四. 溺愛

 侑悧の言うとおり、彼の応対をする以外は何をするでもなく日中を室内で過ごしていた計都だったが、五日で限界を迎えた。


 実家でも庫に籠もりきりだったが、それでも人目を盗んで厨で食料を漁ったり庭木で香を調合したりと、それなりにすることはあった。そもそも身の回りのことはすべて自分でするしかなく、暇ではあったが怠惰ではいられなかった。それがここでは、食事も掃除も、着替えすら仙女がしてくれる。退屈は人を殺すとは、まったく秀逸な比喩である。


 六日目にして初めて、計都は斎宮を出ることにした。計都と侑悧が現在それぞれ起居しているのは潔斎のための仮宮で、正式な襲名ののち、中央の太極殿に移ることになっている。


 侑悧は、新王として、先代の紫苑に薫陶を受けていると言う。ならば計都も、后としての心構え程度でも連理に師事を仰ぐべきだろう。


 掃除に訪れた仙女に連理の居宮を問うと、妙齢の彼女は「畏まりました」と微笑み、袖を軽く揺らす。と、袖口からこぼれ落ちるように、単衣の模様であった白い蝶が転がり出てきた。


「この蝶の後を辿ってください」


 後宮さえも皇帝に仕える官庁のひとつと考えれば、皇后は女官の筆頭に当たる。であれば、夜の后が仙女たちの長であることも自明の理かもしれない。


 青年姿の海燕を伴い、計都は歩みの速度で舞う翅の後ろに続く。


 中庭から垂花門、前庭と屏門を抜けて表門を出ると、そこにはまさに、御伽噺の仙境そのものの光景が広がっていた。山の頂は雲に霞み、花々は競うように咲き誇り、滝から流れる飛沫は水晶のようにきらめく。その合間に大小の殿舎や楼閣が設けられ、回廊や反り橋がそれらを結んでいた。


 これは練香づくりがはかどりそうだ、と最早不要の作業に思いを馳せながら進んでいくと、小さな滝から流れ込む池を望む四阿に、背丈に匹敵する長さの髪を持つ幼い后の姿があった。仙女が一人、影のように控えている。


「ケイト。どうだ、ここの暮らしには慣れたか?」


 連理は、玻璃の器に盛られた桃を一切れ頬張りながら計都を笑顔で招き入れる。道案内を終えた蝶は、連理の袂に止まり再び模様に戻った。童女らしい身軽さを好むのか、衣装も装飾具も、着飾られるがままの計都より高級だが簡素なものに見える。


 間近でよく見ると、連理の右目は、半分が黒、半分が香色の、半月のような色をしていた。これは、采王朝でもかなり珍しい色合いだったのではないだろうか。それゆえ、実父に生贄とされてしまったのか。


「ええ、まあ、それなりに」


 計都は腰を下ろしながら半端に笑う。まだ目を回しそうなことも多いが、慣れたというか、開き直った。幸い、貴族の令嬢として、最低限の嗜みは身に着けている。それ以上のことは、これから学んでいけばいい。


「そうか。シオン様やユーリ殿から惚気話をよく聞くぞ、溺愛されているみたいでよかったじゃないか」


 玉の机に頬杖をつき、連理は皇族としてはやや下世話にニヤニヤと笑う。突然の暴露に、計都は真っ赤になった。


「溺愛って、そんな」


 確かに、大事にされ、甘やかされているとは感じる。しかしそれを溺愛と捉えられるとは思っていなかった。


「ユーリさまは、なんて仰っているのですか」

「笑顔で歓待してくれるのが可愛い、慣れない料理に戸惑っているのが可愛い、自分の話に細かく相槌を打ってくれるのが可愛いって、とにかく可愛いとしか聞かない。砂を吐きそうだ」

「聞いてるほうが恥ずかしい……」


 計都の後ろに立って控える海燕のうんざりした声が、計都の胸中を的確に代弁してくれた。


「で、おまえもユーリ殿のことを惚気に来たのか?」

「違います。……その、夜の后とは、何をすればいいのか、王にとってどんな存在なのかをお聞きしたくて」


 現世でも、夜の后とは大王の妻であるとしか語られない。ただ己の妻でいてくれればいい、という侑悧の言は、あながち間違っていないのだ。連理は短く唸る。


「そう言われてもな。夜の后は大王の妻、ただそれだけの信仰だ。そもそもはシオン様がわらわを哀れみ娶ってくれたことから始まったもの、大王のように明確な役割はない」


 夜の后当人の見解も、侑悧と大差ないものだった。


「現世の皇后であれば、世継ぎを産んだり、生家と婚家の結びつきの証であったり、皇帝と共に外交の場に立ったり、女官の模範となったり、あれこれ役目があるんだろうけどな。そういうしがらみは何もない、なったところで上がりだ」

「世継ぎ……」

「隠世でも夫婦の営みや、結果としての子は出来る。但し、飽くまで夜の王は昼の帝と共に選ばれるもの、現世にも夜の王子という概念や信仰はない。一介の仙人になるだけだ」


 そのあたりのことは、さすがにまだ考える気になれない。計都は話題を逸らした。


「では王后陛下は、何をするでもなく、ただ王陛下の妻としてその庇護下で六百年を過ごしてこられたのですか?」

「レンリでいい。それなら途中で、退屈すぎて発狂してたと思う」


 母と似た字を持つ仙女にその名を呼ぶことを許され、計都は少し嬉しくなった。


「まあ探せば、それなりにできることはある。わらわはともかく、この隠世を知ることから始めた。采の時代ですら、現世では語られていない側面も少なくなかったから」


 計都も生前、現世のすべてを知っていたわけではない。そして、隠世のことはもっと知らない。


「詳細は省くが、シオン様は優れた呪符の使い手でな。わらわは人間じんかんにいた頃、歳の割に絵と書が巧みだったから、符を書くようになった。今ではわらわも、立派な呪符の造り手だ」


 自慢げに胸を反らせ、連理は先達としての笑みを浮かべる。


「シオン様もユーリ殿も、わらわたちにはただ傍にいてくれるだけでいいと言う。それも本心なんだろう。それでも何かをしたい、役に立ちたいというのなら、そうやって、できることから始めればいいんじゃないか?」

「わたしにできること……ありあわせの残り屑でそれなりに空腹を紛らわせる料理ならできますが」

「却下。そんなものを王に食わせる気か。あと仙女の役割を奪うな」


 割と本気で計都は目を輝かせたのだが、呆気なく一蹴された。


「まずは世界を知ることだ。知ることで、己の中からも見えてくるものがある。そこからでよければ、わらわも六百年分の知恵と知識を教えてやれるぞ」

「是非お願いします」


 それは、夜の后ではなく、隠世の住人としての始まりに過ぎない。けれども夫を待つだけの無為な日々には別れを告げられそうで、計都は深々と頭を下げた。

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