三. 幸福
夫と先代たちとの対面の後、結局計都は海燕に手を預けたまま眠ってしまい、目を覚ましたら夕餉の時間だと言われた。
給仕に訪れた仙女たちが、居間の長机に手際よく大小さまざまな皿や器を二人分並べていく。海燕の分もあるのかと思ったが、そうではなかった。
「私も同席して構わないだろうか」
「太子様! 勿論です、どうぞ」
せっかく訪ねて来てくれた彼を先程は早々に追い返してしまった申し訳なさから、計都は平身低頭の勢いで夫を上座に迎え入れる。榻に座りながら、侑悧は苦笑した。
「堅苦しい呼び方をしなくてもいい。そもそも私は、既に太子ではない」
「では陛下」
「あいにく、まだ大王でもないな」
最高位の敬称を持ち出してみたが、それもにこやかに却下される。
「もっと気楽に、字で呼んでくれて構わない」
「いやそれはちょっと……」
計都は躊躇するが、侑悧は涼しげな見た目にそぐわず強情だった。
「いいんだ。私はあなたをケイトと呼びたい。だからあなたにも、ユーリと呼んでほしい」
「……じゃあせめて、ユーリさま」
「……まあ、その辺りが落としどころか」
取り敢えず納得してくれたようで、計都もほっとしながら対面に座ろうとしたら、何故か榻の隣を指定された。よく見ると、食膳もその座席を前提に並べられている。観念して計都は席についた。机に対してやや斜めに、相手と並ぶような向かい合うような格好になる。
品数の多さと豪勢さにまず萎縮するが、侑悧は気にした様子もない。禁城ではこれが通常の献立で、この王宮でもそれは同様であり、ほかにも一事が万事皇族基準なのだと思うと、一応は貴族でありながら庶民以下の貧窮生活を送っていた計都は、舞い上がるよりも辟易してしまった。
海燕は侑悧に遠慮しつつも計都を案じてか、彼の許可を得た上で蜥蜴姿に転じ、相伴することになった。計都の掌ほどの大きさの隠世の住人を、箸を進めながら侑悧は興味深く観察する。
「この者にも聞いたが、あなたの『親き者』なのだろう? いくら先祖返りとは言え、道士でもない者が龍を支配下に置くとは驚きだな」
「もとは母と契約していたんです。遺言で、わたしに引き継がれました」
母は先祖返りではなかったし、道士でもなかった。いったいどのような恩が、二人をつないでいたのだろう。
「無知で申し訳ないのですけど。夜の王とは、このような『隠れたる者ども』の頂点に立つ御方なんですよね?」
「ああ。だが隠世には、それなりの秩序や上下関係はあるが現世ほど明確な政治や官職などは存在しない。そういう意味では、大王と言うより山賊の総大将などのほうが近いだろうな」
皇帝と対になる存在を、山賊扱いとは畏れ入る。
「だが、幾度もの革命を経て、正式な夜の王の祭祀はもう現世に遺されていない。ずっと民間信仰のひとつに過ぎないと思っていたから、ここで目を覚ましたときには仰天した。私もまだ、先代の下で学び始めたばかりだ」
やや気恥ずかしそうに苦笑する侑悧の姿に、ようやく計都は少し親近感を覚えた。夜の王と后として、計都も侑悧もまだまだ幼子のようなもの、これから共に成長していけばいいのだ。
「では、わたしは后として、何をすればいいのでしょう?」
計都なりに真摯に問うと、侑悧は瞬き、小さく笑った。
「そう身構えずともいい。ケイトの役目は、私の后であることそのもの。何も気負うことはない」
「ですが、」
さすがにそれだけということはないだろう。皇后は、ただ着飾って皇帝に侍るだけの存在ではない。皇帝を、朝廷を、延いては国を支える責務がある。言い募ろうとする計都をの髪を、侑悧は慈しみを込めて撫でた。
「私を笑顔で出迎えて、こうして食事を共にしたり、話し相手になってくれれば、それだけで充分だ」
「…………」
あやすような手つきに、計都は押し黙る。妻は夫を支えるものだと教えられてきたし、実際、現世では横暴な夫に従うほかなかった。ただいるだけ、それだけで支えになるなどとは考えたこともなかった。
侑悧は箸を置き、海燕の存在もお構いなしにそっと計都の肩を抱き寄せる。睦言のような囁きが耳朶をくすぐった。
「ケイトのことは、何があっても私が守る。だからケイトは、ここで
「……わかりました」
優しげで、けれども異論を挟む余地のない言葉。完全に納得したわけではないけれど、心の重石がひとつ外れた気がして、計都は夫の腕の中でただ頷いた。
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