、タケハヤは唇を歪める。けれども目が笑っていない。

 告げた言葉は。

「戻る気がないなら、ここで暮らせ」

「………………………………………へ?」

 長い長い空白の末にようようせりが絞り出したのは、間抜けな一音。

「ど、どーいう意味、それ」

「どうもこうもそういうことだ。しばらく館に置いてやる」

 さらりと返される。しかしあまりにさらりとしていてますますせりは混乱した。

「何がいったいどうしてそういう結論に至るの!?」

 冷静になりきれず喚くが、相手は一切動じない。倣岸そのものの声が返ってくる。

「何もどうもあるか。おまえは俺に強烈な張り手を喰らわせてくれた。それでおまえは死にたいと言う。……誰が自分ひっぱたいた奴の願いなんぞ叶えてやるか」

「うッ、くっ」

 一理あると言えば、ある。いや、そんな一癖ある論理こそ、姉神の国で散々傍若無人に振る舞ったという彼らしい。

「解ったら来い」

 言うや否や、タケハヤが細い手首を掴む。突飛な言い分に反論の糸口が見つけられず、引かれるまませりは歩き出した。無理に現世に押し返されなかったのは助かったが、かといってここで彼と暮らすことに意味があるとも思えない。

 互いに、悪意とまではいかなくとも決して好印象を持っているわけでもない相手。

 そのまま言葉を交わすこともなく、鬱蒼且つ荒涼とした山を下る。正確に言えば、無言で先を行く神が歩幅や歩調の差をまったく考えず歩みを進めているので、必然的にせりは小走りに追うことで精一杯だった。しかも左手で左手首を掴まれているのでとても歩きにくい。しかし途中、闇の向こうに集落と思しき仄明かりを認めてふと口を開く。

「……何あれ」

 首を巡らせたタケハヤは「あぁ、」と気のない声で答えた。

「母上のみやだ。雷神いかづち日狭女ひさめどもが守護してる」

 簡潔に言われ、「ふぅん」と納得してせりは前を歩く背に視線を戻す。だが宮とは違う方向に進んでいることに気づき、思ったことを思ったままに言った。

「なんだ、違うとこ住んでるの」

「あまり人前に出たがらないしな」

 振り返りもしない背中が答える。泣き喚くほど恋い慕ったなきははなんじゃないの、とは賢明にもせりは言わずにおいた。まあ伝説とは虚実入り混じり、とかく誇張されがちなものである。

 ようやく麓まで下り、山中の女神の里よりも大きな集落の門に行き当たる。板塀も水堀も備えたたいそうな造りで、ここにこそ荒神の館があるのかと思ったが、門へと続く橋の袂でせりの手は解放された。タケハヤは何も言わず一人で橋を渡り、番人かどもりに門を開けさせ中へと消える。

 せりはただ突っ立って待っていたが、逃げるという選択肢を思い出すよりも先に、再び門が開いた。ただし戻ってきたのはタケハヤ一人ではなく、見たこともない獣が牽く輿(馬車)に悠然と乗っている。

 驚く間もなく、せりも問答無用で輿に引きずり込まれた。獣の進む速度は徒歩かちよりもやや早めといったところ。未知との遭遇には感動したものの、ところどころ思い出したように鬼火が揺れている以外久遠の闇に閉ざされた世界では景色も楽しめない。

 しかし、会話もなく単調に揺られているうちについとろりと瞼が落ち、目が覚めたとき広がっていた光景に、せりは心底仰け反った。

「………………な。何、これ」

 壮麗。豪奢。まさにそんな言葉が相応しい。

 見慣れない様式の建築物が並ぶ大規模な集落。

 草葺の屋根には馴染みがあるが、壁も垣も、頼りない板張りではなく頑丈な土造り。そんな様相の家々は山を切り拓いた中だというのに無秩序に点在しているのではなく四角四面に並んでおり、そのおかげで明確になっているみちもきちんと均されている。

 更に、至るところに青い火が灯っていて、闇の底というのにここだけが真昼のように明るい。火影がちらちらと揺れるさまはいっそ優美。

 その中を歩いている大勢の人々もまた、多くは衿のある見慣れない装束を纏っていた。それだけならばまだしも、彼らに混じって、どう見ても「鬼」「物怪もののけ」としか呼べないようなものたちも平然と闊歩している。

 物見窓に張りついたせりは完全に呆けた。その上、身を乗り出し忙しなく首を巡らせている黥面文身げいめんぶんしんの少女のさまは鄙つそのものである。ようやく我に返り、同乗者を振り返る。

「なんなの、ここ」

「隠世の一角、冥府ミンフ東岳大帝トンユエターティーの領国だ」

「みんふ……? とん、…………?」

 耳慣れない単語ばかりである。

「寿命や死霊しにだまを管轄する異国とつくにの死神だ」

「ふうん……」

 せりは曖昧に呟く。これ以上問い詰めても今は理解しきれないだろうと諦め、そこで短い会話は途切れた。

 幅のある獣輿が通ってもなお余裕のある路を進み、やがて大きな門扉をくぐる。

 輿を降り、土壁に土器かわらけ屋根の建物が輻輳且つ整然と並ぶ中を神の背を追って歩いて、ますますせりは唖然とした。

「…………………………これ、全部あなたの家……?」

「まあな」

 背を向けたまま当然のようにタケハヤは返してくるが、せりは半端に口を開いたまま固まった。

(…………う、うちの里、丸ごと入るんじゃ……)

 里が小さすぎるのか、ここが広すぎるのか。……黄泉平坂の山中で見た女神の里や麓の集落も、里ではなく巨大な宮そのものだったのでは、という気がしてくる。

 空間を取り囲むように建物が配置され、それが複雑に幾つも重なった建築形式は、「異国」の様式だけあってせりがまったく知らないもの。

 やがて、垣で区切られた一角の一棟に上がり、その中の一室に通される。

「適当に使え」

「はあ……」

 大雑把な一言に茫然と返し、せりは戸口で室内をぐるりと一望する。

(適当って言われても……)

 山里で質素な暮らしを送っていた目を回してしまいそうなほどきらびやかな一間だ。壁は勿論天井や円い窓枠、柱の土台にまで緻密な細工が施され、床にも織物が敷き詰められている。広いへや、見慣れない趣向の調度の数々。足を踏み入れること自体に気後れを感じてしまう。

 戸惑うせりに、しかしながらタケハヤの視線と口調はどこまでも素っ気ない。

「呆けてないでさっさと入れ。することがないならとっとと寝ろ」

「………………」

 言い回しにあれこれ言いたい気もするが、口より先に腹が答えた。

 ……ぐきゅるるるる

「………………」

「………………………………………」

 緊張の糸が切れたのかなんなのか、互いの耳にはっきり届いた腹の虫の声に、痛いほどの沈黙が降りる。

「…………大概図々しい奴だな」

「ちが、これっ、違う、おなかなんてすいてない!」

 いろいろ通り越して完全に呆れ果てた眼差しに、大慌てでせりは反論する。戦火に追われ、死を覚悟したその直後にこれは有り得ない。しかしながら口とは逆に、腹は今一度空腹を訴えた。

「………………………………………」

「…………解った、もういい」

 タケハヤは勝手にそう言って、いつの間にか格子模様の扉の外に控えていた見慣れない装束の者に眼差しで命令を下す。もともと食事時だったのか、それほど長く待たされることもなく一匹の小鬼が朱塗の折敷おしきつくえに置きに来た。明らかに人とも獣とも異なるその姿を間近にして、せりは度肝を抜かれたが、彼はただ一礼して退室する。

 直立姿勢で硬直したままそれを見送り、つい折敷に視線を落としてまたもせりは大いに驚く。折敷に大小のうつわを並べた形式の食膳など、祭祀まつりで神前に奉る神饌みけでしかお目にかかったことはない。だがそれでもそこには、馴染みはないが思っていたよりも普通に食べられそうな品々が並んでいた。それも小さな山里育ちのせりの感覚からすれば、それこそ神饌並みに豪勢な代物だ。

「これで満足か」

「だからっ、おなかすいてなんかないってっ、………………」

 言い終えるよりも先に、三度目の腹の音が台詞を遮った。タケハヤが小莫迦にしたように小さく笑う。

「口より腹のほうが正直だな」

「………………」

 食欲などない。あるはずがない。だが三度もの腹の音もまた事実だった。

「輿では気づいたら涎垂らして眠りこけてるし。図太いくらい健康的な身体だな」

「っ」

 思わず口許を拭う。しかし今更遅い。

「っ仕方ないでしょ!? 夜じゅうずっと山の中走り回ってたらそりゃあ疲れて眠くもなるしおなかもすくじゃない! それが、」

 開き直って喚いて、はっと語尾が途切れる。しかしタケハヤは正確に先を読んでいた。

「――――そうだな、それが生きてるということだ」

「………………」

「食ったらどうだ」

「…………いらない」

「ここまで準備させておいてそれか?」

「だから、…………」

 せりはなおも反論しようとしたが、四度目の腹の音で意地が挫けた。「いらない」と言う心に偽りはないが、腹がこれでは我ながら説得力がなさすぎる。

 観念して、せりは案の前に敷かれた毛織物にちょこりと座った。その姿を一瞥し、タケハヤは房を出て行こうとする。

 しかし。

「……何、これ」

 折敷の手前に添え置かれた妙に長い二本の棒をかざしてせりは独り言つ。口を開けば「何」と疑問ばかりの鄙女に、振り返ったタケハヤが実に面倒くさそうに呟いた。

「あぁ……箸も知らんのか」

「?」

食事うけに使う用具だ」

 そう言ってせりの手からそれを取ると、片手で器用に先端をち合わせる。そして煮詰めた木の実を摘み上げてみせた。

「こう使う」

「へぇー……」

 せりの里では、基本的に高杯たかつきに盛られたものを手掴みで食べていた。やはり文化の違いを改めて噛み締める。

 箸を返却されていざ食を進めようとするが、知らない料理ばかりなので速度はいつもより遅い。しかも、使用例を見て感じた以上に、実際に箸を使うのは難しかった。

 危なっかしい手つきで刺し箸握り箸舐ねぶり箸等々、後世「行儀悪い」とされる作法のことごとくを繰り返すせりを、最初は嘲るように、次第にひたすら呆れの色の濃くなる顔で傍観していたタケハヤは、黙っていられなくなったのか遂に一言呟いた。

「下手くそ」

「しょうがないでしょー!? 初めて使うんだからっ」

 別に並外れて不器用と言うわけではない、けれど間違っても器用とも言えないことは、せり自身、自分のことなのだからよく解っている。

「でも下手すぎだ」

 せりの当然の反論を、斜向かいに無駄に尊大に座した荒神は辛辣な一言で却下した。

「うるさい! きれいに食べりゃあいいんでしょキレイにっ」

 せりも反射的に吼え、四苦八苦しながら箸を進めていく。のんびり味を楽しめる心境ではない。

 仏頂面で箸を動かし続けながら、せりはふと思った疑問を口にした。

「そう言えば、あなたはなんで黄泉平坂あんなところにいたの」

 現世と隠世を結ぶという坂道。隠世の神が、そのような境の地に如何なる用があったのだろうか。

「妻問いに行くところだった」

「っっ」

 いともあっさりした返答に、訊いた当人のほうが貝の汁物で噎せた。私事に踏み込みすぎたかと呼吸を整えながら思ったが、口調からして相手は別になんとも思っていないらしい。実際、男神の妻問い譚は珍しくもないが、そこまで考えてせりは軽く青ざめた。

「………………てことは、あたしはそれを邪魔したということに……?」

「そうだな」

 機嫌の伺えない声が返ってくる。不条理じみた神罰はそのことに対する意味合いもあったのかとせりは引きつり、次いでしみじみ呆れた。

「……堅洲の統神になってからも葦原の女君おんなぎみにうつつ抜かしてるわけ?」

つま嫡妻むかいめたずねて何が悪い」

「え? 一緒にこっち来てないの?」

 思わず素で驚く。通妻かよいめならばともかく正式な嫡妻、共に隠世に移り住むべき身の上に思えるが、どうやら違うらしい。

「…………、『行かない』と言い張ったからな」

 僅かに荒神の視線が揺れ、一瞬、表情に苦い色がよぎった。

 なんだふられたの、という世にも失礼な台詞を、寸前でせりは呑み込む。

 住む世界を異にしてはいてもえにしや絆は続いているのだ。これこそ、他人が気安く踏み込んでいい事情ではないだろう。

 だが、まるで呑み込んだ一言を推し量ったかのように斜向かいの眉間が皺立った。

 せりは思わず箸先をぎりっと噛み締め身構える。これものちの世には「噛み箸」と言われる無作法である。

(っ、顔に出た!?)

 反射的に危惧したのだが、そうでもなかった。

「――――いいから食うか喋るかどっちかに集中しろ!」

 慣れない用具を使い、しかも注意力散漫となっていたせりの折敷の周囲は、食べこぼしで凄まじい惨状を呈していた。

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