第七十三話 男たちの夢

 大口おおぐち徳之介とくのすけからコーヒーを受け取った京極きょうごくたかしは、アベック席に座る廣本ひろもとひさしに気づき頭を下げた。

「廣本さん、お久しぶりです」

「ああ。カイとリュウの世話を頼んですまなかったな」

 隆は廣本の返事を聞くとカイに呼びかける。

「廣本さんと少し話をしたいんだけど、席を借りてもいいかな」

「じゃ俺、康史郎こうしろうのところにいるよ」

 カイは立ち上がると、中央のテーブルに向かった。

 隆は廣本の向かいに腰掛ける。廣本は盛り合わせのミカンを一つ取るときり出した。

八馬やまがこないだ挨拶に来たんだ。ほとぼりが冷めるまで横浜に行くと言ってたな」

「では、もうここには帰ってこないんですね」

 隆は安心したようにうなずく。

「ああ。キャバレーやヒロポン作りの件は全部ヤクザの日下くさかの命令でやったということで、日下を収監する代わりに釈放してもらったんだとさ。お前にとっては許せない奴だろうが、あれでも俺の愚痴をいつも聞いてくれたんだ」

 廣本はミカンを剥くと半分を隆に差し出した。

「それで、体の具合はどうですか」

 隆の問いかけに廣本は顎に手を当てながら答える。

「よくはないな。今でも夜中にあの島の夢を見る。目が覚めるとカイとリュウの寝息を聞いて、ここは東京だと思い出すんだ」

「私で良かったらいつでも話し相手になりますから、ヒロポンだけはもうやらないでください。このミカンの方がずっと体にいいですよ」

 隆は廣本から渡されたミカンを受け取り、口に入れる。

「ああ。二人が独り立ちするまではせめて頑張らないとな。カイは倉上くらかみ商店の主人に気に入られて、跡取りにしたいと言われたそうだし、リュウは康史郎と結婚して一緒に働きたいと言ってる。俺は二人の手伝いをしながら時々果物を一緒に食べられればいいさ」

「では、廣本さんの将来の夢はなんですか」

 廣本は自分のミカンを頬張ると、小声で答えた。

「俺はあの島に眠ってる戦友たちの骨を日本に連れ帰ってやりたいんだ。いつになるか分からないが、その時はお前も付き合ってくれないか」

「もちろんです。一緒に行きますよ」

 隆は廣本の手を握った。


 一方、康史郎とカイは大口と一緒にコーヒーを飲んでいた。顔をしかめながらコーヒーを飲む康史郎をカイがからかう。

「ミルク入れたほうがいいんじゃないか」

「俺だってもう一人前だし、コーヒーくらい飲めるようにならないと」

「いい心がけだ」

 大口は康史郎を褒めると話し出した。

「幸い喫茶店の経営は順調で、萩谷はぎやさんに借りた金も少しずつ返してる。だが、また酒場が開けるようになったら、新しいキャバレーを開店させたい。名前ももう決めてあるんだ。『ニューホープ』。康史郎くん、中学を出たらうちの店で働かないか」

 大口は康史郎の肩に手を置く。

「働くって、お客さんとお酒を飲むのかい」

「それは女給さんの仕事だよ。君の仕事はお酒やおつまみを運ぶボーイさ」

「だったら俺でもできそうだ。姉さんに話してみるよ」

 うなずく康史郎に大口は言った。

「ありがとう。きっといつか進駐軍もいなくなるし、酒場も自由に開けるようになるさ。ところで、海桐かいどう君は将来どうするんだい」

 話を振られたカイは、自分のコーヒーを飲み干してから答えた。

「倉上さんに『うちの跡取りにならないか』って言われたんだけど、自分の店を開きたいから断ったよ。倉上さんの店で修行してお金を貯めたら、布や糸、ボタンの問屋を開いて、かつらさんやみんなの仕事の役に立ちたいんだ」

「そうか、浅草橋あさくさばしで店を持つのか。俺がキャバレーを開いたら遊びに来てくれよ」

「ああ、がんばるよ」

 カイはそう言うと、壁に飾られた桜の造花を見てから問いかける。

「大口さん、芝原しばはらはずっとここで働くのかい」

「いまは母上に頼まれて預かっているけど、将来については彼女次第だな」

「だったら俺、『店ができたら一緒に働いて欲しい』と頼んでいいか」

 康史郎は真剣な表情のカイに言った。

「それってあおいさんにカイが結婚を申し込むってことかい」

「先の話だけど、また誰かとお見合いの話が出たら嫌だから、今のうちに芝原の気持ちを聞いとこうと思ってさ」

「そうか。彼女は花見の会でピアノを弾くから、その後で話せばいい」

 大口は自分のコーヒーを飲むと、もう一つのアベック席を指さした。

「俺もいつか自分の店を持ちたいけど、それまでリュウは待ってくれるのかな」

 コーヒーカップを見つめながらつぶやく康史郎をカイが励ます。

「リュウに聞いてみればいいさ。俺はお前ならリュウを任せてもいいと思ってる」

「ありがとう、嬉しいよ」

 康史郎はそう言うと、コーヒーを一息に飲み干した。

「でもやっぱり苦いや」


 二階では、リュウが葵の下着とセーラー服に着替えていた。

「もしかして、初めてだったの」

 かつらの問いにリュウは無言でうなずく。

「それじゃ紙綿は持ってないわね。使い方を教えるから、今日帰りに買っていきましょう。紙綿を当てるためのきれいな手ぬぐいも用意しないとね」

「ありがとう。僕もお母さんが昔使っているのを見たことがあるけど、焼け出されてからずっとアニキと二人暮らしだったから、すっかり忘れてて」

 ようやく緊張が解けたリュウに、憲子のりこが優しく話しかけた。

「きっとあなたの体が、『もう安心していいよ』と言ってくれてるんですよ。私も朝鮮から引き上げてきた時、丸坊主にして父の服を着て、何ヶ月もかかってようやく日本に帰ってきたんですよ。ですから少しは分かります。お兄さんと二人でよく頑張りましたね」

 憲子は目頭を拭う。リュウは割烹着を着た憲子を見つめた。

「お姉さんも男の子のふりしてたんだ。僕も女の子に戻れるのかな」

柳子りゅうこさんはもう、どこから見ても女の子よ」

 かつらの言葉に、リュウは涙の跡を拳で拭い、自分に言い聞かせるように言った。

「僕……じゃなくてあたし、がんばったんだ。もう大丈夫だよね」

「そのセーラー服、良かったら差し上げますわ。柳子さんの服は風呂敷に包んで持って帰ってくださいませ」

 葵は家出の時に服を包んでいた風呂敷を差し出した。

「でも、これって」

 戸惑うリュウに葵は言った。

「姉から譲り受けたセーラー服をずっと着てまいりましたが、わたくしの体にはもう小さくなってしまいましたので、まだ着られる方にお譲りしたかったのです」

「ありがとう。葵さんの分まで大切に着るよ」

 リュウは風呂敷を受け取ると頭を下げた。

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