第五十七話 忍び寄る不安
十一月二十八日の金曜日、上機嫌で「まつり」に来たかつらを見て
「いいことがあったみたいだな」
「頼んでたミシンのベルトが届いたんです。これで修理が出来ますわ」
前掛けを締めながらかつらは答える。
「ああ、雑貨屋の倉庫で見つけたっていう古いミシンか。しかし、家まで運ぶのは大変だろ」
「
「『隆さん』かい。すっかり仲良くなったな」
戸祭に茶化されたかつらはあわてて顔の前で手を振った。
「お店では『
「そうかい。
「康史郞が言ったのね」
かつらは軽く頬を膨らませた。
「ところで、いつごろ結婚するんだい」
「康史郞が中学を出るまでは待ってもらうことになってます。まだ進路も分かりませんし」
「なるほど。うちの征一は調理師学校に行く予定だけど、まだまだ漫画が好きなガキでね。育て方を間違えたかな」
味噌汁に入れる大根を切りながら戸祭はぼやく。
「でも友達思いのいい子ですよ。勉強も康史郞より出来るそうですし、息抜きの漫画くらいならいいんじゃないですか」
「征一は調理師学校を出たら、よその店で修行してもらうことになるだろうからな。とても漫画にうつつを抜かしている暇はないさ」
「本当にどこかで新しいお店が開ければいいんですけどね。さ、仕事しなくちゃ」
三角巾をつけたかつらは店へ出て行った。
時計が七時半を回った頃、隆が「まつり」を訪れた。かつらにとっては日曜日以来である。
「京極さん、いらっしゃいませ。きょうのおすすめはぶり大根です」
「なら、それと味噌汁をもらおう」
かつらがいつものように注文をとっていると、隣で飲んでいた
「大将から聞いたよ、姉さんと婚約したんだってな」
「おめでとう、これはわしからの祝い酒だ」
戸祭がそう言いながら酒の入った升を置く。
「すみません、こちらから挨拶しようと思ってたんですが」
隆は恐縮しながら升を受け取った。
「その代わり、
「本当ですか」
ぶり大根と味噌汁を差し出しながらかつらが尋ねる。戸祭は腕組みしながら答えた。
「闇市に警察の手が入る前にひとまず商売替えしようと思ってな。屋台で魚料理中心の惣菜屋を開く準備をしてるんだ。倉上の旦那や常連には申し訳ないが、風向きが変わるまでの辛抱だ」
「ここで酒を飲めるのもあと少しか。名残惜しいがお会計を頼むよ」
倉上はそう言うと立ち上がった。
会計を終えて戻ってきたかつらは、改めて隆に呼びかけた。
「そうそう、ミシンのベルトが届いたんですけど、あさっての日曜日は空いてますか」
隆は味噌汁を一口飲んでから答える。
「私は大丈夫ですが、カイ君たちの都合も聞かないと」
「ええ。仕事帰りにお店に寄ってみましょう」
かつらが言ったその時、店の裏手から声がした。
「康史郞の姉さん、ちょっと来てよ」
カイの声だと気づいたかつらは、一礼すると厨房に引っ込んだ。
「どうしたの」
裏手に出てきたかつらは幌の中をのぞき込むカイに呼びかけた。隣にはリュウもいる。
「ヤマさんが昨日店に来たんだ。釈放されたんだって」
カイの話を聞いたかつらは小声で尋ねた。
「店は大丈夫?」
「うん。今日はもう閉めてきた」
リュウが頷きながら答える。
「ちょうど隆さんも来てるし、もう少しで閉店だから厨房で待ってて」
かつらはそう言うと幌の中に二人を招き入れた。
「まつり」を閉めた後、店に残った隆とかつら、カイとリュウは店のカウンターを囲んでいた。
「夕飯まだだろ。残り物だけど食べてきな」
戸祭は味噌汁のお椀と、ぶり大根の残りの煮物を差し出した。かつらは味噌汁のお椀を取って礼を言う。
「いただきます」
「ところで、ヤマさんは君たちに何かしなかったかい」
隆の問いにカイが答えた。
「売り上げをよこせって言われたから、持ってた分を渡したんだ。後倉庫から自分の荷物を持ってった。病院のヒロさんに会ったら上野に行くって」
「上野ってことは、
かつらは隆の顔を見る。隆はたばこを吸うように口に手を当てた。
「釈放されたのが日下たちの差し金ならそうかもしれないな」
「そういえば、ミシンの修理のめどがついたから日曜に家へ運びたいのだけれど、二人はどうかしら」
かつらの問いに答えたのは無言で大根を食べていたリュウだった。
「アニキ、ミシン運ぶの手伝おうよ。お姉さんに頼まれてた湯のしの道具、手に入れたんだ。それに早く服も直したいし」
リュウは学生服のポケットから紙の箱を取りだすと、中身をカウンターの上に置いた。陶器のT字型の物体だ。
「へえ、ヤカンの口につけて湯気で毛糸を伸ばすのね」
かつらは箱書きを見て感心している。
「お母さんはこれで僕たちの古いセーターをほどいた毛糸を伸ばして、編み直してたんだ」
「そうだったの。もしあったら編み棒も欲しいから、日曜に一緒に持ってきて。お代は先に払うわね」
かつらは肩掛けカバンからがま口を取りだした。
「俺、明日ヒロさんに会ってくるよ。ミシンのことも断らないといけないしな」
カイも元気を取り戻したようだ。隆は支払いをするため立ち上がった。
「私は
「それじゃ、日曜の朝九時にミシンを取りに行っても良いかしら」
かつらの問いにカイとリュウがうなずく。
「もし男手が欲しいなら手伝うからな」
「ありがとうございます」
戸祭の申し出にかつらは一礼した。
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