第五十九話 葵のピアノ
「ありがとうございます。次回お店にいらしたときにサービスしますね」
礼を述べるかつらに倉上は笑って言った。
「楽しみにしてるよ」
「いらっしゃいませ。お待ちしておりました」
「こちらこそ、お招きいただきありがとうございます」
かつらも頭を下げた。隣に立つ憲子が挨拶する。
「初めまして、
「お二人とも、客間へご案内いたしますのでお上がりください」
葵はスリッパを指し示した。
二人は屋敷の玄関そばにある洋間に通された。応接セットが中央にあり、部屋の隅にはアップライトのピアノが置かれている。
「お茶を持ってまいりますので、おかけになって少々お待ちくださいませ」
葵は洋間を出る。コートを脱ぎ、椅子に座ったかつらは辺りを見回した。
「このお部屋とピアノ、覚えてるわ。ただ、戦時中だったので弾いているところは見られなかったの」
「壁や棚の上にも何か置いてあったようですけど、今は何もありませんね。しまってあるんでしょうか」
「さあ」
憲子の疑問に、かつらは別のことを感じていた。
(もしかして、借金のかたに売ったのかしら)
その時、洋間のドアが開いた。お茶の載ったお盆を持つ葵と、着物を着た中年女性が立っている。かつらは女性の眼差しが自分と憲子に注がれているのに気づき、慌てて立ち上がった。
「
「柏憲子です」
頭を下げる二人に女性は話しかけた。
「葵と梓の母の、芝原
かつらは肩掛けかばんから紙袋を取り出した。憲子も後に続く。
「みかんです。少しですが梓さまにお供えしてください」
「クッキーです。お参りが遅くなって申し訳ございませんでした」
杏子はクッキーの入った箱を見て機嫌が良くなったようだ。
「葵さん、形見分けが終わったら、お二人を仏間へご案内してあげて」
「分かりました」
杏子はみかんとクッキーを持って戻っていった。
「わたくしの母です」
葵は一言だけ言うと、お茶をテーブルの上に置き、二人の向かいに座った。
「ところで、ハガキに書かれていた
かつらが話をきり出すと、葵の表情がこわばった。
「わたくしが結婚しないと、この家が人手に渡ることになるんです。結婚したら成田さまがこの家を買い取るというお約束なんです」
「まるで『
思わずかつらは声を漏らした。
「『安城家』?」
憲子が不思議そうに尋ねる。
「こないだ
映画の話を続けそうになったので、あわててかつらは口を閉じた。憲子が優しく呼びかける。
「確かに家がなくなったら困りますものね。それに梓さんとの思い出もおありでしょうし」
「ええ。ここでお姉様にピアノをご披露して、お姉様が喜ぶのを見るのが好きだったのです」
葵はピアノを見て話し続ける。
「このピアノは、亡くなった父がわたくしたちのために買ってくれたものです。子どもの頃は将来ピアニストかピアノの先生になりたかったのですけれど、戦時中はピアノも弾くことができませんでした。戦争が終わって、ピアノを思い切り弾くことができるようになったのが一番嬉しかったです。女学校を卒業してからも、ここで毎日ピアノを弾いておりました。ですが、成田さまは音楽に全く興味がなく、母もピアノを売ってわたくしの結納金にすると言い出したんです」
かつらはうなずくと言った。
「それでわたしにハガキをよこされたんですね」
「ええ。来週の土曜、ピアノを運びに運送屋さんが来るので、その隙にここを抜け出して、『
「そうだったの。柏憲子さんは今『墨田ホープ』で働いていらっしゃるのよ。来月喫茶店を開店するから、きっと葵さんも店員として働けるわ」
かつらは憲子を見る。憲子は葵に微笑んだ。
「みんないい人です。私が保証しますわ。それと、もしかしたらピアノも弾けるかもしれませんよ」
「ピアノもですか」
葵の表情が明るくなった。
「葵さんが売られたピアノを私たちの店で買い取らせてもらうことができれば、お店で葵さんのピアノを弾くことができますわ。もちろん、お金がいる話なので店長に相談しなくてはいけませんけれどね」
「ぜひ、そうさせてください」
葵の目に光が戻ったようにかつらには見えた。
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