第六十四話 布団と懐中時計

 十二月六日昼、縫製工場から横澤よこざわ家に戻ってきたかつらが見たのは、バラックの前に立つ芝原しばはら杏子きょうこ野川のがわゆたかだった。かつらに杏子が歩み寄る。

「あなた、うちのあおいさんを隠しておりませんか」

「葵さんがどうされたのですか」

 平静を装って尋ねるかつらに、野川が横から説明した。

「ピアノを運んでる間に家を飛び出したんだ」

「葵さまのお部屋にあなたのご住所が書かれたメモがございましたの。もしかしてあなたとお友達がかくまっていらっしゃいませんか」

「わたしは仕事をしてましたし、憲子のりこさんも住み込み先にいらっしゃるはずですわ。隠れられるとしたら台所くらいしか」

 かつらはトタンに囲まれた台所を見やる。

「では見て参ります」

 杏子は待ちきれないというように台所へ向かった。野川がバラックを見ながらつぶやく。

「しかし、この辺はまだバラックだらけだな。進駐軍相手のキャバレーを作るって聞いてたんだが」

 野川の言葉にかつらは驚いた。

「どなたから聞いたんですか」

 かつらの問いにまずいと思ったのか、野川は話題を変えた。

「それよりくず屋の二人組の子どもを知らないか。葵さんが逃げたときに私を引き留めてたんだ」

「いえ、くず屋の知り合いはいませんわ」

 そこに台所を見に行った杏子が戻ってきたので、二人の会話は途切れた。

「もし葵さんの行き先をご存じなら教えてください。早く保護しませんと」

 切々と訴える杏子にかつらはうなずいた。

「ええ。わたしも心配ですわ」

 杏子は改めて三つ編みにもんぺと割烹着姿のかつらを見つめると、ため息をついた。

「それにしても、この前いらした時とずいぶん感じが違っていらっしゃいますわね」

「工場では化粧しておりませんので」

 かつらは照れ笑いをする。杏子は野川に呼びかけた。

「お騒がせしました。野川、いったん家に戻りましょう」

 立ち去る二人を見送りながら、かつらは頭を下げた。

(ごめんなさい。葵さんにしばらく時間を下さい)


 中学校から帰ってきた康史郎こうしろうを留守番に残すと、かつらは雑貨店の倉庫で待つカイとリュウと合流し、『墨田すみだホープ』へ向かった。カイとリュウは葵の使う布団と着替えの入った風呂敷包みを乗せたリアカーを引いている。

「こいつを届けて仕事完了だからな。帰りに質屋に寄って布団をもらうよ」

 カイの言葉にリュウもうなずく。

「葵さんに女学校の教科書を譲ってもらえたから、店番しながら勉強しようと思うんだ」

「偉いわね。康史郎にも見習って欲しいわ」

 かつらはリュウを見ながら愚痴をこぼす。

「そうそう、康史郎から預かったへそくりがあるんだ。布団の請け出し金の足しにしてくれよ」

 カイはズボンのポケットから封筒を取り出すと、かつらに差し出した。

「どうしてカイ君が持っているの」

 いぶかしむかつらにカイは補足した。

「ヤマさんとの仕事代を預かってたんだ。康史郎には内緒にしてくれよ」


 「墨田ホープ」の前には「倉上くらかみ商店」と書かれた三輪オートが停まっていた。かつらがドアを叩くと、大口おおぐち徳之介とくのすけが顔を出す。

「良かった。中に入ってくれ」

 かつらたちが店内に入ると、芝原しばはらあおいかしわ憲子のりこ倉上くらかみ義巳よしみが中央のテーブルを囲んでいた。カイが呼びかける。

「布団を運んできたよ」

「ありがとうございます。二階に運びますからここに置いといてください」

 憲子が立ち上がると階段を指した。

「それにしても、倉上さんが手伝ってくれて本当に助かりました」

 かつらが礼を述べる。倉上はお茶を飲みながら上機嫌で答えた。

「箱入り娘のお届けなんて楽しい仕事はそうそうないし、先日横澤さんたちを送ったから場所も知ってたしな」

 大口が説明する。

「先週の土曜、『まつり』で横澤さんの報告を受けていたら、店にいた倉上さんが協力したいと言ってくれたんだ」

「家を出ましたら柏さまが手招いてまして、角を曲がると三輪オートがございましたので驚きました」

 丁寧に話す葵に憲子が答える。

「憲子でかまいませんわ。これからしばらくここで暮らすことになりますから、お店の皆さんとも仲良くしてくださいね」

「ピアノの件だけど、来週の土曜、ここに運ぶように運送屋さんには言ってある。後はお金を用意しないとな」

 大口は難しい顔をした。倉上が声をかける。

「またうちの内職でもするかい」

「店の開店資金から融通するよ。その代わり、芝原さんは店でピアノを演奏して客引きをしてくれよ」

「分かっております。お姉様の銘仙めいせんも持って参りましたので、着て弾きますわ」

 葵は風呂敷包みを見ながら言った。


「葵さん、お母様と野川さんがうちを訪ねてこられたんです」

 かつらは話しかけながら葵の顔を見た。表情が影を帯びている。

「お母様には書き置きを残しておきました。いずれはここにいることを連絡させていただきます」

 葵の言葉にかつらはうなずいた。

「それがいいわ。お母様は心配されてましたし」

「ところで、先日話しました古伊万里こいまりの件、分かりましたか」

「この後質屋に行くから、葵さんも一緒に行きましょう」

 かつらは葵に呼びかけた。


 かつらと葵は、リアカーを引くカイとリュウと一緒に質屋に向かっていた。

「親父さん、亡くなったそうだな。店が焼けちまったんで、親父さんに薬を届けられなかった。申し訳ない」

 カイが葵に話しかける。

「謝らないでください。わたくしも上野で靴磨きをしていらっしゃるあなたがたをお見かけして、声をかけたかったのですけれど、お母様に止められたのです。わたくしには困っているご友人を助けることもできないのかと悔しかったです」

 すまなそうに言う葵をカイは励ました。

「もう昔の話だ。今の俺たちは雑貨店の住み込み店員だし、俺たちを助けてくれる人たちもいる。まだまだ大変だけど、リュウと一緒にがんばるよ」

「わたくしもがんばりますわ」

 葵は自分に言い聞かせるように言う。かつらは店の前で立ち止まった。

「葵さん、ここが質屋よ。布団を請け出すから一緒に入りましょう」


 質屋に入ったかつらは、質流れ品が並べられる店頭を見た。葵がかつらにささやく。

「あの古伊万里の茶碗、金継ぎがございますわ。間違いなくお父様のです」

 かつらは質屋の店員に声をかけた。

「店頭の古伊万里の茶碗、おいくらなんですか」

「横澤さま、お金が足りないのでしたら、この時計を質に入れていただけませんか」

 葵はコートのポケットから、あずさの形見の懐中時計を取り出した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る