第七十二話 お花見の会

 季節は冬から春に移り変わった。

 昭和二十三年三月二十日。土曜日ということで午前中で仕事を終えたかつらは、中学校から帰ってきた康史郎こうしろうと一緒に、戸祭とまつり啓輔けいすけ両国りょうごく駅近くで営む屋台の惣菜屋へ向かった。康史郎はかつらが湯のしした毛糸で編んだマフラーをしている。

「いらっしゃい、頼まれたいなり寿司、できてるよ」

 白衣にはんてんを羽織った戸祭が重箱を差し出しながら呼びかける。かつらは礼を述べた。

「ありがとうございます。あと、この鯛の塩焼きをいただけますか」

 かつらはがま口を取り出し、代金を戸祭に渡す。

「お、今日は奮発するね」

 戸祭はそう言いながら新聞紙に鯛の塩焼きを包んだ。康史郎が説明する。

「これから望ちゃんの誕生祝いとお花見の会を『墨田すみだホープ』でやるんだ」

「しっかし、すっかり若奥様って感じだな」

 髪を後ろで丸めて束ね、軽くおしろいと口紅を入れたかつらを戸祭が褒める。康史郎はからかうように言った。

京極きょうごくさんもお店に来るよう誘ったんでおめかししたんだよ。お陰で出かけるの待たされちゃってさ」

「康ちゃん、余計なこと言わないの」

 かつらは鯛の塩焼きの入った新聞紙を受け取ると重箱の上に載せた。

「それじゃ、商売がんばってくださいね」

「ありがとう。明日はお彼岸だし、花見客の予約も入ってるから征一にも手伝ってもらうよ」

 戸祭はかつらに答えると、次の客の応対を始めた。


 かつらと康史郎は「墨田ホープ」に到着した。ドアには『純喫茶 墨田ホープ 営業中』という木の看板が掛かり、その下に「本日貸切」という紙が貼られている。かつらがドアを開けると、青いワンピースを着た大口おおぐちのぞみが出迎えた。

「いらっしゃいませ」

「あら望ちゃん、かわいいわね」

 かつらの褒め言葉に望はスカートをつまむと嬉しそうに言う。

「アオイさんにもらったの」

 そこに大口徳之介とくのすけがやってきた。

「よく来てくれたな。ハナエは育美いくみさんとろんくんと一緒に二階で休んでるんだ」

「もうすぐ臨月ですものね。これ、頼まれたいなり寿司と、わたしと康史郎からの差し入れです」

 大口は新聞紙を開いて鯛の塩焼きを見ると、笑顔で答えた。

「ありがとう。憲子のりこさん、ちょっとお皿持って来てくれないか」

「はーい」

 厨房でフルーツの盛り合わせを作っていたかしわ憲子がやってきた。かつらを見ると笑顔になる。

「かつらちゃん、いえ、もうかつらさんって呼ばないとね」

「こちらこそ。お化粧ももっとしたいけど、化粧品は高いからお出かけするときくらいしかできないわ。とりあえずわたしも準備を手伝うわね」

 かつらはコートを脱ぐと、肩掛けかばんから三角巾と前掛けを取り出した。

「あら、そのワンピース、新しく作ったんですか」

 憲子がかつらの茶褐色のワンピースを見ながら尋ねる。

「葵さんから望ちゃんにあげる服のお直しを頼まれたときに、お礼ということで家にある古い服を譲っていただいたの。これはお母様が昔着てらしたものですって。お父様の背広も隆さんに着てもらおうと思っていただいてきたわ」

 かつらはワンピースの上から前掛けを付けながら説明した。憲子は感心したように言う。

「お直しのお仕事もがんばってますのね」

「今は学生服のお直しを頼まれてるわ。倉上くらかみ商店経由でカイくんが持ってきたの。これから新学期だからもっと増えるかもね」

「新学期か。康史郎くんもいよいよ中学三年生なんですね」

「ええ。まだどんな道に進むのか分からないけど、もうひと頑張りね」

 かつらは自分に言い聞かせるように言うと、三角巾をつけた。


 一方康史郎は、喫茶店の壁に紐で括って吊り下げられた桜の造花を見ていた。

「お花見の会って何を見るのかと思ったら、この桜のことだったのか」

「倉上商店から頼まれて、俺とリュウとヒロさんで飾ったんだぞ」

 アベック席に座っているカイこと高橋たかはし海桐かいどうが胸を張った。今日は学生服姿だ。向かいには無精髭を剃り、国民服を着た廣本ひろもとひさしが座っている。

「リュウはどこにいるんだ」

 高橋たかはし柳子りゅうこの姿がないのに気づいた康史郎の問いにカイが答えた。

「さっき二階の便所に行って、まだ帰ってこないんだ」

「それにしても、ちょっと遅くないか」

 廣本が階段を見ながら心配そうに言う。その時、二階から赤い銘仙めいせんを着た芝原しばはらあおいが下りてきた。手に楽譜を持っている。

「かつらさん、いらっしゃいませ」

「こちらこそ。今日のピアノも楽しみにしてますよ」

「今ベートーベンだけではなく、音楽の教科書や唱歌の本からも弾いてるんです。お客様が知っていらっしゃる曲だと合唱が始まったりして楽しいですよ」

 葵はそう言いながら楽譜をピアノに置く。その時、階段の上から丹後たんご育美いくみの声がした。

「葵さん、憲子さん、ちょっと来てちょうだい」

 ただならぬ雰囲気を感じ取ったのか、葵と憲子は階段に向かう。

「大口さん、後を頼みます」

 かつらも大口に言い残すと後を追った。


 二階に上がった葵と憲子とかつらを見た育美は、声を潜めて言った。

「今厠に入ろうとしたら、お客の女の子がうずくまって泣いててね。生理が来てびっくりしたみたいなんだ。とりあえず手持ちの紙綿かみめんと手ぬぐいを渡して、女給部屋で休んでもらってる。汚れた服は洗って干しとくから、一番年が近そうな葵さんの服を着替えに貸してもらえないかい」

「わかりました」

 葵はうなずく。かつらは育美に話しかけた。

「彼女は高橋柳子さん。戦災孤児になってからお兄さんと二人暮らしだったので、きっと準備してなかったんだと思います。わたしも一緒に部屋に入ってもいいですか」

「あんたの知り合いならよろしく頼むよ。あたしはハナエさんと論を下に連れて行くから、手が要るときは呼んどくれ」

 そう言うと育美は隣の大口家の寝室に入った。かつらはふすまの向こうから呼びかける。

横澤よこざわかつらです。柳子さん、入っても大丈夫?」

 ふすまの向こうから、今にも泣きそうなリュウの声がする。

「康史郎の姉さん、ごめんなさい」

「謝らなくていいのよ」

 答えるかつらに続いて、葵が申し出る。

「芝原葵です。わたくしの服を貸しますので着替えてくださいませ」

「本当?」

 ふすまが半分ほど開き、寝間着を羽織ったリュウが顔を覗かせた。頬に涙の跡がある。

「育美さんが寝間着を貸してくださったのね。良かったわ」

 憲子が安心したように言った。


 置いてきぼりの男性陣の前に、二階から顔を覗かせたかつらが呼びかけた。

「リュウさんが服を汚してしまったので今着替えてるの。もう少し待ってね」

「しょうがねえな」

 ぼやくカイに廣本が言う。

「後で服を貸してくれた人にお礼言っとけよ」

 その時、「墨田ホープ」のドアが開き、灰色の背広姿の京極隆が入ってきた。

「遅くなってすみません」

「いらっしゃい。女性陣は上で支度しているんで、俺がコーヒーをれますよ」

 大口徳之介が厨房から呼びかけた。

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