第五十八話 芝原家への訪問
十一月二十九日の土曜日、午前中で縫製工場の仕事を終えたかつらはそのまま『
店の前には荷物台に「
「大口の旦那に頼まれた喫茶店用の宣伝マッチを納品に来たんだ。店の名前は紙に印刷して別に入ってるから、内職したときの要領で切って箱に貼ってもらうよ」
「マッチですか。炊事で使うけど粗悪なマッチが多くて、なかなか火が付かないんですよね」
かつらのぼやきに倉上が反論した。
「こいつは少し値は張るがまっとうなマッチさ」
「開店祝いで来た客に配るから、
大口の誘いにかつらは笑顔で答えた。
「ありがとうございます」
そこに
「いらっしゃいませ。ちょっと二階で準備してから行きましょうか」
コートを脱ぎ、二階に上がったかつらが通されたのは、女給たちの暮らす左の部屋だった。部屋の隅に敷かれた布団では
「かつらちゃん、ここに座って」
憲子は文机の前にかつらを連れて行った。文机の上には引き出しの上に鏡の付いた化粧台が置かれている。
「今日はお呼ばれだし、三つ編みじゃなくて若奥様風にまとめ髪にしましょうか」
憲子は化粧台からブラシを取り出した。
「若奥様って、確かにわたし婚約したけど、まだ結婚は」
「
憲子の弾む声と共に、かつらの三つ編みがほどかれる。かつらはされるがままになりながらうなずいた。
「え、ええ」
「髪が終わったらあたしの化粧品を貸すから、顔洗っといで」
かつらの背後から育美が呼びかける。
「すみません」
それしか言えずにかつらは縮こまった。
「進駐軍相手に働いてた時の残りだから、気にしないでいいよ」
ぶっきらぼうに聞こえる育美の言葉に、温もりが含まれているのがかつらには分かった。
「あんたに再会してから、憲子が見違えるほど明るくなってね。これからも仲良くしてやってくれ」
「育美さんったら」
憲子はかつらの髪をとかしながらはにかむように言う。その雰囲気は、かつての女学生時代をかつらに思い出させた。
髪をまとめ、化粧をして二階から下りてきたかつらを見た大口は驚いたように手を広げた。
「いちだんと
「お給料が払えるならだけどね」
食堂で夕食の支度をしているハナエが笑いながら言った。妊娠六ヶ月ということもあり、割烹着の上からでも大きなお腹が目立つようになっている。
「そうですよ、もしかしたら
かつらがそう言った時、荷物を運び終わった倉上が呼びかけた。
「お二人さん、これから出かけるんなら三輪オートで駅まで送ってくよ」
「それじゃ、このハガキの住所まで送っていただけますか」
かつらは葵のハガキを取り出して倉上に渡した。
「
倉上は快く引き受けた。
荷台にかつらと憲子を乗せた三輪オートが蔵前橋を渡っていく。ワンピースの上から灰色のコートを羽織っている憲子が尋ねた。
「かつらちゃん、葵さんってやっぱり
かつらは風で髪型が崩れないか気にしながら答える。
「そうね、髪は短いけど、それ以外は梓さんによく似ているわ。ただ、お姉様のようになりたくて、気が強いのをあえて隠している感じね」
「そうなんですか。きっと梓さんが生きていらっしゃったら、素敵な若奥様になられてたんでしょうね」
憲子は遠い目をしながら隅田川を見やる。かつらは膝の上に乗せた肩掛けカバンを指して言った。
「お土産と梓さんへのお供え用に、昨日闇市でミカンを買ってきたんですよ」
「私もハナエさんにお断りして、喫茶店で出す予定のクッキーを少し持ってきました」
手提げ袋を持ち上げる憲子にかつらは言った。
「喫茶店でコーヒーとクッキーか。きっとおいしいんでしょうね」
「ええ。店長さんは店に音楽を流したいようですけど、蓄音機も高いのでしばらくはラジオで我慢するそうです」
「お二人さん、道案内よろしく頼むよ」
倉上が声をかける。三輪オートは橋を渡りきり、蔵前の方向に曲がった。
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