第七十四話 春のうららの

 二階からようやく女性陣が下りてくる。最後に現れたリュウを見た康史郎こうしろうは目を見張った。カイが尋ねる。

「そのセーラー服、どうしたんだよ」

あおいさんにもらったんだ。アニキ、康史郎、ヒロさん、心配かけてごめん」

 リュウは頭を下げると微笑んだ。

「僕、じゃなくてあたし、女学生になれたみたいで嬉しいよ」

「あたし?」

 康史郎がオウム返しをするが、リュウは気にせず話し続ける。

「だって、もう男の子にならなくてもいいんだもんね」

「ああ、そうだな」

 廣本ひろもとがぽつりと答えた。


 ハナエと育美いくみろんも階下に揃い、ようやく「花見の会」が始まった。かつらの持ってきた鯛の塩焼きといなり寿司を、大口おおぐちたかし、康史郎が各自の皿の上に配っていく。

「今日はパウンドケーキを用意しました。一切れずつどうぞ」

 憲子のりこが説明しながらパウンドケーキを切り分けた。

「でもきっとお高いんでしょうね」

 かつらはそう言いながらケーキを大皿に盛り付ける。

「手に入れるのも大変だから、当分は日曜の特別メニューにする予定さ」

 そう言いながらケーキの大皿を持った大口は、のぞみの皿にケーキを置いた。

「五歳のお誕生日おめでとう。もうすぐお姉ちゃんだな」

「ありがとう、いただきます」

 望はケーキを頬張ると目を丸くした。

「あまーい」

「ああ。幸せの味だよ」

 ハナエが望の頭を撫でながらしみじみと言った。


 食事が一段落すると、葵がピアノの前に座り、演奏を始めた。「春の小川」「うれしいひなまつり」など、春にちなんだ童謡や唱歌が中心だ。流れる音色を聞きながら、かつらは憲子に話しかけた。

「ここで再会したとき、『かつらちゃんの知っている私と今の私は違うから』と言ってたでしょ。何も気づかなかったわたしが恥ずかしいわ」

「謝らないで。色々あったけど、かつらさんと話しているときは昔の自分に帰った気分なんです。それに葵さんという素敵な後輩もできましたし」

「葵さん、お母さんの杏子きょうこさんとはうまくやってらっしゃるのかしら」

 かつらはピアノを弾く葵を見ながら尋ねる。憲子はコーヒーを飲みながら答えた。

「お店が休みの日は家に帰ってらっしゃいますわ。お母様は野川のがわさんと一緒に、倉上さんから紹介された内職をしてらっしゃるそうです。後、これは私の見立てですけど、高橋たかはし君のことが気になっているみたいね」

「へえ。だから柳子りゅうこさんにもセーラー服をあげたのかしら」

「分からないですが、お花の飾り付けを手伝いながら色々話してましたわ」

「二人は国民学校の同級生だったそうですし、カイ君はお父さんの店の配達でよく家に行っていたそうだから、うまくいくといいわね」

「うまくいくといえば、京極きょうごくさんとはどうなんですか」

 憲子に尋ねられ、かつらは小声で答えた。

「この間、口づけしてもらったの。まるで夢みたいだったわ」

「うらやましいですわ」

 憲子はうっとりするように目を閉じた。


 「花見の会」の締めくくりに、葵がピアノの前に立って言った。

「これからたき廉太郎れんたろうの『花』を弾きます。分かる方はご一緒に歌いましょう」

 葵は楽譜を広げると、歌いながらピアノを弾き始めた。

「はーるの うららーの」

「すーみだがーわー」

 かつらや憲子が声を合わせ、大口夫妻や育美いくみ、カイやリュウ、康史郎と次々と合唱が加わる。かつらは歌いながら、憲子やあずさと一緒に学んだ女学校の音楽の時間を思い出していた。


 「花見の会」も終わり、かつらと康史郎は隆と一緒に「墨田すみだホープ」のドアを開けた。

「また来て下さいね」

 憲子がドアに貼られた「本日貸切」の紙を剥がしながら呼びかける。

「今日は本当にありがとう。女学校時代に戻った気がしたわ」

 礼を述べるかつらに、葵が微笑んで言った。

「わたくしも京極さんが父の背広を着ていらっしゃるのを見て、嬉しかったですわ」

「こちらこそ、大切に着させていただきます」

 隆がかしこまって答えた時、葵の後ろからカイの声がした。

「芝原、リュウが服を取り込んでる間、ちょっと話したいんだけど」

「失礼いたします」

 葵はかつらたちに頭を下げてからアベック席へと歩いて行った。

(なるほどね)

 かつらは憲子と視線を合わせてうなずく。

「ありがとうございました」

 のぞみの声に送り出され、三人は歩き出した。


 うまや橋へと続く道を歩きながら、康史郎はかつらに、大口の開くキャバレーの店員になるよう誘われたことを話した。

「ボーイの仕事はお酒を飲まないっていうし、俺もカイのようにお店で働きながら修行したいんだ。いいだろ」

「いくらお酒を飲まないといっても、子どもが出入りする場所じゃないわ」

 かつらは八馬やまにキャバレーの女給になるよう誘われたことを思い出しながら答える。

「俺は大口さんのような困ってる人を助けられる大人になりたいんだ。もちろん京極さんも立派だけどさ」

「私に気を遣わなくてもいいから、お姉さんに迷惑をかけるようなことだけはするなよ」

 隆は明るく答える。

「もちろんさ。じゃ俺、先に家に行って銭湯の準備してくるよ」

 康史郎は走り出す。その姿を見送りながら隆はかつらに話しかけた。

「康史郎君は自分の未来を選んで歩いて行く。きっと大丈夫だよ」

「ええ。わたしの母親代わりもそろそろ終わりね。でも、困ったときにはいつでも助けてあげたいの。大切な弟ですもの」

 かつらはうれしさと寂しさが一気に押し寄せてくるような気持ちを感じていた。

「そして、私にとっても弟になるんだな」

 隆の言葉を聞いたかつらは、歩きながら提案した。

「ねえ隆さん、結婚式の時は披露宴代わりに『墨田ホープ』を貸し切ってみんなに来てもらおうと思うんだけど、どうかしら」

「それはいい。浜高の働く店に頼んで、紅白の餅を準備してもらおう。そうと決まったら、ますます新居探しを頑張らなくちゃな」

 隆はかつらの隣に並ぶと手を繋ぐ。かつらはそっとささやいた。

「わたしたち、みんなで幸せになりましょ」

 二人の繋ぐ手の間を、暖かい春の風が抜けていった。

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