夜の妃はまだ恋を知らない

六花

一. 縁談

「さようならケイト。あちらでも、よく殿下にお仕えするのですよ」


 その悪意に充ち満ちた義母の笑顔が、計都ケイトの人としての最後の記憶だった。


     ◆


 そもそも、ご機嫌麗しい様子の義母に「ああ、ここにいたの」と声をかけられた時点で、計都には悪い予感しかしなかった。


 そのとき、計都は南房の厨にいた。八年前、西房の自室から乾の離れに追い遣られて以降、計都にまともな食事が届けられた例しがない。昼過ぎや夜更けに、残り屑で簡単な料理をつくって空腹を凌ぐのが常になっていた。使用人たちには見て見ぬふりをされることもあるが、今日は無人だった。


 そこに思いがけず現れた義母・范奈ハンナの姿に、急いで計都は土間に膝をつく。「仮にも蘇家ソけの令嬢が、浅ましいこと」と、計都の窮乏の根源である彼女は侮蔑の色を隠さず、かと思えば薄っぺらい笑みを貼り付けて義理の娘を見る。齢を重ねてなお、いや、歳経たからこそ、そこには小娘には醸し出せない妖艶な色香があった。真面目一徹、出世には縁がなく万年中流文官だった父が惑わされるのも無理はない。禍々しいほど赤い衣も、けばけばしい金の簪も、悔しいけれどよく似合っていた。


 蜜の香を纏う毒を含んだ笑みを浮かべ、戸口に立った范奈は朱唇を薄く開く。そこから謡うように、膝をついた計都の予想もしない言葉が飛び出してきた。


「喜びなさいケイト、おまえの縁談が決まりました」

「……わたしの、ですか? 娃紗アイシャ、様ではなく?」


 青天の霹靂に、計都は思わず義妹に対する敬称を忘れかけ慌てて取り繕う。


 七歳で母を亡くし、喪が明けたのちに迎えた義母がこれで、十五で父も失った。更なる不幸は、父が亡くなったのが、「そろそろ、ケイトの嫁入り仕度を始めないとな」と嬉しそうに淋しそうに笑った直後だったことだろう。使用人たちの噂によると、下級妃で、父娘ほどの歳の差だが、後宮に召し上げられるという話もあったらしい。だが勿論、義母がその仕度を引き継いでくれるはずもなく、斯くして齢二十三の、世間的には立派な行き遅れが誕生した。


 ……いや、正確に言うと、行き遅れというわけでもない。


「ですがわたしは、既に大奥様の弟君を旦那様としてこの邸にお迎えしています」


 父に男兄弟はなく、息子もいなかったため、蘇家は長姉である計都が引き継いだ。


 しかし范奈も狡猾なもので、計都になんら諮ることなく己の次兄・延寿エンジュを入り婿に迎えさせた。その時点で彼は既婚者であったため、計都は第二夫人である。実家の商家で嫁取りはしたものの、家を継ぐでも分家をつくるでもない穀潰しであった次兄を中流とはいえ貴族の家長に据える、見事な謀りごとであった。


 とは言え、延寿は朝廷につかさを得ていない。今までの蘇家の蓄えと裕福な実家からの援助で、取り敢えず貴族としての体面を保てる程度の暮らしが成り立っている。


 だから現在、北房には延寿夫妻が、西房には夫妻の子息たち(最近はこの二人も計都に粘ついた視線を向けるようになってきた)が、東房には義母と義妹が暮らしている。血のつながりがないのは計都一人、細々とだが由緒ある蘇家は完全に乗っ取られてしまった。


 蘇家の生き残りとして計都が反論すると、その言葉を待っていたと言わんばかりに范奈はどす黒く笑った。


「安心なさい。おまえはエンジュ兄上の妾。正式な夫人ではないのだから、嫁入りになんの不都合もない」

「……!」


 蘇家の惣領娘の自分が夫人ではなく妾であったことは、計都には大きな衝撃だった。


 跪いたまま言葉を失った計都の顔を、范奈は満足げに見下ろす。


 勝ち誇った笑みを刷く范奈の唇に、計都は早々に敗北を受け入れた。ここで泣いたり食ってかかったりしても、ますます彼女を喜ばせるだけだ。そんなことをしても非情な現実は変わらない。ならば早く話を進め、お戻りいただいたほうが賢明である。


「……承知いたしました。それで、お相手はいずれの殿方なのでしょう」


 どうせ計都に拒否権などない。祖父と孫ほどに歳の離れた好色爺の第五夫人だろうが、冊封関係にある蛮族の妻だろうが、義母兄妹の下から逃れられるのであれば、考えようによっては幸いと言える。計都は努めて、明るい面に意識を向けることにした。


 殊勝に現実を受容した計都に、范奈はつまらなそうに鼻を鳴らす。今更のように扇で鼻から下を覆い、その陰で告げた。


「聞いて驚きなさい。皇兄殿下よ」

「…………は?」


 覚悟していた相手とは真逆の人物に、計都は青い目を見開いた。この蘭国ランこくでは異質なその色彩を、范奈が眇めた双眸で見返す。


「おまえのその、『先祖返り』の目が見初められたの。身に余る光栄でしょう」


 かつて、この中原ちゅうげん大陸が呪術大国と名高かった頃、国には様々な目や髪や肌の色をした人々がいた。けれど時代が下り、国の盛衰を繰り返すごとにそれらは黒く上塗りされ、今では殆どの者が黒髪黒目、黄味がかった肌の色をしている。


 そんな中でも、稀に先祖返りを起こし鮮やかな色を宿して生まれる者もいて、計都はまさにその類いだった。遠ざかった国の血、失われた呪力を色濃く継いでいると尊ばれ、燃えるような赤目の村娘が僻地から妃に迎えられたなどという逸話が残るくらいだ。特に今の蘭王朝は、古代の栄光を取り戻すことに意欲的だった。


 だから、八年前にも話が湧いたように、青い双眸の計都が皇族に嫁ぐことも、然程不自然なことではない。


 しかし、そんな夢物語のような縁談を、范奈が喜色満面で計都に持ちかけてくることは不自然極まりない。いや、あり得ない。


 そして当然のように、その縁談には裏があった。


「……皇帝とは、この夏ご即位あそばされた御歳十八の、先帝の第三皇子であらせられた陛下のことでしょうか」

「ええ、そうよ。よく知っていたこと」


 あんな薄暗くて黴臭い自室に籠もりきりの癖に、と目が口ほどにものを言っていた。だが、対外的には、父を亡くして心を病み、夫君を迎えはしたものの邸の奥に引き籠もっている、と吹聴されていることも計都は知っている。


 しかし今はそれより。


「では皇兄とは、前太子様であらせられた第二皇子のことですか」

「ええ、そうね」


 第一皇子は十年以上前に薨去しているため、確認するまでもなくそういうことだろう。しかし、先帝の第二皇子と言えば。


「おかしいではありませんか。第二皇子は、先帝を呪った咎で廃太子されて、つい十日前に処刑されたはすでしょう!?」


 そう、既に第二皇子もまた、黄泉路を下った人物なのだ。


 そんな相手に嫁げとはどういうことなのか。思わず語気を荒げた計都に、范奈は眉間に皺を刻み、厭味ったらしく溜め息をついた。


「世間の口に戸は立てられぬとはよく言ったものだこと。まさかおまえが、そこまで知っているとはね。……いったい誰に吹き込まれたの」

「…………」


 明かせばその使用人に罰を与えると言わんばかりの眼差しで、范奈は計都を睨み据える。計都は無言を貫いた。見合うことしばし、「まあいいわ」と范奈が色を塗った瞼を伏せた。全員を均しく罰すればいいだろうという結論に至ったらしい。扇を閉じたかと思うと、急につかつかと歩み寄り計都のこめかみを打ちつける。


「処刑だなんて無礼な物言いを。第二皇子は皇帝と対となってこの国を護る大王におなりあそばされたの、帝位と同じくらい誉れある御位に就かれたのよ」


 政治まつりごとを以て国と民を統べる皇帝と、祭祀まつりごとを以て「隠れたる者ども」を支配する大王。神仙や物の怪、闇に隠れる数多のを束ねることで、皇帝の治世を影から支える大王信仰の起源は、呪術大国の絶頂期を迎えたサイの時代よりも古い。陰陽説に於いて、皇帝が陽の存在であれば大王は陰、そのため「月の王」「夜の王」などとも称される。


 だが人ならぬ者の頂点に立つためには、自身も人ではいられない。かつては皇帝の代替わりと共に大王も選出され、仙として丁重に祀られた。……人として葬られたのちに。


 大王が今も民間から篤い信仰を集める、尊い存在であることは間違いない。しかし実態は、帝位争いに敗れた者の末路のひとつだ。


 そんな、采の滅亡と共に潰えた血塗れの古いしきたりを、今この時代に甦らせようというのか。


「ただ、残念なことに第二皇子は未婚のまま亡くなられたものだから、そのまま埋葬しては障りが生じるでしょう」


 処刑と言うなと叱責した直後に、自ら亡くなったと宣う、見事な二枚舌ぶりに計都はひそかに呆れる。


 しかし、未婚の埋葬が忌避されるというのも古くから根付いた考えだ。若くして亡くなった男女を夫婦として共に葬るのはまだいいほうで、道連れとして手頃な相手を殺めて添わせる過激な手段がとられる場合も決して少なくない。


「つまりわたしは、廃太子の冥婚の相手に選ばれたということですか」

「察しがよくて助かるわ。腐っても文官の娘ね」


 冥婚。死者同士の婚姻。范奈であれば、嬉々として計都を差し出すだろう。


「第二皇子も先祖返りの色をお持ちでいらしたとのこと。死に損ないのおまえには、勿体なくもお似合いの縁談ではないの。多少があっても受け入れてくださるわ」


 再び扇を開き、范奈は高らかに笑う。


 范奈の嘲笑のとおり、計都は十歳を迎える直前、風邪をこじらせ生死の境を彷徨った。どうにか峠を越え、回復した計都を見舞った范奈の、無事を喜ぶ言葉とは裏腹に「そのまま死ねばよかったのに」と如実に語っていた眼差しは今もはっきり覚えている。


「明朝、朝廷より迎えが来るわ。それまでに部屋を片付けておきなさい」


 そう言うと、范奈は踵を返し厨を後にした。よく見たら侍女も付き従っていたようだが、彼女も計都に一礼もせずに女主人に続く。


 ようやく静けさを取り戻した厨の中、計都は緩慢に立ち上がった。


 自分は間もなく死ぬ。突如突きつけられた現実だけが、脳内を埋め尽くす。


 そのまま覚束ない足取りで部屋に戻ろうとしたが、耐え難い空腹が思考に亀裂をもたらした。朝から何も食べていない。野菜と肉の切れ端が浮いた薄い汁物を手早くつくり、計都は厨を出た。


 計都の現在の部屋は、邸の隅、最も陽当たりの悪い一角にある。元は亡父の書庫であったのだが、既に書物は売り払われ、簡素な文机と椅子、古びた寝台だけが残る殺風景な部屋だ。旦那様は地震で崩れた書物に埋もれて亡くなった、謂わば仇を置いておけるものですか、などと范奈は言っていたが、詭弁だろう。実際は書架の上に飾られた置き物が頭に直撃したのが死因だし、古書はまあまあの値がつく。


 そして范奈は夫の死とその娘を庫に閉じ込め、邸の女主人となった。


 昼間でも薄暗い部屋の中、計都は壁に据えられた文机に汁椀を置く。椅子に座る前に香が切れていることに気づき、壁棚の香炉に新しい練香を入れた。ふわりと独特の匂いがたなびき、束の間黴臭さを薄めてくれる。


 ようやく遅い昼餉にありつくと、唯一の丸窓からちょろりと蜥蜴が入り込んできた。義母や義妹であれば悲鳴を上げて叩き出すだろうが、計都は苦笑して机上に迎え入れる。


「カイエン、あんたほんと鼻がいいのね。いっつも人の食事時に来るんだから」


 言いながら、匙で掬った肉のひと欠片を蜥蜴の口許に遣る。蜥蜴は遠慮なく欠片をひと呑みにした。


「これじゃ全然足りん」

「だったら自力で虫でも捕まえてきなさい」

「それが大恩ある偉大なる鱗族の長に対する台詞か?」


 お裾分けに蜥蜴が漏らした不満を、計都はすげなく一蹴して汁を啜る。


 喋る蜥蜴。義母どころか邸の者が見たら卒倒するだろう。

 

 勿論、単なる蜥蜴ではない。これが、いわゆる「隠れたる者ども」、現世うつしよの陰に巣食う夜の眷属だ。


 そして、本人の主張どおり、計都の命の恩人でもある。


 十四年前、死の淵にいた計都に、海燕カイエンは己の血を与えた。蜥蜴は昼の都での仮の姿、海燕の本性は「嵐を招く者」、龍であり、龍の血は古来より万能薬として珍重されている。それによって計都は九死に一生を得たのだ。


 だが、海燕が計都を救ったのは、気まぐれでも、まして同情でもない。海燕はかつて、計都の母に憑いていた、遠い西域の言葉で言えば「使い魔ファミリア」だった。海燕もまた、計都の母に恩があり、彼女に仕えていたらしい。


 遺言によって契約は母から計都に引き継がれ、血を分けたことで結びつきはより強固になった。


「それより聞いたぞ、おまえ、夜の后に召されたんだってな。大出世じゃないか、さすが茘莉レイリの娘だ」

「夜の后?」

「夜の王の伴侶のことだ」

「ああ、……まあね」


 匙を汁に沈め、計都は曖昧に肯定する。早耳と言うか地獄耳と言うか。しかし海燕のおかげで、邸から一歩も出られない計都も、巷間の様子をある程度知ることができていた。皇帝の代替わりや廃太子の処刑を教えてくれたのも、当然海燕である。


 大王信仰に比べると、その伴侶への信仰は比較的新しい。采王朝末期、世の乱れを憂いた皇帝が、自らの器量を棚上げし、末娘を大王への供物に捧げることで鎮化を図った。その非道に怒った大王が彼女を贄ではなく妻として迎えたのが始まりだと言う。そして甲斐なく王朝は易姓革命によって滅ぼされ、夜の王の代替わりの儀式は絶えた。


 いかにも億劫な相槌に、海燕は怪訝そうに瞬膜を瞬かせる。


「気乗りしないのか? 皇后に匹敵する女の最高位だぞ?」

「するわけないでしょうが。大王だ后だ言っても、取り敢えず死ぬのよ? そもそも、」


 そもそも、死者を祀り上げて自分たちの罪悪感を薄めるための信仰でしょう、と愚痴を続けようとしたが、計都は口を噤んだ。海燕は計都や母の「親き者ファミリア」である前に夜の住人だ。聞いて愉快な気分にはなるまい。


 呪術大国ではなくなった蘭に於いて、諸々の呪術や信仰は飽くまで伝説上のものに過ぎない。此度の一件も、廃太子が先祖返りであったことに絡めて、誰かが古い文献から進言したのだろう。范奈とて、名誉ではなく犠牲と思っているからこそ計都を売り渡した。


「そもそも、なんだ?」

「……大奥様が持ってくる縁談だもの、警戒して当然でしょ」


 義母を母上と呼ぶことは許されていない。別の言葉を捻り出すと、海燕は面白そうに笑った。


「ああ、あの女もなかなかやり手だな。おまえを夜の后に献上する代わりに、自分の娘を後宮入りさせる算段をつけたらしい。それも女官じゃなく嬪妃としてな」

「……なるほどね」


 女官はともかく、嬪妃となるには蘇家の家格は低すぎる。計都が一度妃にと望まれたのは、先祖返りの目があってこそだ。しかし成り手のいないだろう廃太子の冥婚相手を引き受けることで、特例的にそれを認めさせた。義娘を亡き者とし愛娘を若き皇帝の妃にする、范奈にとってはまさに一石二鳥である。


「まあいいの。大奥様に利用されるのは癪だけど、どうせ、あと数年の命だったんだし」


 龍の血は万能薬だが、強すぎる薬は毒ともなる。先祖返りを起こしながら通力を持たない計都の身体は龍の血に耐えられる器ではなかった。三十路まで生きられれば御の字だな、と無慈悲に告げたのは、他ならぬ海燕である。


 どうせこの邸で死んだところで、まともな葬儀をしてもらえるとは思えない。だったら少しばかり時期が早まっても、后として丁重に葬られるのも悪くないだろう。


 唯一心残りがあるとすれば。


(せめて、初恋くらいはしてから死にたかったな)


 その顔を見て、声を聞くだけで、舞い上がったり落ち込んだり、甘く切なく胸を焦がす想いを、一度でいいから感じてみたかった。 


「そう投げ遣りになるなって。夜の后になれば、」


 今度は海燕が途中で台詞を止め、素早く窓の向こうに逃げる。直後に庫の扉が乱暴に開けられ、現れた人物の姿に計都は戦慄した。


「……旦那様」


 さすがは范奈の兄と言うべきか、不惑を越えてやや弛んだものの、面立ち自体は整った部類に入るだろう。しかし歳を重ねるごとに若い頃からの不摂生が外見にも影響を及ぼし、崩れた印象が拭えない。


 ふた周り近く歳の離れた計都の夫君は、獲物を嬲るような目で妾を見て顔を顰める。


「相変わらず辛気くさい匂いが充満しているな、ここは」


 伽羅や丁子のような一般的な香ではなく、計都が虫除けのため庭の草木で独自に調合したものだから、万人に好まれる香りではない。


 その匂いを知りながら、延寿がこの庫を訪れる理由はひとつしかなかった。


「まだ、陽が高うこざいます……」


 語尾が震える。何年経っても慣れない恐怖に慄く計都の表情に、殊更愉しげに目を細め、延寿は無遠慮に距離を詰めてきた。


「構わん。明日には朝廷に入り、数日後には廃太子と同じ毒を賜るんだろう。最後に妾として奉仕してから死ね」


 腕を掴まれ、椅子から床へと押し倒される。反射的に計都は抵抗しようとして、頬を殴られた。悲鳴は噛み殺したが、口端から血が滲む。その鮮やかな色に、延寿の目に嗜虐の炎が灯った。


 支配し、支配された男女の鼻先を掠めるように、ゆうらりと香炉から煙が流れた。



 翌日、小雨の中ひっそりと、しかし恭しく朝廷からの遣いが訪れ、計都は実に八年振りに邸の外に出た。持ち出すほどの荷物もなく、ただ上衣の袖の中に一匹の蜥蜴を潜ませている。見送る者はいなかった。


 やがて雨はあがり、馬車に揺られ、大門をくぐり、もう縁はないものと思っていた禁城に入る。途中で輿に乗せ替えられて建物の間の路を進み、最終的に辿り着いたのは小さな宮だった。城のどの辺りに位置するのかは判らない。


 そこで潔斎すること僅か三日、純白の婚礼衣装を纏った計都は、再び輿に乗せられ宮を出た。今回は蜥蜴の供がなく、行き先は判っていた。城の北、殯宮殿だ。


 そこで、一足先に毒を呷った廃太子が死出の旅路を共に往く妻を待っている。


 円形の洞門で輿を降りると、厳かな空気と腐臭を抑えるための香が漂う殯宮殿には、道士たちと共に白い喪服姿の范奈がいた。計都の姿を認めて険しい目つきになったのは、その装いが己とは段違いに豪奢だったからだろう。婚礼衣装は赤が用いられるが今回は葬儀の白、とは言え金糸銀糸の細やかな刺繍や歩揺の凝った細工などは、皇族の婚儀に相応しい代物だ。つい昨日後宮入りしたらしい義妹はいったいどのような衣装を纏っていたのかと思うと、少し胸がすいた。


 石造りの堂内にはふたつの棺が並べられていた。ひとつは蓋が閉められ、ひとつは開いている。その棺が、夫婦の高砂、終の寝所だった。


 道士たちによる読経が始まり、范奈が嫌悪と愉悦を押し殺した無表情で計都の手をとり、棺へといざなう。そして、道士の一人が捧げ持った杯を受け、棺に入った計都へと手渡した。こうして親族が夜の王に人としての引導を渡すのが、古式ゆかしい呪法なのだ。


 計都は呼吸を整え、僅かに躊躇し、それでも意を決して杯の中身を飲み干した。どろりとした感触が喉を滑り落ちていく。


 一息つくと同時に、激しい目眩に襲われる。范奈に形ばかり手を添えられ、計都は仰向けに棺に倒れ込んだ。いったいなんの毒だったのか、もう手足は痺れ、声は喉奥で潰れ、目を開いているのに視界が霞む。


 最期が近づいていることを見て取り、范奈は毒花のような微笑を義娘に手向ける。


「さようならケイト。あちらでも、よく殿下にお仕えするのですよ」


 その陶然とした言葉を最後に、計都の世界は暗転する。



 こうして、計都は二十三年の短い生涯を終えた。――――はずだった。

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