二. 隠世

 夜半の覚醒のように、計都は唐突に目覚めた。


 毎朝見上げる染みの浮いた天井ではなく、色とりどりの花々に舞い遊ぶ鳥や蝶が、天井よりも低い位置から計都を見下ろしている。その中の一羽の蝶が翅を震わせて飛んでいった気がしたが、さすがにそれは錯覚、夢の残滓だろう。


 違和感はほかにもあった。こんなにやわらかく肌触りのいい布団、父が健在の頃ですら使ったことがない。


 けれどまったく知らない感触ではない。むしろつい最近、触れた覚えがある。


 そう、僅かに三日だが、禁城での潔斎の間、計都は上級妃のような厚遇を受けていた。


 否、ような、ではなく、妃そのものとして、だ。


 但し、――――昼の帝ではなく、夜の王の后として。


「!」


 思わず跳ね起きる。と同時に、傍らに人の気配を感じた。


「気がついたか。急に起きると危ないぞ」


 その者は、前のめりに身を起こした計都の肩をやんわり押し留める。やや荒い呼吸のまま、計都は大きな掌の主を見上げた。


 垂領たりくびの青い衣を纏う、長髪の青年だった。年の頃は二十台半ばほどか。やや軽薄だが精悍な、割と計都好みの容姿をしている。


 だがその両の眼には、人にはあるまじき縦長の瞳孔が宿っていた。


 しかし、計都はそれを恐ろしいとは思わなかった。義母や夫君からの悪意、使用人の無関心、そんな目に慣れた計都にとって、気遣う色の眼差しは、たとえ人でなしのものでも心に沁みた。


 それに、よくよく見れば布団以上に見慣れた眼、聞き慣れた声である。


「……まさか、カイエン?」

「ご明察」


 蜥蜴の、龍の目がからかうように笑う。その左目下には、鱗を図案化したような小さな刺青があった。呆気にとられ、計都はまじまじとその全身を凝視する。確かに、見慣れた蜥蜴は現世での仮のものだと知っていたが、この姿は想定外だった。


「そんな姿だったの、あんた」

「まあこれも、仙としての仮の姿だけどな。龍の姿じゃ、さすがにこの部屋でも手狭だ」


 その台詞で、ようやく計都は椅子に座った海燕の肩の向こう、自分がいる状況に目を向ける余裕ができた。


 計都が寝ていたのは、狭い棺ではなく両腕を伸ばしてなお余りあるほど広い寝台だった。壁際を窪ませて造り付けされたものらしく、洞門のように円く開いた縁からは薄布が垂れ下がっているが、今は両端に括られて、その向こうの様子もはっきり見える。


 部屋そのものよりも寝台のほうが広いくらいではと思ったがそれは早合点で、よく見ると正面には壁がなく、代わりに目隠しとして背の高い衝立が並べられていた。おそらく向こう側には居間があるのだろう。机や棚などの調度品も含め、父の書庫で倹しく暮らしていた計都から見れば、無駄と思える程に広く、贅を凝らした造りである。寝台内にひとつだけ設置された精緻な花窓から覗く空は、計都の目と同じ色をしていた。


 計都の胸に去来したのは、感激よりも警戒心だった。騙されていると言うか、冗談の中に放り込まれたような心地である。


「……どこなの、ここ」


 思わず海燕の袖の端に縋り、計都は小さく問う。袖を握らせたまま、海燕は言った。


「忘れたのか? ケイトは夜の王の后になったんだ」

「それは……覚えてる、けど」


 忘れられるものか。幾重に響く読経、喉が焼けるような毒、義母の笑顔。すべてが鮮明だ。


「だったら説明するまでもないだろう。ここは蓉山ようざん、夜の王の宮殿だ」


 蓉山は都の艮、大王を祀る総本山ではある。しかし。


「王の宮殿って、まさか」


 蓉山に参詣したことはない。しかし書物で読んだ限りでは、大小の伽藍や御堂、祠廟が林立する大規模な山門ではあるものの、宮殿と呼べるほどの豪勢な構造ではなかったはずだ。


「正確には、蓉山の隠世かくりよに建つ王宮だけどな」

「隠世って……じゃあやっぱり、わたしは死んだの」

「いや、……いや、まあ、ある意味そうか」


 否定しかけた声を更に否定し、海燕は続ける。


「ここは死者の世ともまた違う、現世の陰。ケイトは現世を離れて、隠世で登仙した」

「登仙って……」


 夜の王は人として生まれ、人でなくなった者。伝説そのものの現状に、計都はしばし絶句した。


「…………夜の王って、本当にいるんだ……」

の主人のくせに、何を今更」


 呆れ返った海燕の声。彼は范奈のような皮肉ではなく本心から、夜の王の伴侶に選ばれたことを誉れ高いことだと言っていたのだ。


 計都は空いた左手を開いたり握ったりする。着ているものは白い婚礼衣装ではなく、ありきたりな白単衣の夜着だった。髪も解かれ、夜の川のように背に流れるばかりである。


「……これ、わたしの本当の身体?」

「ああ、燈摩トーマとレイリから授かった身体だ。もう龍の血にも負けない」

「でも、毒を呑んだのに」


 では今の自分は「彷徨う屍」、僵尸に近いものなのだろうか。しかし呼気も、体温もある。


「まあ毒は毒だが、あれは仙丹の一種だ。歴代皇帝が血眼で探し求めた不老不死の仙薬に近い。ケイトも王も先祖返りだから効果はあると思っていたけど、心配無用だったな」


 しかしよくそんなものをつくる技術が残っていたものだ、と海燕は感心したような感想を漏らす。革命によって都が焦土と化すごとに古代の叡智、呪法は失われていった。人為的に人を悪魔憑きにすることで限界を超えた膂力を引き出す人間兵器、「臨めるつわもの」などがその筆頭だろう。


「で、道士たちが去ってから、夜の王に仕える仙人たちが棺からおまえを運び出したんだ」

「……じゃあ、もしかしてあのとき、隣の閉じた棺の中って」


 今思えば、香を焚いていたとは言え、死後半月近く経った骸が収められている割には腐臭も虫も湧いていなかった。いくら蓋を閉じていたところで、本来であれば抑えきれるものではないはずだ。


 海燕は計都の推論を正確に先読みし、肯定する。


「ああ、空っぽだった。今も空の棺をふたつ並べて、埋葬まで七日ごとの儀式を行っているんだろう」

「って言うか、あれから何日経ったの」

「七日だな。初七日の儀が終わったから、仙として覚醒したんだ」


 だったら、計都より半月先に夜の王となった廃太子も、既にこの隠世の王宮で目覚めているということだろう。そう考えた矢先、前触れなしに衝立の向こうで扉の開く音がした。


「……!」


 そのまま息を切らせて寝所に現れたのは、海燕よりもやや背が低く線の細い青年だった。盤領あげくびの長袍に、黒髪を緩く束ねていて、今まで計都が見た誰よりも綺麗な顔立ちをしている。迷わず計都だけを見つめる両の眼は、満月を映したような金色だ。


 身を起こした計都の姿を認め、青年は真っ直ぐ寝台に歩み寄ってくる。海燕が目礼して席を譲ろうとしたが、計都が袖を握り締める拳を緩めなかったために叶わず、仕方なしに椅子ごと少しだけ退いた。


「た」


 太子様ですか、と問わんとした計都の声は、まさにその当人によって遮られた。感極まった様子の青年に、寝台の縁に腰を下ろした途端、きつく抱き締められたからだ。


 突然の抱擁に、計都は反射的に身を硬くする。男の腕など、亡父と元夫のものしか知らない。そして今は、後者の記憶のほうが圧倒的に強い。無意識に、海燕の袖を掴む手にも力が入った。


 腕の中で硬直した計都の反応に構わず、廃太子と思しき青年は囁くように謝罪の言葉を口にする。


「すまない。本当に、申し訳ない。……朝廷の政権争いに、無関係のあなたを巻き込んでしまった」


 見た目の印象そのままの、落ち着いた涼やかな声音だった。廃されたとは言え、この国で最も貴い一族の者が、商家の妾に堕とされた文官の娘にただひたすらに詫び続ける。


「謝って許されるものではないと解っている。二度とあなたを傷つけることはさせない」

「わかりました、大丈夫ですからっ。顔をお上げくださいっ」


 やや早口に言い募り、計都は恐れ多くも太子の胸を押し返そうとする。太子を廃され、今や夜の王となった青年は、ようやく新妻から身を離した。


 改めて向かい合うと、王はやはり、輝く金色の双眸の持ち主だった。西域の国々では、計都のような青い眼の者はそこまで珍しくないそうだが、金の瞳というのは聞いたことがない。恐ろしくも神々しい、まさに夜の王に相応しい色だ。


あざなを訊いてもいいだろうか」

「ケイト。蘇計都です」

「ケイト殿、か。私はユーリ。ロウ侑悧だ」

「殿だなんて、恐れ多いことにございます」


 皇族に敬称で呼ばれるような身分ではない。


「歳は?」

「二十三です」

「年上なのか。私は二十歳だ」


 それは計都にも意外だった。ずっと邸の奥に閉じ込められていた計都と比べると、陰謀ひしめく禁城に暮らしていた侑悧は、年齢以上に達観した雰囲気を纏っている。


 そこで一旦、交わす言葉が絶えた。だが計都には、侑悧自身のことよりも、この世界について尋ねたいことが山ほどある。しかし身分の低い自分のほうから質問して許されるだろうか、と迷っていたところに、新しい声が割って入ってきた。


「おーう、目を覚ましたか。おはようさん」

「目覚めの気分はどうだ?」


 共に寝室を訪れたのは、三十路手前の青年と、十歳足らずの少女。青年は流星のような銀髪に宝玉の如き紫の瞳、少女は濃紺と薄紅の混じった不思議な髪色をしている。二人とも、その派手な色合いに負けない面立ちの持ち主だった。


 少女の領巾ひれに蝶が止まり、溶け込んで模様と化す。それを目の当たりにした計都は目を剥いたが、よくよく見ると、裙に描かれた花や雲も、風にそよぐように揺れていた。こうなると、寝台から飛び出した蝶も、あながち夢ではなかったのかもしれない。というか、それがまさに、今少女の衣の一部と化した蝶であった気がする。


 少女がとことこと長い裾を捌いて寝台に近づくと、侑悧は腰を浮かせて場を空けた。そこに少女が膝立ちで乗り込み、小さな手で計都の額や頬、首筋などを検分する。


「うん、仙丹の副作用や後遺症もなさそうだな。至って健康だ」

「……ありがとうございます」


 大人びた口調と裏腹に歳相応の笑みを向けられたので、褒められたと解釈して計都は礼を述べる。


「あの、あなたたちは」


 つい口をついて出た質問には、寝台から一歩離れたところに立つ銀髪の偉丈夫が答えた。


「わしは紫苑シオン。その小さいのは連理レンリ。お主たちの先代じゃ」

「先代ってことは」

「退位した夜の王と后だ」


 そう言って、連理は大仰に息を吐く。


「まったく、待ちわびたぞ、おまえたち」


 たち、というのは、計都だけでなく侑悧も含まれているのだろう。仮にも太子、新しい夜の王を「おまえ」呼ばわりできることが、彼女の身分を雄弁に物語っていた。紫苑も幼な妻に同調するように破顔する。磊落な中にも確かな気品を備えた、こちらもやはり、位の高さを感じさせる立ち居振る舞いである。


「実に六百年ぶりの譲位じゃな」

「六百年!?」


 途轍もない数字に計都は驚嘆したが、連理は当然だと言わんばかりの顔つきになる。


「そうだ。シオン様が襲名して間もなく采が滅亡して、以降、現世で夜の王の選出はなくなったからな。もう未来永劫、後継ぎは現れないかと覚悟していたぞ」

「ようやく気儘な隠居生活に入れるのう」


 では、まさにこの二人が、呪術王国末期の、最後の夜の王と最初の夜の后なのか。生ける伝説に、計都は言葉もなかった。


「まあ、正確には、現世で七七日の儀を終えてからの代替わりになるのじゃがな」

「それまでは、一人で王宮の外に出るんじゃないぞ。ユーリ殿も」


 軽く計都の頬を叩いて釘を刺し、次いで侑悧を振り返り、「さて」と連理は仕切り直しをする。


「今の現世から来た者には、隠世は疑問だらけだろう。ほかに何か訊きたいことはあるか?」


 目上の者から質問を促してくれたのはありがたかったのだが、計都は僅かに唇を開き、閉じ、結局辞退の言葉を口にした。


「……大丈夫です。いえ、確かに解らないことだらけですけど、解らなさすぎて混乱していて。ちょっとゆっくり、頭と心の整理をしたいと思います」

「そうか」


 連理は気分を害した様子もなく、鷹揚に頷いて寝台から降りる。


「わらわたちもこの王宮内に暮らしている。知りたいことがあったらいつでも訪ねて来い。居所は宮仕えの仙人たちに訊けばいい」

「では、わしらはお暇するとしよう。ゆっくり休むことじゃ」


 紫苑は連理を身軽に抱き上げ、計都に笑いかける。こうして見ると、夫婦というより父娘だ。伝説を信じるのであれば、そもそも二人は伯父と姪になる。


 二人が退室すると、侑悧は今一度計都を見遣り、一拍置いて立ち上がった。名残を惜しむように計都の頬に触れ、「また来る」と微笑を残して去っていく。衝立の向こうで扉の開閉音の余韻が消えると、室内は再び二人きりとなった。


「……俺はどうしたほうがいい?」

「カイエンはここにいて。一緒にいて」

「わかった」


 俯いたままの懇願に、海燕は頷いた。固くなるほど袖を掴み続けた計都の拳を、海燕が壊れものを扱うような手つきで解き、己の両掌で包む。その温かさに、理由の知れない涙がひと粒だけ青い瞳から零れ落ちた。




 侑悧が退室すると、扉は自ら動いて閉ざされる。その陰に、一足先に出て行ったはずの先代夫妻が待ち構えていた。


「いいのか? 新妻と間男を二人きりにして」

「間男って……あれは彼女の『ちかき者』でしょう」


 幼い容姿から飛び出す過激な発言も、侑悧は努めて平静に往なす。しかし連理は不服げだった。やわらかな頬が軽く膨れる。


「本当に間の悪い男だな。ずっと部屋に通い詰めていたのに、后が目を覚ました瞬間には立ち会えなかったなんて」

「……立ち会ったところで、あの者には敵わなかったかもしれません」


 部屋にいる間、ずっと「親き者」の袖を離さなかった白い拳に、侑悧も気づいていた。


「どうせ時間は厭きるほどあるんじゃ、お互い、ゆっくり歩み寄ればよかろうて」


 紫苑は連理に比べれば楽観的だった。からからと笑う夫に、連理はますます頬を膨らませる。対照的な夫妻に、侑悧は曇りなき眼できっぱりと宣言した。


「彼女は私の妻です。何よりも誰よりも、大切にしますとも」

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