六. 報復
次の夜、天翔ける馬の牽く馳車に乗り、計都と侑悧、紫苑は一路、都から十数里離れた温泉宮へと向かっていた。
「しかし二人とも思い切りがいいのう。気に入ったわ」
若夫婦の対面に座る紫苑が豪快に笑う。一応はお褒めの言葉に、一匹の猫を膝に乗せた侑悧は無言で目礼し、蜥蜴を肩に置く計都は苦笑いして肩を竦めた。
話したり黙したりを繰り返すうち、篝火の揺れる温泉宮の建物群が眼下に見えてきた。歴代の皇帝が休暇を過ごしてきた離宮のひとつだ。ここにも小規模ながら大王廟はあるのだが、空からの奇襲を提案したのは意外にも紫苑だった。伊達に六百年もの長きに亘って祟り神を務めていない。
「やるなら徹底的に、芝居がかったほど大仰にやるがよかろう」
上空からの襲来など、人の身にはあり得ない。そして、海燕の本性とも相性が良かった。
「わしはここで見ておる。いろいろ
「承知いたしました。……行こう、ケイト」
「はい」
紫苑を見たまま、侑悧は袖の中で計都の手に己の掌を重ねる。計都は迷いなく頷き、海燕に命じた。
「カイエン。お願い」
「ああ」
蜥蜴は主の肩を離れ、輿の窓から宙空にひらりと身を投じる。
数拍置いて、晴れ渡った星空が俄かに曇った。そこから、一条の閃光と轟音が温泉宮へと真っ直ぐ駆け下りる。
……ガララッ ド オォ ――――ン ッ
五行の理に於いて、龍……鱗族は木気に属する者。そして木気は、八卦の風と雷を司る。
落雷を合図に、手に手を取った夫婦は馳車から飛び下りた。
夜を裂く光と音に突如見舞われた地上は混乱に陥っていた。あちこちの建物から転がり出てきた人々が右往左往する様子は、元凶である人でなしから見れば滑稽ですらある。
その紛糾の中心、落雷の直撃を受け倒壊した大王廟の跡地へ、炎を背景に二人は降臨する。但しその顔に、侑悧は紙の四角面、計都は龍を模した目許を覆う面をつけていた。これも演出の一環だ。
確認できる範囲で、瓦礫の中に人の姿はなかった。だがそこに傲然と立つふたつの人影に、集まった者たちの恐怖の眼差しが交錯する。
「何者、いや、何事だ、これは」
頭数はせいぜい数十といったところか。大逆人とは言えまだ皇兄の喪中、行幸と言うよりもお忍び旅行といった風情だったようだが、それでも数百人単位の従者が同行しているだろう。
いずれにせよ、その程度の数であれば、二人の敵ではない。
「知らぬ顔だな」
上擦った声をあげた衛兵らしき男に、侑悧は勿体ぶった口調で笑いながら四角の面を破り捨てる。
「誰ぞ、この両の眼に見覚えのある者はおらぬか」
四角面は、祭祀の際に神仙に扮する者がつける仮面。――――その下から現れた、今宵の月より輝く金色の瞳。
炎に照り映えるその色に、持ち主に気づいたのか、幾人かから動揺の悲鳴が漏れる。そこに拍車をかけるように、燃え盛る炎の向こうから巨大な獣が姿を見せた。
虎よりも巨大な、三叉の尾を持つ猫は、夜の王を守るようにしなやかに身をすり寄せた。そして愚かな群集に対しては牙を剥いて威嚇する。
その咆哮に人々がいっそう怯んだ隙に、龍面をつけた計都は一歩踏み出した。露わな口許は嫣然と綻んでいる。
この面は海燕の通力の一部。それを身に飾ることで、計都は龍神の通力の一端を駆使できる。……侑悧にはそう説明したし、嘘は言っていない。
けれど、この土壇場で気が変わった。侑悧は燻る怨みを包み隠さず明かしてくれた。自分の秘密も、今ここで晒そう。
計都はその場で仮面を剥ぎ取った。侑悧が息を呑む気配がする。無造作に放った仮面は、鱗のような輝きを散らしながら夜風に溶けて消えた。
「ケイト」
筋書きから外れた行動に戸惑いを隠せない侑悧の声を背に、計都は右拳を左の掌底に叩き込み、令嬢らしからぬ好戦的な態度を見せる。
恥じることではない。胸を張って言える。
「陛下。――――『闘う者』の戦い、とくとご覧くださいませ」
振り返りもせず、敢えて夫を陛下と呼んだ次の瞬間、計都はひと跳びで群集の眼前まで距離を詰め、握った拳を一人の鳩尾に叩き込んだ。
鎧を纏っていたはずの武人は、その一撃で、呆気なく膝から崩れて昏倒する。間髪入れず彼の鞘から剣を抜き取ると、計都は躊躇なく衛兵の群れに斬り込んで行った。
衣の裾を翻し、歴戦の猛者さながら、破竹の勢いで周囲と斬り結ぶ計都の耳に、別方向からも絶叫が届く。我に返った侑悧が、予定どおり怪猫にも襲撃を命じたのだ。一人と一匹の化け物による蹂躙に、武を嗜む者たちはただただ翻弄され驚懼する。
後から駆けつける者たちもいたが、場が再び静まり返るまでそう時間はかからなかった。挑んだ者たちは皆虫の息で地に沈み、残ったのは、腰を抜かした腑抜けばかりである。
その中の一人、門柱の残骸の袂で蹲る者に、侑悧が目を留めた。倒れた者たちを大股で踏み越え、そちらと足を向ける。一仕事終えた怪猫と計都も続いた。
「左丞相。……いや、今は大宰だったな」
眼前で繰り広げられた惨劇の主役たちを従えた王の呼びかけに、壮年から老境に差し掛かる頃合いの官人は激しく身を震わせた。豪奢な装束を着こなした、けれど恐怖が剥き出しの今は小者にしか見えないこの男が、計都の夫を罠に嵌めた一人なのだ。
「……太子様。まさか、そんな。あり得ない」
「あり得ない? 私を『夜の王』に祀り上げたのは、他ならぬ大宰ではないか」
「嘘だ、そんなはずが」
祭祀を決めた張本人がこれでは、儀式が疎かになるのも無理はない。
「この目を忘れたと言うか」
侑悧が凄む分、大宰は後退りしようとするが、瓦礫に阻まれる。この国に二人といない双眸に絡め取られた大宰は、まさしく蛇に睨まれた蛙だった。
「お許しを。どうぞお許しを」
平伏の姿勢すら取れず、歯の根も合わない口でただ詫びの言葉を繰り返す。その無様を一瞥し、侑悧はもう一人の仇敵の居場所を問うた。
「私は夜の王。昼の帝に害は加えない。――――皇太后はどこにいる?」
「皇太后様、は」
互いに利用し合った仲、忠誠心があるわけでもなかろうに、大宰は口籠もった。往生際の悪さに、計都は左掌を刃に滑らせ、血まみれで大宰の目鼻を鷲掴む。
「ぐっ」
「恐れ多くも夜の王が直々に問うているのよ。いざ速やかに答えなさい」
「いや、構わん。……メイメイが匂いを覚えている」
すっかり怨霊役に浸った計都を宥め、侑悧は
鳴鳴は、侑悧の現在唯一の「親き者」だ。元は淑妃の愛猫で、侑悧よりも年上だった。十年ほど前、死期を悟り後宮から姿を消したと思われていたが、長く生きたことで通力を得て「隠れたる者ども」へと転じた。そして侑悧が次代の夜の王に定まると真っ先に馳せ参じ、契約を結んだのである。
「大宰、ひとつ覚えておくがいい。夜の王は飽くまで国と民の護り手、祭祀を軽んじ民を虐げれば、容易くその加護は朝廷から離れるだろう。今までにいくつもの王朝が斃れたようにな」
そう言って鳴鳴と共に踵を返した侑悧を追うべく、計都も大宰の顔の縛めを解く。べったりと残る血の跡を見下ろし、青い目で苛むように笑った。
「龍の血は強力な薬よ。人の身には荷が重いほどにね。そして木気は火気を招く。……あなたがどんな顔で夜の王の祭祀を行うか、楽しみにしているわ」
計都が返り血を浴びた長衣の裾を捌いて侑悧の許に駆け寄るのと、大宰が苦悶の声をあげて顔を両手で押さえるのがほぼ同時だった。しかし計都は一顧だにせず、小走りで侑悧の隣に並ぶ。
建物を結ぶ回廊を奥へと進みながら、侑悧が素の声で計都に話しかける。彼らの道行きに鉢合わせた不運な者たちは、侑悧の眼と計都の返り血、何より怪猫の姿を一目見るなり悉く飛び退いて道を譲った。
「ケイト。……『闘う者』というのは、まさか」
「ええ。『臨める兵』に並ぶ、呪術大国の最強呪術です」
悪魔憑きから派生した「臨める兵」に対し、「闘う者」は異界の住人の血肉を取り込むことでその力を揮う呪術だ。「臨める兵」ほどではないものの、身体能力も飛躍的に向上する。しかし呪術大国の技術を以てしても、どの異能を身につけるかまでは制御しきれなかった。「惑わす者」妖狐の変化の術を取り入れようとして、人の生き胆を喰らうようになったという笑えない逸話が残るくらいである。
その人間兵器を人為的に造り出す技術は、呪術大国の終焉と共に散逸した。しかし今も、極々稀だが、偶発的に、「臨める兵」「闘う者」と呼べる者が現れる。海燕の龍の血に適応した計都は、まさにその稀有な存在だった。父にすら明かさなかった、計都と海燕だけの秘密。
「わたしの身体には龍の血が流れています。毒にも薬にもなる血が」
登仙することで、唯一の弱点である短命すら克服した計都は、今や伝説の中の「闘う者」たち以上の完全体と言えた。
そんなことを話しているうちに、とある華麗な門前で鳴鳴が足を止めた。計都は吹き飛ばす勢いで門扉を押し開ける。
夜盗顔負けの押し入りに、両脇の控えの間から現れた侍女たちの喉から次々と甲高い悲鳴が上がる。計都は反射的にまだ血の流れる左掌を翳しかけ、さすがに無辜の女人には酷かと思いとどまった。代わりに血をひと舐めし、右手で若い一人の顎を押さえ強引に口づける。
目を見開いた侍女は、そのまま白目を剥き、失神した。
その光景に、残る侍女たちは三々五々逃げ惑う。一丁上がり、とばかりに計都が振り返った先の侑悧は、苦虫を噛み潰したようななんとも渋い顔をしていた。
「……なんだ今のは」
「簡単に言えば、血に酔ったんです」
龍の「闘う者」となった計都の血には、そういう作用もあった。少量を一度であれば後を引くこともないが、長期間大量に摂取し続ければ、依存し、やがては死に至る。それは直接口にするだけでなく、匂いを嗅ぎ続けた場合も同様だった。
計都の脳裏に昏い記憶が甦る。父を亡くし、西房から追い遣られた直後。書庫を訪れた見知らぬ壮年の男は、十五になったばかりの計都を問答無用で組み敷いた。本能的な恐怖に萎縮し、「闘う者」としての本領も発揮できなかった。
――――カイエン、助けて。カイエン!
窓枠の蜥蜴に助けを求める哀れな姿を、男……延寿は欲望を剥き出しに押さえ込む。衿も裾も暴かれた計都を、海燕は感情の読み取れない瞳で見下ろしていた。
そして突如、くわっと吼えるように口を開く。見えない風の刃が、計都の頬や肩を小さく裂いた。
欲に支配された延寿は急に生じた傷を疑問に思わず、頬から流れた血をざらりと舐め取る。そのおぞましい感触に、固く目を閉じた計都は今すぐ死にたくなった。
海燕は飽くまで母の「親き者」だったから。計都を助けてはくれないのだ。
そう絶望した胸の間に、ごとんと重いものが落ち、動かなくなった。恐る恐る瞼を上げると、延寿が計都に圧し掛かったまま気絶している。すぐには目を覚まさないだろうことを確認し、急いで計都は彼の下から抜け出した。
――――なんなの……?
衿や裾を乱したまま、涙目で呆然と呟く計都の許に、海燕が滑るようにやって来る。
――――思った以上の効果だな
――――……どういうこと?
――――龍の血に酔ったんだ。強すぎる薬は毒に等しい。……早く衣を直せ。それと、ここでの出来事を不自然に思われないように暗示をかけるんだ
それから、延寿が訪ねて来る度に、計都は先制して己の血を舐めるよう誘導した。海燕の助言で、血を混ぜた香も焚いた。延寿は血に酔った夢の中で幾度となく計都を陵辱しただろうが、その実一度も一線を越えていない。
もうとっくに庫の残り香も消えただろう。龍の血に溺れた延寿はいつまで保つか。無意識の依存先を失い、既に廃人と化したかもしれない。血の香を纏う計都に接し続けた范奈や使用人たちも、いずれ大差ない末路を辿る。或いは発狂の末、邸内皆殺しという悲劇もあり得るか。
いずれにせよ、それが、計都が己の命を賭して完遂するはずだった報復であり、一人残される義妹に一抹の憐れみを抱く理由だった。
青い目を翳らせた計都に歩み寄り、侑悧は血の滴る左手を掬う。慌てて引っ込めようとしたが許されず、早口で計都は忠告した。
「危ないです。夜の王に害は及ぼさないでしょうが、まだ万が一ということがあります」
正式に夜の王を襲名していない以上、油断はできない。
侑悧は無言のまま己の袖を裂き、計都の掌に巻きつける。そして、唇を寄せる代わりに額へと押し頂いた。
「……もう、このようなことはしてくれるな」
「……はい」
静かだが強い眼差しに気圧され、計都はしおらしく頷いた。それは、自ら傷を負ったことか侍女への口づけか、心配か嫉妬か、どちらなのだろう。
最早阻む者もなく、それぞれの「親き者」を連れた二人は、最奥の堂内へと踏み入る。中庭での小競り合いにも気づかなかったのか、范奈とそう歳の変わらないだろう皇太后は、優雅に榻で侍女に爪の手入れをさせていた。
「無礼な。何者か」
「それはあなたもよくご存知でしょう」
夜の闖入者に皇太后は虫を見るような目つきで眉を尖らせたが、その居丈高な振る舞いにも侑悧は努めて丁寧に応じる。最高位の女人を前に物怖じしない金色の双眸に、逆に皇太后の頬が微かに引き攣った。
「……まさか。謀反人とは言え皇族を騙る気か、痴れ者めが」
「騙りだと、本当にそうお思いですか?」
声を荒げずに威圧する主人の意図を汲み、すかさず鳴鳴が動く。巨大な前脚で傷ひとつない机や棚を薙ぎ払い、身を竦ませた皇太后と侍女たちを雄叫びひとつで恫喝した。
「あなたと大宰が私を『夜の王』へと仕立て上げた。覚えているでしょう。……そして仕立てた以上、責任を持って儀礼を遂行してもらいたい」
「何を……」
さすがに皇太后も、目の前の青年が、かつて自分が陥れ、国の護り神に祀り上げた太子の成れの果てであることを認めざるを得なかった。それでも傲岸な姿勢が揺るがないのは見上げた根性だ。
「皇帝と共に迅速に禁城に戻り、我が七七日の儀を執り行っていただこう。さもなくば国と民の安寧は保障しかねる」
「……元太子、夜の王ともあろう御方が、斯様な脅し文句を口にされるか」
飽くまで己の優位を崩さないよう振る舞う皇太后の手強さに、侑悧も手を焼いている様子が窺える。だから計都も、すぐさま動けるように臨戦態勢に入った。あとは命令を待つばかりの妻を横目に、侑悧も皇太后に負けじと口端を吊り上げる。
「確かに、私は皇帝を殺めることはできない。けれども皇太后、あなたのお命であれば、いつでも頂戴できるのですよ。このように」
侑悧が台詞を区切るや否や、計都は二人の間に割って入り、皇太后の膝を踏みつけ両手でその首を絞めた。
「……っ無礼者! 放せ!」
「大王は皇帝と等しき存在。そのお言葉に逆らおうとするあなたこそ無礼者でしょう」
力を加減しているため、逃れられずとも叫ぶことはできる。掌に巻いた布に、じわりと血が滲んだ。
首を圧迫され、間近に迫る先祖返りの双眸に、初めて本気で皇太后は死の恐怖を感じたようだった。……足掻いてはみても、所詮はここで命乞いをする程度の器だったと言うことだ。
「やめよ、……やめ、て。殺さないで」
「命が惜しければ、今すぐ王の命令に従いなさい」
皇太后としての威厳をかなぐり捨てた決死の表情で、皇太后は何度も頷く。そこでようやく解放された細い首には、血の手形が生々しく残っていた。どのような苦痛にか、皇太后は身体を折って首許を押さえる。
「鏡でその首の痕を見る度に、今宵の出来事を思い出すことね」
「お忘れめさるな。私たちは陰からあなた方を見ている。そして、いつでもその首に手をかけることができる」
喘ぐ皇太后を見下ろし、夜の王と后は冷徹に告げる。
閉ざされていた扉の開く音がすると、その姿はもう、現世のどこにもなかった。
◆
その五日後。
現世の禁城では皇帝列席のもと、可能な限り古式に則った形で廃太子の七七日の儀が行われ、隠世の王宮では、正式に新たな夜の王が誕生した。
より立派に再建された温泉宮の大王廟を初めとして、これ以降、廟に祀られる像や絵は、龍虎を従えた凛々しい王の姿が多くなる。
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