第六十話 友情のセーラー服
お茶で一息ついた後、
「姉のアルバムです。女学校時代の写真もございますので、お二人にお分けしたいと思って持って参りました」
葵はアルバムを開くと、かつらと
「アルバムをご覧になっていらっしゃる間、ピアノを弾かせていただいてもよろしいでしょうか」
葵の問いかけにかつらは答えた。
「もちろんよ」
葵は椅子から立ち上がると、学生カバンから楽譜を取り出してピアノに向かった。
「誕生日にお姉様からいただいたベートーベンのピアノソナタ集です。いつかわたくしがこの楽譜の曲を弾けるようになる日を楽しみにしていらっしゃいました」
葵の指が鍵盤に触れ、旋律を奏ではじめた。室内に柔らかな音色が広がっていく。
「きれいな音ね。本当のピアニストみたい」
かつらはうっとりとつぶやく。
「『月光ソナタ』ですわね。レコードで聞いたことがありますわ」
「これは、私の引っ越し前に写真館で撮った写真ですわ」
かつらも一緒に写真を見つめた。中央に憲子、右にかつら、左に梓が立っている。三人ともスカーフを外したセーラー服にもんぺ姿だ。
「そうそう、この写真を焼き増しして三人で分けて、後ろにそれぞれの名前を書いたのよね。わたしの写真は空襲でなくしてしまったけど、また見られて嬉しいわ」
「私も朝鮮から引き揚げてきたときに全部置いてきてしまいましたからね」
憲子は遠くを見るように目を細める。そこにソナタを弾き終わった葵が戻ってきた。
「ありがとう。とても素敵な演奏でしたわ」
「お姉様もきっと喜んでいらっしゃいますわね」
かつらと憲子の褒め言葉に葵は頭を下げた。憲子が尋ねる。
「このお写真、裏に私たちの名前が書いてあるはずなんですけれど、見てもよろしいですか」
「ええ、どうぞ」
憲子はアルバムを取り上げ、ヒンジで留められた写真を取り出す。その下から、パラフィン紙で包まれた写真が現れた。
「思い出しましたわ。この時梓さんが提案して、みんなでセーラー服のスカート姿の写真を撮ったんですよね」
かつらは思い出すように目を伏せた。
「ええ、もう女学校ではもんぺで登校することになっていましたから、こっそり持ってきて思い出に撮っておきましょうって。葵さん、開けてもらってもよろしいですか」
葵はかつらから写真を受け取り、パラフィン紙を開いた。セーラーの襟に白スカーフを通し、プリーツスカートに白い靴下、革靴という女学生スタイルで三人が微笑んでいる。葵が写真を裏返すと、梓の字だろうか、文章が綴られていた。
『憲子さま、かつらさま、梓の永遠の友情を願って 昭和十七年三月』
「梓さんがわたしたちをもう一度出会わせてくれたのかもしれませんね」
かつらは深いため息をつく。憲子がもう一つの写真を裏返すと、三人が書いた名前が並んでいた。
『
「よろしければ、お二人で一枚ずつお持ちください。女学校の集合写真もございますわ」
葵に勧められたかつらは憲子に呼びかけた。
「憲子さん、わたしはもんぺ姿の写真をもらいますから、憲子さんはスカート姿の写真をどうぞ」
「そんな、かつらさんがいなかったら私はここに来られませんでしたのに」
恐縮する憲子にかつらは笑顔で答えた。
「わたしは憲子さんより長く梓さんと女学校で過ごせたんですもの、それで十分よ」
葵が補足する。
「お姉様は山の手の商家の
「お姉様のセーラー服、大切に着ていらっしゃったんですね」
憲子は葵の制服を見ながら言った。
「お姉様には学用品や教科書など、たくさんのものを譲っていただきました。わたくしも女学校を卒業しましたし、そろそろセーラー服も卒業ですね」
葵の表情には寂しさの中にも決意が宿っているようにかつらには見えた。
写真を分け合った後、三人は改めて葵を連れ出す方法について話し合った。葵が切り出す。
「来週の土曜までに、この楽譜と着替えをまとめて持ち出せるようにしておきます。もしかしてお布団も持って行った方がよろしいですか」
憲子は考え込みながら答えた。
「確かに布団があれば嬉しいですが、運ぶのも大変でしょうし、こちらでなんとかしましょう」
「ところで、ピアノを運ぶ運送屋さんは何時にいらっしゃるんですか」
かつらが尋ねる。憲子も続けて問いかけた。
「ピアノを買い取ることになったら、店長から連絡して取り置いてもらわないといけませんし、会社の名前も知りたいですわ」
「午前中に来ると使用人の
葵の答えにかつらは難しい顔をした。
「でも、午前中ということはわたしは仕事中ね。『
「私がやりましょう」
憲子の提案にかつらはうなずくと言った。
「ありがたいけど、憲子さんは今日ここに来ているから怪しまれるかもしれないわ。その代わり、わたしの友人に頼んで運送屋さんが来た時に気を引いてもらい、その隙に葵さんに抜け出してもらおうと思うの。家の外で憲子さんと合流して『墨田ホープ』へ向かいましょう」
「かつらさんのご友人ですか」
憲子が尋ねる。
「ええ、カイ君とリュウさん。戦災孤児のきょうだいで雑貨屋の手伝いをしているの。明日会う予定になっているから頼んでみるわ」
「ありがとうございます。それでは仏間にご案内いたします」
葵は一礼すると立ち上がった。
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