第六十三話 葵の家出作戦
十二月六日、土曜日。かつらはいつものように仕事に行くため、割烹着の上からコートを羽織った。
(カイ君たち、
かつらがバラックのドアを閉めていると、隣のバラックから
「
「ありがとうございます」
かつらは頭を下げた。
十時前、芝原家の門の前にむしろを乗せたリアカーを引いたカイとリュウがやってきた。まだ運送屋のトラックは来ていない。
「中に入っても大丈夫かな」
リュウが小声でカイに話しかけた時、家のドアが開き、セーラー服の上から割烹着をつけた少女が出てきた。両手に紐で縛った本を抱えている。その後ろから黒い背広姿の中年男性が現れ、少女に呼びかけた。
「葵様、もうじき運送屋が来ますので、お出かけはお控えくださいませ」
「この家を出る前に、もう使わなくなった教科書を片付けておきたいのです。
「それは困ります」
野川と葵のやりとりを見たカイは、すかさず大声で呼ばわった。
「俺たちくず屋だけど、不要品があるなら回収するよ」
「それは助かりますわ。いろいろ出したいものがあるんです」
葵は笑顔でカイに呼びかけた。
カイとリュウはリアカーを芝原家の玄関に横づけする。リアカーの荷台へ教科書を置いた葵は、教科書の表紙をまじまじと見つめるリュウに気づき、声をかけた。
「亡くなったお姉様から譲っていただいたものなんですけれど、わたくしも女学校を卒業したのでどうしようかと思っていたのです。もう女学校も新制高校になってしまいましたから、学校で使うこともないでしょうし」
「僕がもらっても、いいかな」
リュウの問いかけに葵はうなずくと言った。
「お姉様の布団を持ってきますので、手伝ってくださいますか」
葵は持ってきた布団を玄関で待つカイとリュウに手渡すと、部屋から持ってきた風呂敷包みを見せた。
「着替えがこの中に入っておりますので一緒に運んでください」
「君も一緒に行くんだろ」
カイが葵に話しかけたその時、芝原家の門に「
「楽譜を持ってまいりますわ」
葵が部屋に駆け戻るのと入れ違いに、野川と葵の母親らしき着物姿の女性が玄関に出てきた。
「ピアノはこちらです」
女性は作業員を案内するため室内に入る。野川が玄関横で待つカイとリュウに言い放った。
「邪魔だ、早く失せろ」
カイはリアカーを持ち上げると、玄関横にある納屋の前に止まった。
「おじさん、この中にも何かあるんだろ。もっと欲しいんだけどな」
「くず屋風情がずうずうしいぞ」
野川は慌てたようにカイに歩み寄る。
「だって、引っ越しするんならゴミがもっと出るだろ」
「引っ越しじゃない、ピアノを処分するんだ」
カイと野川が押し問答する中で、学生かばんを持ち、コートを羽織った葵が玄関から顔を出した。リュウに目で合図を送ると、小走りで門の外に向かう。葵の姿が消えたところで、リュウが呼びかけた。
「アニキ、もうあきらめようよ」
「しょうがねえな」
カイはリアカーのハンドルを持ち上げた。リュウが後ろに回ってリアカーを押す。
「葵さん、どこにいらっしゃるの」
屋内から葵を呼ばわる女性の声が聞こえてくるのを聞きながら、カイとリュウは芝原家を離れた。
「全く、時間取らせやがって」
愚痴をこぼしながら玄関に戻った野川の眼前を、布団に巻かれたピアノを担いだ二人の作業員が通り過ぎていく。
「野川、葵さんを見かけませんでしたか」
後を追うように客間から出てきた
「くず屋にいらないものを出すと言ってお部屋に戻られました」
「いつまですねてらっしゃるのかしら」
そう言いながら葵の部屋に向かった杏子は、すぐに部屋を飛び出してきた。手には畳まれた便箋が握られている。
「すぐにトラックを止めてちょうだい。あの中に葵さんが」
野川と杏子は「墨東運送」のトラックの荷台や運転席を調べたが、葵の姿はない。野川が思いあたったように声を上げた。
「そうだ、さっき来たくず屋。きっと布団に葵さまを隠して運び出したんだ」
「野川、どうしてくず屋なんて入れたの」
叱責する杏子を振り払うように、野川は作業員に呼びかけた。
「おい運転手、金は追加するからくず屋のリアカーを掴まえるんだ」
カイとリュウが
「葵さん、出てきてちょうだい」
杏子はリアカーに乗った布団を剥がし始めた。
「止めてくれよ、商売物なんだぞ」
あわてるカイを野川が押さえつける。布団を剥がした杏子は、中に入っていた教科書の束を見て立ちすくんだ。握っていた便箋が下に落ちる。
「葵さん、どこに消えてしまったの」
リュウは落ちた便箋を拾うと、無言で杏子に差し出した。便箋には葵の字で手紙が綴られている。
『お母様へ
ピアノの代金はこれまでのお礼と成田様へのお詫び代でございます。わたくしはピアノの弾ける仕事を見つけて一人で生きてまいります。どうか探さないでください。 芝原葵』
「まだ世間知らずの子どもなのに、一人で生きていけるわけがありませんわ」
杏子は手紙を受け取ると、立ちすくんだままつぶやいた。
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